かけはし重要記事

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「『反テロ』に反対」めぐる論争            かけはし2002.9.9号より

「9・11」にこだわる論理とテロリズムを拒否する論理

戦旗派の反論に応える――

 『かけはし』6月17日号に掲載した「『反テロ』に反対」を掲げる反戦運動の傾向を批判した拙文に対して、蜂起派につづいて共産主義者同盟・戦旗派(以下、戦旗派)からも反論が寄せられた(『戦旗』8月5日号 無署名論文)。
 『戦旗』新年号論文は、引用もせず出典も示さないままに私たちJRCLを「実力闘争などの主張はテロリズムであると言いなし、被抑圧民族の『やむにやまれぬ決起』に唾を吐き掛け、帝国主義に加担している」と中傷したが、これと比較すれば、「無署名論文」は論の展開が全面的なものであり、過剰な打撃主義を排して(「輩」などいささか閉口する表現もあるが)、基本的に「階級内部のともに闘う仲間との議論」というトーンで書かれているものと評価したい。
 前回『かけはし』で、引用も出典も示さないでレッテルを貼るようなデマ政治は古臭いスターリン主義のそれとおなじだ、と指摘したが、今回は無署名氏から筆者の引用の仕方が作為的であり、かつ「『反テロル』のスローガンに反対する勢力に対して『隠れざまあみろ論』と規定し、『無差別テロを容認する』と決めつけてきた」ということと併せて「このような詭弁で、他者を撫で切るような者から、スターリン主義呼ばわりされたくないものだ」との指摘を頂いた。
 該当する引用の部分とは「『テロルも戦争も反対』のスローガンで暴力革命を否定し階級闘争の武装解除を進める思想とも(『ジハード』を賛美するカクマルのごとき観念的『国際主義』とも――( )の使用は引用者)、はっきりと分岐し、反帝潮流の建設に邁進していかなくてはならない」の(cc)内の部分が説明もなく削除されている、ということだ。これをもって戦旗派は「われわれのカクマル批判を削除して、われわれを『隠れざまあみろ論』だとする印象を少しでも強めようというのだろうか」とのことだ。
 しかし、指摘された引用部分の文脈をたどっていけば、「テロにも報復戦争にも反対」を掲げる傾向や中核・革マルの「9・11賛美」とも違う、「9・11は支持しないが、『テロ』と『戦争』を並列させて反対するのは誤りではないか」「いま『反テロ』をスローガンにするのはブッシュやシャロンの『反テロ』に同調する結果になり、民衆をブッシュの側に追いやるのではないか」という傾向であることを前提として、引用をもって戦旗派と蜂起派の立場を正確に紹介している。
 引用する際に、不必要な短いセンテンスを論旨を損なわない程度に削除することが、どうして「作為的な引用」になるのだろうか。
 戦旗派にとって、なぜ私たちが「9・11」批判にこだわり、「9・11」の大量殺人を賛美したり、あるいは軽視する左派の傾向を批判するのか、まったく理解できないらしい。「『かけはし』の諸君が、どうしてこうも『テロ反対』のスローガンに固執するのか不明である」とのことだ。
 そして、私たちの批判を「今頃になって、『反テロ』を掲げない者を自派の拡張だけを事とする輩が自派の利害のために批判している」と戦旗派が受けとめていることが「無署名論文」には示されている。
 「今頃になって」とは、驚くべき表現ではないか。三千人もの労働者民衆を瞬時に抹殺した大量殺人は戦旗派にとっては、はや「昔話」になってしまったのだろうか。
 また「労働者階級・人民の解放のためにたたかう政党が、無差別殺人に反対なのは当然のことだ」としつつも(もっとも一般的に否定すると言うだけで、「労働者・人民」に対する大量殺人への怒りは微塵も示したことはない)、9・11テロに関しては「米国防総省とニューヨーク世界貿易センタービルに対する攻撃の真実は未だに明らかではない。この状況下で、9・11の総体的政治評価をおこなうことは今もって困難である。未だにだれが何の目的でおこなったのかは明らかになっていないからだ。(中略)むしろ、明らかになってきていることは、米帝―ブッシュ政権が『9・11』の攻撃が準備されていることを察知しながら、放置した、ということだ。ブッシュ政権は、この攻撃への防御措置をとるどころか、この攻撃に対する報復戦争をこそ準備していたのではないか」との見解を示している。
