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アギトンさん迎えて講演集会             かけはし2009.12.14号

「新しい運動文化」とWSF

社会を変革する労働者・民衆の運動を問い直す

 【宮城】来年開催予定の「地域社会フォーラム」プレ企画として、ブラジルとフランスからゲストを迎え、東京と大阪で集会が開催された。仙台での企画もその一環で、十一月二十七日に行われた。仙台集会実行委員会が主催した。「もう一つの世界は可能だ」をかかげた世界社会フォーラム(WSF)十年の歴史を振り返り、「社会を変革する労働者民衆の運動」の状況と課題を考える場として設定され、宮城全労協の組合員など四十人が参加した。
 講演の内容は、WSFの運動紹介というよりは、現に発展している「新しい運動文化」が左翼や労働組合に投げかけていることをいかに理解すべきか、というアギトンさんからの問題提起となった。

三つのテーマ
に沿った講演

 講演は三つの大きな流れにそってなされた。第一に今日の状況、第二に新しい運動の発展、第三にWSFが問いかけている問題について。以下、発言の要旨を紹介する。時間が足りず、気候変動問題は残念ながら省略された。
 第一について。市場原理主義の崩壊は左翼と労働組合のチャンスであるはずだが、日本では共産党や社民党の伸長ではなく、民主党政権の誕生をもたらした。左翼の状況は世界的に同様だといえる。体制内システムが労働条件などを改善するから、もはや左翼や労働組合は必要ではなくなったということか。あるいはサッチャー政権下の英国のように、運動が壊滅させられたのか。そのような解釈では説明がつかない。なぜなら「この二十年間、新しい運動が世界中で発展してきている」からだ。
 アギトンさんは、二十世紀労働組合や左翼の「教義」、とくに「目的、戦略、そして労働者階級と政党について」検証すべきだと強調した。たとえば、グローバル化によって企業は複雑になっており、「六〇年代のような国営化、計画経済の主張」は簡単なものではないだろう。「グローバル企業がどこかの国で国営化された場合、おそらく世界中で三分の二の労働者を解雇するだろう」。あるいは政党や階級は、かつてのように「自明のもの」といえるだろうか。「新しい運動においては、農民、先住民、女性などがみずから発言し先頭に立っている」。
 出席者からの民主党政権誕生に関する質問に答えてアギトンさんは、「経済危機に対する左翼の主張が脆弱だった」と指摘した。左翼の主張は、投機的な経済による結末である、国家は銀行救済ではなく貧困層に資金を投ずるべきだ、というものだった。「それはそうだが、それはオルタナティブになっているのか。三〇年代左翼は、ソ連邦の存在と西欧社会民主主義の双方で、左翼オルタナティブを提起した。いまはそういう内容になっていない」。

労働組合とグロ
ーバル化の壁

 第二について。この間の米国の労働運動状況が取り上げられた。たとえば「ブランド企業」での労働組合運動は「六〇年代、七〇年代からの発想の転換」が必要になった。生産現場は下請け企業である。労働者はストライキによって賃上げを勝ちとることができても、結果として生産は別の企業に移される。この関係がグローバル化し、労働組合は壁にぶつかった。そこで運動の側は、NGOや若者のネットワークによって、そのブランド製品の世界的なボイコットを構想するようになった。
 増大する派遣労働者と労働組合の関係も大問題となった。「有能でラディカルな学生を労働組合が給料を支払って雇い、彼らが専門的な法律を駆使して司法的な解決をはかる」というスタイルの労働運動があらわれた。それは「自分たちの代表は選挙で決めるという直接民主主義」によって運営されている労働組合との対立を引き起こした。
 国際連帯活動ではどうか。労働組合が担ってきた国際主義は、ゲバラの「一つ、二つ、もっと多くのベトナムを」(自国で)に象徴されている。「グローバル化による新しい運動文化」は「連帯を表明して、その国に行って行動する」というものだ。

多様であるが
ゆえの豊かさ

 第三のWSFについて。「これまでの労働組合運動は代表がいて、その存在は誰もが知っている」が、「WSFではオルガナイザーの名前を気にしない」。「中世のバザールのような物々交換タイプの交流」のイメージ、つまり「現場の活動家たちによる直接的な運動の交換」がなされる。同時に、〇三年、世界中に広がった反戦デモはWSFが呼びかけた。二つのタイプの両立がWSFの特徴だ。
 以上の発言の上でアギトンさんは、WSFの展望と課題について発言した。
 かつては「変革の主体としての労働者階級」と「人民の連帯」が中心に置かれていた。いまWSFに限らず新しい運動の特徴は、「統一・連帯よりは多様性の強調」にある。「異なっている、多様であるがゆえの豊かさ」が前面にかかげられている。そのようなあり方は「運動のヒエラルキー、誰かの指示に従うという考え方を変える」。しかしそのことは「運動の分断や拡散を意味しない」。

