| 大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会が学習会 かけはし2010.1.1号 |
| 日本軍が住民を殺した事実を消し集団自決を美談と宣伝 |
【大阪】十一月二十七日、エルおおさかで、大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会の学習会が開かれ、百二十人が参加した。代表世話人の岩高澄さんが「これからも隔月ぐらいで学習会を続けていきたい」とあいさつ。また司会から、二〇〇七年の教科書検定意見について川端文科相が「問題がなく策定過程も適正」と発言した(11月18日)琉球新報の記事を紹介。検定意見撤回や軍強制記述の回復を求めてきた「9・29県民大会決議を実現させる会」や教科書問題に詳しい有識者は文相発言に疑問を投げかけ、沖縄戦の実相と歴史教科書問題の経緯を理解した上で対応するよう求めている。
元沖縄県知事の大田昌秀さんが「沖縄戦と集団自決裁判について」と題して講演した(別掲)。
質疑応答の後、小牧事務局長から、つくる会側の上告趣意書が受理されたこと、言論出版については新しい判例がつくられる可能性があること、最高裁への署名集めに全力を出そうとの連絡があった。(T・T)
大田昌秀さんの講演から
国家・軍を貫くタテの構造が「つくる会」には見えていない
玉砕を前提と
した沖縄決戦
このたびも米国で資料を調べた。赤松隊長(渡嘉敷島)命令書は見つからなかったが、慶留間島で百五十人ぐらいの島民中五十三人が集団自決した件の資料が見つかった。日本軍将校が説得して自決させたとある。
この『説得』という言葉は命令より深い意味を持っていると思う。裁判の陳述書の中で大江健三郎さんは、「日本国、日本軍、沖縄の第三十二軍を貫くタテの構造により集団自決が強制された」と言っている。
沖縄戦は玉砕を前提にした戦争だった。井原元作戦参謀の書いた『沖縄決戦』には、大本営から派遣された中野学校出の数人の将校が一九四四〜四五年始めに首里の司令部を訪れたことが載っている。彼らは、「皆さんが玉砕された後の米軍統治下の状況把握のためにきた」と言ったという。
第十軍参謀長に転任し台湾に行く前に首里に立ち寄った前三十二軍参謀長は、「本土防衛の体制はいまだ六〇%ぐらいしかできていない。沖縄戦の状況が厳しくなっても助けにいく手段はないから、そのときは玉砕するしかない」と述べている。まさに沖縄戦は本土防衛のために時間を稼ぐ捨て石作戦であった。
一九四五年四月二十六日、鈴木貫太郎首相はラジオ演説で沖縄県民と軍に呼びかけ、日本人は一致団結し敵の野望を粉砕するために戦うが、最後は一人残らず敵に体当たりを敢行すると、一億玉砕の発言を行っている。そのような状況下で沖縄に着任した牛島司令官は、「軍官民共生共死の一体化」と防諜には注意すべきことを訓辞している。長参謀長も、沖縄県民は軍の指導を素直に受け入れよ、敵上陸で食糧輸送が不可能になったときでも県民の食糧要求はきけないといっている。ニューヨークタイムズのハンソン・ボードウィン記者は、沖縄戦は醜さの極致だったと表現した。
沖縄は実質的に
「戒厳令」状況
昭和九年(1934年)ぐらいに、沖縄防備司令部の石井虎夫司令官が、沖縄防備対策を陸軍省に秘密電報で送っている。その骨子は、@沖縄戦が始まる前にまず戒厳令を敷く。民間権限をすべて軍が握るA沖縄の島を米軍に占領させないB県民は天皇の存在すら知らないものがいるから、信用がおけない。常に監視しておく必要があるC生活物資の八割は県外に依存している。敵が上陸したら輸送路を断たれるから、県民は餓死するだろう、という内容だ。沖縄では戒厳令は敷かれなかったが、敷かれたと同じ状態だった。
一九四五年一月、名護市では校長、市村長、県議会議員、医師ら三十三人で国士隊という防諜組織が秘密裏につくられ、住民の言動を首里の司令部に報告し、処刑させる役割を果たした。司令部の発行していた軍会報には、沖縄語を使った者は処分することが載っていた。このようなタテの構造が、「つくる会」には見えていない。