 ブッシュがアメリカに対するなんらかの攻撃があり得る、と察知していたことは間違いはないだろう。しかし、泳がせていた「テロリスト」がブッシュの予測を上回る打撃を与えたのか、あらかじめブッシュは「9・11」級の被害を予測していたのか、完全にCIAの自作自演なのか、それこそ現在のところホワイトハウス以外は誰にも分からないことである。大量殺人は否定するが、「9・11」の主体と目的が不明であるから評価は下せないというのは、まったくあきれた待機主義としか言いようがない(実行主体によっては「9・11」を評価し得る側面もあり得る、というニュアンスも含まれているようだ)。
 明らかなことは、誰がどのような目的であれ、あの攻撃によって三千人もの労働者民衆の生命が理不尽に奪われたことである。そして、大統領選挙において票数ではゴアに負けた威信なき大統領・ブッシュが「9・11」を機会に支持率をはね上げ、京都議定書問題や人種差別撤廃国際会議、ミサイル防衛問題などでの国際的孤立から抜け出す機会を与えたことである。
 また、シアトルからジェノバにかけて、大衆的実力闘争の巨大な津波と化して高揚した反グローリズム運動に一時多大な困難を与え、WTOなどにおいてアメリカの独善的な振る舞いを追及していた第三世界諸国をブッシュの唱える「反テロのための結束」の前に沈黙させることになったことである。そしてもっとも核心となるのが「9・11」こそがアフガン侵略戦争の直接の引きがねをひいた、ということである。
 帝国主義や国家権力による殺りくは許せないが、「テロリスト(この場合、戦旗派はなんと言うのか不明だが)」による殺りくは判断を保留するという態度は、ある種の人命軽視思想の表現である。戦旗派の立場が「隠れざまあみろ」論でないと言うのなら、「9・11など大したことではない」論と言い換えても差し支えはないだろう。
 私たちは、帝国主義に生命を奪われようが、「テロリスト」に生命を奪われようが、理不尽に生命を奪われたという意味において、同様に糾弾されるべきものだと考える。
 現在においても「9・11」への怒りを煽り、新たな「テロの危機」を叫びたて、戦争へと動員しているブッシュに対して、左派の側こそが戦争の直接の口実を与えた「9・11」を徹底的に弾劾することなくして、アメリカの横暴を根底から告発し、新たな侵略戦争を阻止することは出来ない。問題は、「9・11」に正当な怒りを持つ圧倒的多数の民衆をブッシュと私たち左派のどちらが獲得するのか、ということなのだ。
 それは、口先だけのカンパニアの問題ではない。とりわけ、左翼党派自らのセクト主義的・独善的暴力行使によって左派が陥没した日本の状況においては、左派こそが人命をもっとも尊重し、人権のもっともラジカルで断固とした擁護者であることを広く民衆に示していくことなくして、私たち左派総体が国家権力と帝国主義に対して重大な挑戦を突きつける勢力として浮上することはありえないのだ。それこそが、私たちが左派総体の問題として、そして社会主義革命運動の再建の重要な命題として「9・11」にこだわる本質的な根拠である。「お互いそれぞれのスローガンで頑張ろう」と済ますわけにはいかないのだ。
 戦旗派の反論の軸は@「テロル」という国家権力の側の宣伝用語を反戦運動が掲げるのは誤りであり、帝国主義の流布するイメージを拡張している。A『かけはし』の主張は「9・11」―無差別テロル―テロル―暴力一般の否定に行き着いており、実は労働者階級・人民が階級闘争の暴力的な発展に進もうとすることを制動する論理である。Bブルジョアジーに巨大な打撃を与えるようなゲリラ・パルチザン戦闘が結果として「テロル」と呼ばれることはある、という意味で、「テロル」という戦術はあり得る――というところにあると思われる。
