かけはし重要記事

frame01b.html

もどる

ケン・ローチ監督作品 カンヌ映画祭脚本賞受賞    かけはし2002.9.16号より

『ブレッド・アンド・ローズ』

尊厳をかけ団結して起ち上がるアメリカ移民労働者の闘い

 ケン・ローチがアメリカ移民労働者の闘いを描いた映画「ブレッド・アンド・ローズ」と、イギリスの国鉄民営化によって翻弄される労働者を描いた映画「ナビゲーター」が、東京で公開されている。昨年のイギリス総選挙では、ケン・ローチはトロツキストを中心とする社会主義連盟の選挙戦用映画を監督した。



 『大地と自由』『ケス』などの代表作で知られるイギリスの社会派映画監督、ケン・ローチが二〇〇〇年に製作した『ブレッド・アンド・ローズ』が銀座のシネ・ラ・セットで先月の三十一日から公開されている。
 デビュー当時から資本主義による経済的、精神的、文化的搾取をうけている労働者階級の現実への鋭いアプローチを続けているケン・ローチが本作で取り上げたのは、アメリカで清掃労働者として働く移民たちである。彼らの多くがアメリカに正規の手続きを経ずにやってきた不法滞在者であり、そのためにアメリカ社会の中で法定基準以下の労働条件で働かされているのである。ブレッド(パン)はそんな彼らにとって生きるために必要な最低限の賃金、ローズ(ばら)は人間らしく生きるための文化的、健康的な生活水準をあらわしており、一九一二年にアメリカで移民の労働者たちが実際に掲げたスローガンでもある。
 ロサンゼルスで働く姉を頼ってメキシコから密入国した主人公マヤはビルの清掃員として働き始めるが、仕事の斡旋料としていきなり二カ月間の給料半額カットを言い渡される。職場は自分と同じような南米などからの移民がほとんどであった。
 ある日、マヤは仕事中に警備員に追われている清掃労働者組合のオルガナイザー、サムを助ける。サムは、清掃会社が労働者に払う賃金が十七年前の一時間あたり八ドル五十セントから大幅にダウンしていること(現在は五ドル十七セント)、本来保障されるべき福利厚生が無視されていることなどをマヤに説き、会社が今まで不当にピンハネしていた賃金を取り戻すことを説く。姉のローサは、組合に入れば会社に解雇されて本国に強制送還されてしまうからとサムを追い返すが、マヤはサムの主張に興味を持つ。
 ある日、同僚が遅刻と眼鏡を忘れたことを理由にその場で解雇を言い渡される。目の前の不当な解雇にもだれも何も言うことが出来ない。マヤはサムに相談し、同僚たちとともに職場で会合を開く。懐疑的な労働者たちに、サムは清掃会社に直接圧力をかけるよりもビルの管理会社やテナントに圧力をかける方がはるかに効果的で現実的に問題を解決できる、と訴える。
 多くの労働者がサムの提案に賛同し、彼の進める`Justice for Janitors(清掃員に正義を!)aキャンペーンに参加することを決意する。だが、翌日サムの書いたメモが残されているのを現場監督が発見し、組合に入れば解雇すると労働者たちに脅しをかける。
 色々な圧力にも関わらず清掃労働者たちは自分たちの権利を求めて行動を開始する。裁判所の判決文を片手に昼休みをまず要求し、勝ち取る。ほかの職場で自分たちと同じような境遇におかれている労働者たち、教会、NGO、などとともに集会に参加し、街頭でのキャンペーンを展開する。マヤたちはビルのテナントのパーティに乗り込んで清掃労働者の過酷な実情を暴露し、パーティ会場にオフィスから出たゴミをまき散らすというパフォーマンスを行う。行動は成功し、TVでも取り上げられる。
 だが、この行動に部外者が含まれていたことを理由に六人のマヤの同僚が指名解雇されてしまう。六人の中には実際には参加していないルーベン(大学への進学が決まっていた)もいたことから、マヤは監督に抗議するがルーベンの解雇は撤回されず、またマヤも解雇される。入学金が払えなくなってしまったマヤはガソリンスタンドから金を盗んでルーベンに届ける。不当解雇にも屈することなく`清掃員に正義を!aキャンペーンは大きな広がりを見せ、マヤたちの不当解雇撤回を求めてついにビル内での大規模な抗議集会を開くことに成功する。
 警察の介入でサムやマヤたち主要なメンバーは逮捕されるが、会社側はこれ以上の抗議の大規模化をおそれて、六人の不当解雇撤回と、適正賃金の支給、福利厚生の拡充などを約束する。しかし、マヤは指紋の照会でガソリンスタンドの一件がばれ、メキシコに強制送還されてしまうのだった。
