| フランス「変わることなき終生の元トロツキストの死」 かけはし2002.9.16号より |
一九六〇年代末に国際的に展開された、大衆的で戦闘的なベトナム反戦闘争を生み出す上で重要な役割を果たしたのが、ベトナムにおけるアメリカの戦争犯罪を暴くラッセル法廷の運動であった。このラッセル国際法廷で、哲学者のバートランド・ラッセルと並んで、中心的役割を果たしのが、フランスの世界的な大数学者、ローラン・シュワルツであった。以下に紹介するのは、この元トロツキストの数学者を追悼する『ルージュ』紙の記事である――編集部。
ローラン・シュワルツが二〇〇二年七月四日に八十七歳で死亡した。彼と知り合い、数十年来の彼の数多くの闘いに参加してきた人々は、心からその死を悲しんだ。なぜなら、もう彼と接することも、愛することもできないからである。
彼は、一九五〇年にフィールズ賞(数学の世界におけるノーベル賞に匹敵する賞)を受けた、現代フランスの最も有名な数学者であった。だが、ローラン・シュワルツは、偉大な科学者(蝶の大収集家でもあった)であることに満足してはいなかった。若い頃から、彼は政治活動に身を投じてきた。フランス人民戦線が最高潮を迎えていた二十一歳の頃、モスクワ裁判が彼にフランス共産党への入党を思いとどまらせた。『ル・プティ・パリジャン』紙に掲載されたフレッド・ゼレとのインタビューにひかれて、彼はトロツキスト運動に加わった。それから十一年間、彼はこの運動にとどまり続けたが、一九四七年にこの運動を離れることになった。彼によれば、この運動が「全く硬直化し、現実離れしてしまった」と考えたからである。
だが、予定よりも早く不意に引退してしまったかの有名な社会党指導者(ジョスパン前首相のこと、彼はかつてランベール派のメンバーであった)とは反対に、シュワルツは一貫して、この最初の参加によって彼自身の中に形成されたもの、この参加が防衛すべき大義を選択する場合に彼に教えてくれたもの(反植民地主義、国際主義)をあくまでも称賛し続けた。
「終生の元トロツキスト」というこの「定式」を最初に提起したのは彼であった。そして、自分がかつてトロツキストであったという過去を決して否認しない多くの元トロツキストに対して、それ以降、人々がこの彼の定式を使用するようになった。
第四インターナショナルから離れたからといって彼が活動を止めるはずはまったくなく、その力を使い尽くすまで活動を続けた。反植民地闘争への彼の参加のきわめて明快な例は、アルジェリア戦争に対する彼の闘いである。一九五七年に、フランス軍空挺部隊隊員によって、彼の生徒でもあったアルジェリアの共産党青年、モーリス・オーダンが拷問され、虐殺された。この時、シュワルツは、青年の不服従の権利を宣言したかの有名な「一二一人の宣言」に名前を連ねた。このために彼は、二年間、その教職のポストから罷免されるという代償を支払うことになった。
その後、彼は、ベトナム、ソ連邦や東欧諸国、アフガニスタン、チェチェン、モロッコ、ウルグアイなどのすべての反植民地主義の闘争や国際主義的闘争に参加した。とりわけベトナムは、二〇歳であった一九三五年以来、彼に深い刻印を残してきた。彼は、アンドレ・ヴィオリの「インドシナSOS」をむさぼるように読んでいたし、アメリカの戦争に抗議するすべての運動に、とりわけCVN(ベトナム委員会とラッセル法廷)の運動に参加した。ラッセル法廷は、一九六七年に、ベトナムで本当にジェノサイドが行われたかどうかを裁くために現地調査団を派遣した。
彼は自分の力のかぎり、闘いを続けた。二〇〇〇年十月においてもなお、アルジェリア戦争時の拷問を認め、それを弾劾することを求める、シラク大統領とジョスパン首相宛ての正式の訴えの署名者に名を連ねていたのである。
幸いなことに、ローラン・シュワルツはわれわれのために自分の回顧録を書いてくれた。五年前、彼は、全生涯にわたって自分のしてきたことのすべてと、なぜそうしたかをそこで詳細に記した。大きな教育的配慮から、彼は平均的読者に対して、自分の数学的発見を扱った個所は専門家にしか理解できない内容だが、この個所がこの本の約一五%しか占めていず、そうした個所を支障なく読み飛ばすことができる、と予め知らせてくれている。だから、われわれは友人たちに残りの八五%を読み、再読するよう勧めたい。それを読むのは決して損することではない。(「ルージュ」02年7月18日)
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