 大衆的反戦運動のスローガンとしての「テロにも戦争にも反対」は、「9・11」を指したものだということは前稿で指摘した。そして私たちは、人命尊重とヒューマニズム的観点からのみ「無差別テロ」だけを糾弾しているわけではない。ましてや、戦旗派が私たちをそう描き出そうとしているように、大衆運動のすべての成果をおとしめようとする権力によって「テロ」と名付けられるような行動一般に対して反対しているわけでもない。
 私たちは、革命運動に混乱をもたらし、後退を余儀なくさせ、大衆運動でなく国家権力を強化する少数集団の「実力行使」を挑発行為=テロリズムとして一貫して反対してきた。
 以下の一九一一年のトロツキーの論考を紹介させてもらおう。
 「テロリズム的行動によってはるかに混乱が引き起こされるのは、労働者大衆の隊列の中である。所期の目的を達成するのにピストルで武装すれば十分だとすれば、階級闘争の苦労が何になろう? 閣下の位を持つ人物を爆発の轟音でおびえさせることに意味があるとしたら、党が何になろう? 議会の傍聴席から大臣の席を狙うのがそんなに簡単なことならば、集会や大衆的アジテーションや選挙が何になろう? テロリズムがわれわれから見て許しがたく直接的に犯罪的なのはまさに、それが大衆を彼ら自身の意識の中でおとしめ、自己の無力さに安住させ、そのまなざしと希望を、いつかやってきてその使命をいつか果してくれるであろう偉大な復讐者と解放者の側に向けてしまうからである」
 「テロリズム的行動が『効果的』であればあるほど、それが大きな印象を引き起こすほど、それだけますます大衆の自己組織化と自己啓発に対する関心を低めることになる。しかし、爆発の煙が晴れ、パニックがおさまり、殺された大臣の後任者が登場すると、生活は再び旧来の軌道に戻り、資本主義的搾取の車輪が以前と同じように回転し、警察の弾圧だけが過酷で下劣なものになる。そして、その結果、燃え上がらされた希望と人為的に掻き立てられた興奮の後に、幻滅と無気力とが始まる」(『テロリズム』 新時代社パンフレット『無差別テロと報復戦争』所収)。
 私たちがテロリズムに対置してきたのは、一貫して大衆運動であり、大衆的実力闘争であった。「無署名論文」が「極めて意義のあるたたかい」として評価している一九七八年三月二十六日の管制塔占拠闘争は、いかなる意味においても「テロリズム」などではない。管制塔占拠は、「開港実力阻止、空港包囲・突入・占拠」のスローガンのもと大衆的に呼びかけられ準備され、空港施設のみに打撃を限定し、空港反対同盟農民のコンセンサスと協力があってはじめて実現されたものだ。
 管制塔占拠闘争は、ガードマンも含めて空港構内の労働者には手出ししない、人質は取らない、機動隊に対してさえ不必要な殺傷は行わないという高いモラル(しかし人間として当然の)のもとで闘われたのだ。だからこそ、国家権力の総力を挙げた「過激派キャンペーン」にもかかわらず、幅広い支持を得ることが出来たし、「成田治安法」制定攻撃にもかかわらず、十年近くに渡って二期工事を阻止する力関係を形成することが出来たのだ。
 私たちは、戦旗派の言う「ゲリラ・パルチザン戦闘」が戦術として有効な局面があり得ることを否定していないし、情勢によっては有効であることも多いにあり得ると考える。しかし、軍事的グループを組織して国家権力と対峙しながらそのような戦闘を継続して行い勝利し得るのは、全民衆的な階級戦争、あるいは民族解放戦争の局面だけである。
 大衆を基盤にし、「実力闘争」や「武装闘争」そのものが大衆運動として成立するような状況があって、はじめてその成果が有効なものになり得るのである。三里塚には、国家権力の全体重をかけた攻撃をはね返した農民の大衆的決起と、その農民を支援する相対的に層の厚い全国運動が形成されたからこそ、全体の階級情勢から突出した「階級戦争」の萌芽的な戦闘的空間が現出し、大衆的な実力闘争が可能となったのだ。