 この作品で描かれているアメリカの清掃労働者の活動、`清掃員に正義を!aキャンペーンは現在も実際に行われていることである。移住労働者の問題や彼らの闘いの困難さなどは、たとえオルグの呼びかけに対する多少の温度差はあるとはいえ、日本の労働者階級の状況と驚くほど似ている。
 搾取されている組織されない多数の労働者、闘うことを拒否して政党へのゆ着に精出すナショナルセンター、(サムたちは決して組合本部のバックアップで活動しているわけではなく、むしろ鼻つまみ者的存在である)など、これはまさしくわれわれの前で今日進行中の現実である。
 資本主義の発展がマルクスの言う通り`世界の地域的、民族的経済を破壊し、世界の労働者階級に共通の利害関係をもたらすaことによってその最後的形態をとるのであるならば、労働者を個別化し制度の周縁部におくことによって生き残りをはかろうとする資本からの攻勢に立たされる労働者の姿は世界共通なものとなるだろう。
 そして、もし`現実は映画のようにいくものかaなどというくだらない陰口をきく読者があるのなら(もしいるのならだが……)、その人はまず『ブレッド・アンド・ローズ』の世界と日本の状況で何が違うのか、そのことをもっと真剣に考えるべきだ。少なくとも、労働者階級のさらされている現実はそう大差のないところである。
 ケン・ローチの作品で特徴的なのは、台詞をすべて脚本で決めてしまわず物語の方向だけを設定し、あとは役者の即興、自主的な思考に任せるドキュドラマという手法である。このため、作品にはプロの役者だけではなく実際に難民であったり、労働者であったりする素人の役者を起用する(作品によっては大半が素人)。
 『ブレッド・アンド・ローズ』でもマヤの同僚役に実際のビルの清掃員(ともに20年近いキャリア)をやっている者、あるいは本物の`清掃員に正義を!aのオルガナイザー、さらにはエルサルバドル国民戦線の元メンバーなどが配役されている。また、労働者を現場でいじめ抜く監督役のジョージ・ロペスが、実はアメリカのラテン・コミュニティーや社会問題をネタにする`社会派aコメディアンであったりするのも面白いところである。
 したがって、彼らにとって台詞は単に脚本を覚えて`それらしくaカメラの前でしゃべる、というだけではない。演技者は台詞をカメラの前でしゃべることによって観客や他のキャストに自分の思いをぶつけ、アジテーションしているのである。こうしたドキュドラマの手法は単に物語りを迫真的なものにするという表層的効果以上に、撮影現場において、また映画館において見る者や演じる者に対する教育的効果(ブレヒト言うところの異化作用)をねらったものである。台詞とは演出の都合ではなく、生きた言葉であり闘う者の呼びかけである。
 こうした異化作用のためには、物語の結末はあえてカタルシス(浄化作用、つまり感動的ラストをもうける)を廃したものが望ましいとされる。というのは、カタルシスから遠ざけられた(解放された)観客はカタルシスのない物語の`違和感aによって初めて物語りから現実世界を読み解く糸口を得るからである。
 ケン・ローチの従来の作品もこれに従ったものが多かった。『リフ・ラフ』では恋人が麻薬の誘惑に負け、職場を解雇されたロバート・カーライルが職場であった建設現場に火を放ち寂しい笑い声を挙げるところで終わり、『レディーバード・レディーバード』では主人公のかんしゃくが収まったところで物語の結末が未完のまま訪れる。
 別に何かが解決されるわけでも誰かが救われるわけでもない。もちろん、その逆でもない。しかし、『ブレッド・アンド・ローズ』ではケン・ローチ作品としては珍しく一定のカタルシスが与えられるものとなっている。闘争は勝利し、労働者の権利は勝ち取られる。マヤの強制送還はあるけれども。
 これが果たしてアメリカ(多少なりともハリウッド資本の影響下で制作しなければならなかった)での撮影という条件による望まざる産物なのか、それとも新しいケン・ローチの方向性なのかこの点について断言はできないが、しかし「移民の問題は社会階級の発達に伴う産物で、経営者にとっては自分が使う相手の国籍や肌の色はなんだっていい。つまり、裕福なアメリカ人と同じように裕福なメキシコ人は逆にうまくやっていける」と述べる彼が、はっきりとした階級的視点でもってこの作品を世に送り出しているのは間違いがない。同じ劇場で午前中公開の『ナビゲーター ある鉄道員の物語』(二〇〇一年)が気になるところである。   (三宅かおる) 
ケン・ローチ監督へのインタビュー