形成途上の新
しさ、課題は

 アギトンさんは同時に、「多様性に価値をおく運動文化」は完成しているわけではないと指摘し、いくつかの角度から問題提起した。
 第一に「十九世紀マルクス時代の考え方を取り戻そう」。「二十世紀の企業国営化」と対比して「十九世紀マルクス主義にあった共同組合」的な発想の再検討。その具体例として「フェア・トレード」や「日本でもあるだろうローカルな農業生産者の共同組合的な活動」が例示された。
 第二に、当然のこととして教育・医療を含めた公共サービス民営化への反対。
 第三に、「知的所有権」に対する新しいアプローチの必要性。「GMでもトヨタでも、違いを作り出しているのは知的所有権」である。「リナックスのようなフリーソフトは、一部の企業の独占物ではなく世界の共有財産になりうる」「フリーソフト概念の背景には自由がある。百科事典は一部の知識人によるものだったが、ウィキペディアの作り方は違う」。それらに示されている「新しい公共材」の可能性は、環境問題にも応用されていくのではないか。
 最後の点に関しては、あわせて不十分さと困難性も指摘された。運動として完成してはいないし、またフリーソフトには「私的企業の利益になるという矛盾」がともなう。
 講演の最後はWSFへの参画の呼びかけだった。「八〇年代、九〇年代の敗北があったが、その上でいま新しい構想が可能になっている。世界的な転換期にあり、活動基盤や経験の違いをこえて、お互いの運動の交換が必要だ」。
 集会後の交流会では、講演内容についての質問や疑問だとする意見も出されたが、時間的制約もあり議論を交わすまでには至らなかった。今後の討論課題として残されたといえよう。

〈付記〉
 二〇〇一年、フランスSUD労組との全国交流の一環として仙台集会が開催された。SUDからは鉄道と郵便の労働者が集会にゲスト出席し、現場交流も行った。今回のクリストフ・アギトンさんはSUD―PTT組合員であり、集会後の交流会では電通労組の組合員たちと意見交換する場もあった。毎日新聞は十一月、「昨年二月以来自殺者二十五人」とフランス・テレコムの現状を大きく報道した。読売新聞も十月、「冷戦終結二十年」連載記事のなかで「仏労働者、民営化の犠牲」と題して特集した。交流会では「民営化=私有化政策」がもたらた両国の電信電話職場の状況を共通理解することができた。
(仙台/八木)



同時証言集会inおおさか2009
日本軍「慰安婦」被害者の
声に応え今こそ立法解決を


 【大阪】十一月二十八日大阪市北区民センターで、韓国ナヌムの家からカン・イルチュルさんを招いて同時証言集会が開かれ、五百人ほどの市民が参加した。当日は、在特会の連中四十人ほどが日の丸の小旗を持って、開場の隣のビルの前で抗議をしていたが、警察の圧倒的な警備のため(カマボコ車3台)開場に近づくことはできなかった。
 始めにチウォンさんによる鎮魂歌が歌われ、続いてカン・イルチュルさんが証言し、村山一兵さんが通訳した。村山さんはナヌムの家に併設されている「慰安婦」歴史館で研究員として仕事をしながらスタッフとしてハルモニたちとともに過ごしている(証言別掲)。
 証言を終えたカン・イルチュルさんはこの後いったん退出、村山さんが映像を見せながら話をした。

村山一兵さん
からの報告

 二〇〇六年から、ナヌムの家で共同生活している。日本人男性がなぜナヌムの家で働いているのか、とよく聞かれる。カン・イルチュルハルモニは、話をした後気持ちが高ぶり苦しくなる。彼女は一九四五年に戦争が終わった後も中国にいて、中国吉林の病院で看護婦として勤務しながら、一人で暮らしてきた。三十歳を過ぎて中国人と結婚、その後夫とは離婚、四十五歳で病院退職、年金生活を送っていたが、二〇〇〇年四月に国籍回復して帰国、ナヌムの家に入居した。四十五年もなぜ帰国できなかったのか。戦争後置き去りにされたままだった。帰国しても言葉や生活習慣が違うため家族にも会えない。自国の文化から引き裂かれている。このような被害者は、インドネシア、タイ、フィリピン、中国、そして北朝鮮にもいる。