 労働者民衆は、そのような大衆的実力闘争によって社会主義革命運動に幻滅して離れていったわけではない。大衆運動を基礎としない腐敗した主観主義的な「暴力」にこそ、労働者民衆は幻滅したのだ。連合赤軍による民間人を人質にとっての銃撃戦と「総括」という名の同志虐殺、赤軍派による民間人を巻き添えにしてのハイジャックやテルアビブ空港乱射をはじめとする極左冒険主義戦術、東アジア反日武装戦線による四百人の労働者を殺傷した爆弾闘争、中核・革マル・解放による内ゲバ相互せん滅戦争、そして現在においても三里塚闘争の輝かしい数々の実力闘争の歴史に泥を塗りつづけている農民不在の党派カンパニア的放火個人テロや実害打撃ゼロの「ロケット弾ゲリラ」……。戦旗派が、これらのテロリズム=反民衆的所業にあいまいな態度をとりつづけてきたことと、「9・11など大したことではない」とでも言うような態度は一体のものなのだ。
 ブルジョアジーの「宣伝」を理由にして、これら「左派内部」のテロリズムを黙認することは、その挑発行為と同様の労働者民衆への無責任性の表れなのである。私たちは、私たち左派の主体的な問題として、「(革命的)暴力」や「テロリズム」の問題を捉え返していかなくてはならない。「9・11」はその重要な契機をすべての左派に突きつけているのである。
 私たちの主張の核心は、実行される「実力行使」が大衆運動に根ざしたものであるか、その行為が労働者民衆に支持され、そして大衆の組織化を推し進めていく性格のものなのか、ということである。そのような「実力行使」こそ、私たちは「テロ」ではなく革命的暴力と呼び、共感し、支持し、連帯するだろう。あるいは自ら作り出していこうとするだろう。
 戦旗派は「テロル一般の否定―暴力一般の否定というスライドした主張を前提として、あらゆる階級闘争と民族解放闘争を『価値判断』するなどという論理ならざる論理こそが、帝国主義足下の『左翼』の尊大な『評論』である。問われていることは、一つ一つの闘争に関しての情勢分析、歴史分析に基づいた理解と主体的連帯の中身である」と反論する。この「テロル一般の否定―暴力一般の否定というスライドした主張」などという前提自体が成り立たないことが、ここまでの議論で分かって頂けたものと思う。その上で、諸外国の大衆運動、被抑圧民族・第三世界民衆の闘争に関してまるで「価値判断」をしないのか、と問いたい。
 「反帝国主義」や「反米」などのスローガンを掲げながら、反民衆的な殺りく行為に手を染め、あるいは運動そのものを後退させる戦術を選択しつづけている勢力は、数え挙げればきりがないほど世界には存在する。戦旗派はたとえば、その支配地域において横暴を極めたセンデロ・ルミノソや、「反ユダヤ主義」を憲章に掲げるハマスをどのように評価しているのだろうか。
 これらについて評価判断を下さず「一つ一つの闘争に関しての情勢分析、歴史分析に基づいた理解」にとどめるとでも言うのだろうか。一般的にはそれこそを「評論」と言うのである(ちょうど「無署名論文」の「9・11」評価がそうだ)。しかし、社会変革の主体の政治性とその戦略・戦術を「判断保留」して被抑圧民族に迎合するなかに、豊かな国際主義に彩られた「主体的連帯の中身」など存在しない。
 そして国際連帯とは、破産したスターリン主義者のそれのような「国際的な党派間の友好的お付き合い」などではなく、当然のことながら民衆の利害を基準にして形成されていかなければならない。真剣な相互討論・相互批判、必要ならば仮借なき批判を加えることが多いにあり得るのも国際連帯なのだ。他国の政治勢力の戦略・戦術に「評価を下さない」という態度で、労働者民衆多数の信頼を勝ち得ることは出来ないのである。   (二見 陽)


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