『ナビゲーター  ある鉄道員の物語』をめぐって


 「ナビゲーター」の公開上映から数週間経ったが、ケン・ローチ監督が、自分の映画およびイギリスの鉄道の情況、そして新自由主義的グローバリゼーションから生れた新たに賭けられるようになっているものなどの問題について立ち戻って語ってくれた。

鉄道員が書き、鉄道員が演じた

――映画「ナビゲーター」は鉄道労働者に関するきわめて詳細な知識を持っていることを証明しています。これはどこから得られたものでしょうか。

 映画のシナリオはロブ・ドーバーによって書かれました。彼は十七年間鉄道線路の仕事をしてきました。映画は彼の知識と経験を反映しているものと期待しています。他方で、多くの配役が、現役と元の鉄道員たちによって演じられました。撮影中、私のもとには助言してくれる専門家がずっといたのです。

国鉄民営化は何をもたらしたか

――あなたの映画は鉄道民営化の結末を示してます。イギリスの鉄道はどうしてこんなになってしまったのでしょうか。

 鉄道は、マーガレット・サッチャーとジョン・メジャーによって最後に民営化された大産業です。サッチャーとメジャーの二人は、民間資本と市場メカニズムだけが効率につながり、生産性の上昇につながると信じ込んでいました。
 その結果は、他のすべての民営化と同様に悲惨なものでした。合理的な社会では、社会の必要とそれらを充足する社会の能力との間に均衡が存在しているでしょう。そこでは考え抜かれた秩序だった資源利用がなされるでしょう。また十分な賃金と仕事保障を伴った良好な職業養成条件と労働条件が実現されるでしょう。だが、民間資本の必要は以上のような要求とは両立しません。
 鉄道は、まだ公的所有にとどまっていた段階ですでに、別々の単位に分割されました。彼らは線路と列車運行について異なる買い手を探しました。労働条件は悪化しました。安全手順は変更されました。数千人もの熟練労働者が鉄道を去りました。数世代にわたって労働者によって作り上げられてきた安全運行の鉄道文化は意識的な攻撃にさらされました。
 労働党政府は現在の混乱に驚いたようです。しかしながら、こうしたことは鉄道員によって予測されていたことなのです。労働党政府は、前政府と同じようにイデオロギー的に民営化を支持してます。再国有化を要求する途方もないほどの大衆的な支持が生れているにもかかわらず、この政府は、鉄道を公的所有に戻し最も先進的なテクノロジーを使ってその名に値する交通システムを発展させることを拒否しています。そうはせずに、政府は鉄道各部門の民間経営者への補助金を増額しており、混乱は続いています。

新しい国際主義が求められている

――グローバル化された資本主義の拡大は、労働者の連帯という考えそのものを破壊しつつあります。これはそんなに有望な見通しではありません。この点についてどう思いますか。

 それは本当です。今日、最速での利潤を求めて一瞬のうちに資本を全世界に移転することができます。この自在の能力は、労働運動にとってはひとつの難題です。イギリスの多くの労働組合の官僚的指導部はそれに対応できていないように思われます。だが、不安定雇用と変形労働時間制に反対する闘いは、新しい国際主義を要求します。われわれがとりわけ新「統合」ヨーロッパにおいていくつかの勝利がかちとれる最小のチャンスをものにするためには、下からのつながりを発展させなければなりません。このようなつながりが機能するのを見るチャンスがある度に、私はいつも、開花だけを望んでいる巨大な善意と連帯の意識に驚かされます。

鉄道の再国有化と労働者管理を

――映画「ナビゲーター」は労働者にとっては非常に暗いストーリーになっていますが、今日、別の展望は存在しないと思いますか。

 実際、映画の結末は暗いものです。われわれは偽りの希望に陥りたくないからです。危険な労働と不安定な労働条件は、民営化の不可避的結末であり、個々人の不運ではありません。実はたったひとつの脱出口しかないのです。それは鉄道を公的所有に戻すことです。これは、それを利用している人々と協力しながらそこで働いている人々によって管理されるでしょう。

――もし何の制約もなければ、あなたの夢の映画はどのようなものになるでしょうか。

 私の夢の作品は次回作です。私の夢の映画はそれとは別のものでしょう。おそらく、それは、われわれが鉄道の場で実現されるものと期待している諸原則に従って機能する映画でしょう。(「ルージュ」02年2月14日)


もどる

Back