行政のトップは
逃げ、文書は焼却
当時、沖縄県庁の課長以上は他県人だった。一九四四年十月十日の空襲で那覇市の九〇%が破壊されたとき、県知事は普天間の壕に逃げ、その後折衝があると言って東京に出向し帰ってこず、香川県知事に転任した。那覇市長も逃げ、偉そうなこと言っていた大佐で逃げた者もいた。
このような状態で戦争が始まり、行政は本来の役割を果たせず、軍の指示通りになった。一方では、沖縄にあった十二の中学校、十の女学校生徒全員は、法的根拠もなしに戦場に動員された。「つくる会」はこういう事実にもふれない。わたしが戦場動員されたときは、熊田少佐が生徒を集めて口頭で命令した。千早隊という情報宣伝隊に配属され、任務は大本営のニュースを伝達することだった。
六月十八日各学徒隊の解散命令が出た。しかし、その同じ日に徹底抗戦の命令がでた。当時私はそのことを知らなかった。その命令書を最近米国で見つけたときはびっくりした。十八日、司令部の参謀たちは正装で酒盛りし、翌日夕刻になって沖縄の女性が着る着物に着替えて逃げるのを目撃した。司令部を摩文仁に移すとき、文書はすべて焼却するように命令された。戦争は超法規的なやり方でしか戦えないから、命令も公式的通りには行かない。
梅沢元座間味隊長は宮村幸延に酒を飲ませて酔わせてから、「集団自決の隊長命令はなかった。命令は当時の村役場の助役兼兵事主任が出した」という自分の書いたメモに印を押させた。「つくる会」はこれを命令はなかったことの根拠にしているが、兵事主任にそんな命令を出す権限はない。梅沢は、降伏時に慰安婦とつれだっていたという証言がある。
沖縄戦、開始と
終結の日はいつ?
沖縄戦はいつ始まり、いつ終わったのか。教科書では一九四五年四月一日に始まり、六月二十三日に終わったとされているが、この記述はまずい。慰霊祭は六月二十三日にやっているが、一九六〇年頃までは六月二十二日にやっていた。言い出した何人かの意見で二十三日に変わったが、二十三日は牛島司令官の自決の日(実は22日)であり、戦争終結の日ではない。
四月一日に始まったとすると、三月二十六日の慶良間諸島の七百人の集団自決は抜け落ちてしまう。当時、侍従長の天皇への報告では沖縄戦は三月二十五日に始まったとされているし、渡嘉敷島米軍上陸は三月二十七日だが、『鉄の暴風』には三月二十六日と書いてある。
米軍が最初に上陸した阿嘉島では自決はなかったが、朝鮮人軍夫三十人が飢餓に耐えかねて稲の穂を盗んだ科で虐殺されている。久米島に米軍が上陸した六月二十六日に二十人の住民がスパイ容疑等で軍によって虐殺・処刑されているし、八月十五日以降でも住民虐殺は起きている。
日本軍の正式の降伏は九月七日だ。私が摩文仁の戦場から出たのは十月二十三日だった。米軍の資料では、牛島自決は六月二十二日とある。さらに、牛島司令官と長参謀長の自決現場を米軍がとった写真では、二人の遺体を埋めた墓の間に十字架が立っていて、「地獄に堕ちろ」などの落書きが見えた。その後コンクリートの墓に変わったが、そこにも落書きがあった。
最近出版された「武士道」関係の本には、二人は武士道に則り自決し、その首級は敵に渡らないよう副官が抱えて逃げるとき、被弾してもろとも吹き飛んだと言われている。ところが、米軍の撮った写真には首がちゃんとついていた。
集団自決で悪い
のは米軍なのか
教科書問題に関連して、命令はなかったという検定意見に私は強い疑問を持っている。
戦闘の記録を見ると、命令を聞いたという証言がいくつも載っている。想像以上にひどい状況であったことが分かる。小林よしのり氏などは、集団自決について悪いのは米軍だというが、沖縄住民の感情は一九五三年までは米軍に対して良好だった。