「慰安」では
なく性暴力

 慰安という言葉を考えてみたい。彼女らがどういうことをされたのか考えてみたい、歴史をちゃんと知りたいと思い、ナヌムの家に行った。被害者は何を奪われてきたのか。これは男性からは見えてこないことだった。ナヌムの家では、話の途中で急に慰安所のこと、戦争のことが出てくる。これは何なのか。
 ハルモニは証言の時緊張する。急に座り込む。私は人間なのになんでこのような……とぶつぶつ言う、聞き取れないような小さな声で。受けた性暴力のことが忘れられないのだ。被害者はその後の人生で人間関係がうまくいかない、男性ともうまくいかない。私はそのようなことを知らなかった。私は何ができるのか、考えた。性被害の話は分かち合えない。被害は一日のことではなく、今も続いている。
 慰安所に出入りした軍人は普通の日本人だった。彼らは日本に帰国してからどう生きたのか。このことに向き合う必要がある。慰安というところから抜け出すべきだ。これは慰安ではなく性暴力だ。強姦や痴漢の被害者は今でも自分を責める。でも、あなたたちは悪くない。私は今まで知らないできたことを考えていきたい。何が奪われ、何が傷つけられたのか。

悔しさをにじ
ませた訴え

 この後、二人が質問し(「男性の性欲について」、「慰安所にあった軍人の間の階級差別」、「慰安婦は軍票かお金を受け取っていたのか」)、村山さんが答え、開場から拍手があった。
 最後に、立法解決に向け、努力している宝塚市、生駒市、泉南市、豊中市、吹田市、枚方市の市会議員の報告を聞いて集会が終わろうとしたとき、カン・イルチュルさんがもう少し発言したいと話し出した。それは、議員の報告の中で、「慰安婦」問題についての周りの反応、つまり「慰安婦はお金をもらっていたのでは」にふれた部分について話さずにはおれなかったのだ。
 「お金はもらっていない、いまだにそんなこというのか、お金さえ払えば日本の女性を連れて行ってもいいのか、日本と韓国の立場が逆ならどうするのか」と悔しさをにじませ、感情を高ぶらせながら訴えた。(T・T)

カン・イルチュルさんの証言
間違いを犯した日本
には謝罪してほしい


17歳で連行
されて中国へ

 現在八十一歳になる。当時(1943年)は「処女供出」、「報国隊」の名目で若い女性を募集する動きが激しくなっており、家に刀を下げた警察がやってきて、軍靴のひもを編む工場で働くのだとだまされ、日本人の警官に十七歳の時連れていかれた。なぜ、犬のような扱いを受けたのか。日本や韓国の若者のためにも日本は謝罪してほしい。
人間として扱われず、家から直接貨物列車に乗せられて中国の方の慰安所に連れて行かれた。慰安所で頭を殴られた箇所が今でも痛む時がある。そこで、ムン・ピルギさん(ハルモニ)に会った。私は2000年に韓国に帰国したが、帰国してナヌムの家で彼女に再会して泣いた。吉林省の慰安所には北海道出身の日本人もいた。
 日本は「慰安婦」問題をちゃんと解決してほしい。間違いを犯したら、ちゃんと解決してほしい。国民基金をもらった、もらわないで混乱がある。小泉首相、安倍首相はまたアジアの若い人を殺すのか。鳩山さんには期待している。韓国では好かれている。大阪に来たときホームレスを見た。日本政府は何をしているのかと思った。日本政府はお金あるのに補償しない。ホームレスにきちんとしない日本政府はひどい。

被害を話すと
胸が痛くなる

 連れて行かれたときも、どこに行くのか言われずに連れて行かれた。父母が亡くなったことは、後で知った。父は酒好きだったので、私はよけい酒は嫌いだ。二〇〇〇年にやっと中国から帰国したが、家族に会えず、そのことが恨(ハン)になっている。それを取り除くには謝罪してほしい。国民にもきちんとしない日本政府だが、当時韓国人を一番多く連れて行った。途中で死んだ人もいた。軍人が来た後トイレに行くと、血が出た。このことは、つらくて今まで言えなかった。皆さん、これどういう意味か分かるか。
 日本政府は市民のせいにしている。国民基金、変な話だ。国にお金ないのか。被害者が死ぬ前に謝罪して欲しい。大事なのはお金でなく、謝罪。もう戦争しないでほしい。私はお金はもらわなかった。
 慰安所で病気になって、髪が抜け、発熱し、腸チフスにかかった。北海道の人、私、腸チフスにかかったものは、もう生きられないだろうと、山に連れて行かれ穴を掘って埋められ、焼かれようとした。そのとき朝鮮兵が日本兵と戦い、助けてくれて、生きのびた。731部隊は当時ハルピンにあった。牡丹江の慰安所にいたとき、病人を入院させていた。肝臓が悪いから入れられているという男性もいた。
 聞いてくれてありがとう。被害のことを話すと心が苦しくなる。死んでも皆さんを忘れない。(発言要旨、文責編集部)


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