米軍は、沖縄戦が長くなると考えていたが、予想に反し早く終わったため、十万人分の食糧と五万人分のブラウス、医薬品を持って上陸した。米軍の中には住民救出の任務を持った五千人もの軍政要員がいた。彼らは、方言しかわからない住民に対しては、ハワイにいる沖縄出身者を動員し、方言で話をさせた。食糧、薬、テントは無償で提供しくれた。事実、このときに命を助けられた人は多い。
住民の態度が変わったのは一九五三年以降だ。ブルトーザーで土地を奪われたため、人口の八割をしめる農民たちが態度を変えたからだ。すべてを米軍のせいにしたがるのは、日本軍が住民を殺したという事実を消し、集団自決を殉国の美談として宣伝したいためだ。
北緯30度、南北
を分ける軍事線
二十七年間なぜ沖縄は日本から切り離され米軍の統治下にあったのか。それは戦争に負けたためだといわれる。負けたのは日本全体なのに、なぜ沖縄だけが離されたのか。米軍は三月二十六日に、米軍政府の布告第一号を出し南西諸島の占領を宣言した。
米国に通い五年目にその理由が分かった。米国のアチソン国務長官の証言は、北緯三十度がヤマトと琉球の境界だから、とはっきり述べている。北緯三十度の以北は本土防衛の範囲、以南は南西諸島防衛の範囲だった。沖縄のことについて米国はすでに一九四三年には詳しい調査を完了していた。日本のアジア侵略の踏み台であった沖縄を日本から切り離し、非軍事化することを米国は日本占領政策の基本にした。
今年は薩摩侵略四百年、琉球処分百三十年の年だが、沖縄への廃藩置県は八年遅れた。廃藩置県は沖縄県以外では近代的国民国家をつくるためであったが、沖縄県では日本の軍隊を置く土地が必要だったためである。明治政府は沖縄の廃藩置県の時、中国との関係を絶つこと、熊本師団の分遣隊四百人を置くこと、の二点を強要した。沖縄の軍事的位置が重要だったからだ。
マッカーサーも日本占領の時、四百万の日本軍が残っているところに連合軍三十万では不安だとの意見に、沖縄の基地があればいざという時に対応できると言った。このことが沖縄軍事化の根本になった。
安保条約が国益
というのは詭弁
日米安保は日本の国益にかなうといわれている。吉田首相はこの条約を結ぶとき、「沖縄を一時的に米軍に貸与する」という文言を追加するように条約局長に指示している。もともと安保条約では日本全土基地方式だった。貸与期間はバミューダ方式だから、九十九年間という期間だ。吉田案が今も生きているのかなと思ったりする。
辺野古基地は普天間の四分の一に縮小するといわれているが、米国の会計検査院の調査では、実は航空母艦三十五隻分の大きさ、普天間より機能を二〇%強化した基地で、建設費用は一兆円から一兆五千億円、海上陸上いずれからでも爆弾を積める基地で、運用年数は四十年、耐用年数は二百年の基地であるとなっている。このような基地を認めたら子や孫の将来はどうなるのか。これが国益にかなうというなら、日本全体で担うべきだ。沖縄には独立研究所もできている。
教科書問題の根本には戦争の問題がある。(ここで大田さん、長崎の永井隆博士が二人の子どもに残した遺書「いとし子よ」を朗読)。
米国の平和学者の中にすら、日本は二〇一五年になったら核兵器を持つだろうという人や、核武装は当然のことだと思っている人がいる。また米国には政府と違って沖縄を配慮している人も多い。普天間の代替を辺野古から別の地域(米国?)に変更するのはたやすいという人もいる。ケイト研究所などは、六年以内に米軍は日本から撤退すべきだといっている。
細川元首相は二〇〇一年に「思いやり予算は延長せず」という論文を米国で発表した。米軍駐留国二十二カ国のうち、二十一カ国の負担の総額より日本一国の負担の方が大きい。こんな国は外にはない。日本政府が要請すれば基地を全部返還することは可能だ。辺野古のことに環境団体は大きな関心を持っている。基地が沖縄の経済を大きくそいでいる。今後どうなるかは、国がどちらに向かっていくかに関わっている。
(講演要旨、文責編集部)
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