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ダニエル・タヌロの「気候変動報告」について      かけはし2009.11.30号

民主的環境保護的計画の必要条件は生産手段の公共的なコントロール

あらゆる問題の設定をわれわれ自身
の世代に関わる時間の中で考えるべき
                           ミシェル・レヴィ

 気候変化についてのダニエル・タヌロの報告(注1)は最近のわれわれの運動から生み出された最も重要な文書の一つだ。革命的マルクス主義者が政治的武装をし、二十一世紀の挑戦に向き合うことを可能にする、非常に貴重な貢献である。
 以下の覚書は二つの部分に分かれる。(T)ある部分についてのいくつかの批判や保留点、文書の修正の類と認められる部分。(U)報告では暗示しているが展開していないものへの質問から始まって、環境社会主義へのいくつかの意見の部分(報告は、明らかに、あまりに長くならずにはすべてをカバーできなかった)。したがって、これは単に討論のための寄稿である。

T 批判的コメント

1.「二一〇〇年」あるいは「今世紀の終わり」(注2)の定式は「これからの二、三十年」に置き換えられるべきだと思われる。
 最新の科学者の予想は、もしもわれわれが「従来通りに続ける」なら、ここ二、三十年での大きなスケールの大惨事を予測する。―それは気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の机上にはまだ乗ってはいないが、IPCCの発表は、報告が示すように、いつも遅い。
 それは明らかに政治的結果をもたらす。誰が二一〇〇年に起こるであろうことを気にかけているであろうか? 確かに哲学者の何人か―例えばハンス・ヨナス―は、「まだ生まれていない世代へのわれわれの義務」と問いかけているが、多くの人々の興味を惹くことはない。この問いかけは、われわれ自身の世代に関わるものであるならとても違ったものになる。
 これは「一世紀以内に効力を持つように化石燃料の使用をほぼ全廃し」という定式にも当てはまる。それは「ここ二、三十年のうちに」と置き換えられるべきだ。

2.炭素の捕捉:報告は、蓄積能力には限度があることを述べているが、それは、「受容できる過渡的処置」(注3)と考えているように思われる。
 この点についてはもっと保留した態度が必要ではないか。この方法は発展しているどころではなく、ほとんど納得できる例がない。われわれは、まだ、現実的な安全の保障を持っていない(CO2が再び大気に逃げないという保証)。さらに、未来の「きれいな石炭」の口実のもとに、われわれは石炭火力発電所を使い続け、新しく建設している。それは、ジェームズ・ハンセンによれば近未来の大災害をもたらす処方箋である。われわれはハンセンが提案したことに賛同するべきだと思う。つまり、炭素捕捉技術の確立(10年かかる?)を待ちながら、火力発電の建設をやめ、現存する施設も漸減する必要がある。

3.気候変動に対する運動は政府が「IPCCの最も慎重な結論」を尊重することを要求するべきだ(注4)。

 この定式は余りに曖昧だ。「慎重な」は何を意味するか? IPCCの提案の、より高い範囲、つまり、今から二〇二〇年までで四〇%、今から二〇五〇年までで八五%削減について語ったほうがよい。報告の中に時として出てくる、今から二〇二〇年までに二五〜四〇%」という定式を避けるべきだ。
 サルコジへの環境保護団体のNGO(グリーンピースなど)のアピールは今から二〇二〇年までに最低四〇%削減と語っている。われわれは、より少ないものを要求するべきでない!個人的には、四〇%は少なすぎるしそれが最低限であることが強く示唆されるべきだと思うし、実際全く不十分である……。同じことは二〇五〇年についても言える。われわれは今や「五〇〜八五%の削減」と記載するべきではなく、直ちにより高いレベル、八五%を主張するべきだ。

4.マルクスの間違い。報告によれば、彼は「木から石炭への転換が再生可能な流動的エネルギーを放棄して、再生不能な貯蔵エネルギーの採用を意味することを理解していなかった」。
 まず、エネルギー源として樹木を充てるときの「再生可能な」という事項には私はいささか保留的である。というのは、それはすぐさま森林破壊に誘導される可能性があるからである。化石エネルギーについて言うなら、疑いもなく、これは「使い果たされる」。だが、この主張は時代遅れの感じがする。二百年使える石炭がまだあるし、その前に、地球温暖化は先例のない大災害の原因になってきているであろう。
 マルクス、特にエンゲルスの(『反デューリング論』参照)間違いは、革命は単に「資本主義により作られた生産力の自由な発展を防止する障害物(あるいは鎖)になってきた生産関係を抑圧」するに違いないと信じたことであった。まるで生産力は中立的であったかのように。
 パリ・コミューンについてのマルクスによる観察を最初に取り上げることができるように思われる。つまり、「労働者は資本家の国家機構を占有することはできず、自分たちのために使用することはできない。それらは『破壊する』しかなく、根本的に異なる、民主的で、非国家的な政治権力の形態に置き換えるしかない」。
 必要な変更を加えれば、生産機構にも同じ考えは適応する。それは全く「中立」ではなく、資本の蓄積や市場の無制限な拡大に有利で、そして環境の大災害を導く発展を構造的に刻印する。

5.報告によれば、「世界規模での社会主義革命の勝利の後でのみ」必要な、巨大な変化を真に開始できるであろう。
 これは、次のように思われる。すなわち、永久革命の論理に従えば、全地球規模でのみこの過程を完成することができることを知りつつも、一つあるいはいくつかの国のレベルで変革を開始する必要がある、と。

6.草稿は、海水面の上昇について言及する。「数億の人々が海面の上昇により脅威にさらされている――中国(3千万人)、インド(3千万人)、バングラデシュ(1千5百〜2千万人)……等々。
 私はこれらの数字に疑問を持たないが、しかし以下のように自問する。アムステルダム、ベネチア、アントワープ、コパンハーゲン、ニューヨークのような西側の沿岸の都市でもそうではないのか?
 これは政治的な次元を持つ疑問である。バングラデシュの損害に、北の国々の住民から連帯を求めることは素晴らしいが、われわれは、北の諸国の住民もまた同じ危険にさらされていることを彼らに示すべきである。

U 討論のための寄稿


 環境社会主義の構想は、環境の民主的な計画化を意味する。それは、環境の保護を勘案し、特に気候の破局的な崩壊を阻止しようとする。この計画により、われわれは、気候変動や環境汚染に責任がある今の資源(特に化石エネルギー)を再生可能なエネルギー資源、すなわち水、風、太陽に置き換え、エネルギーシステムの革命を行うことができる。この民主的・環境保護的計画の必要条件は、生産手段の公共的なコントロールである。従って、技術的な投資や変化に関する公共的利益にかかわる事項の政策決定については、銀行や資本主義企業は排除されなければならない。これらの決定が社会の共同の利益に奉仕し環境を安全に保護することを、われわれが望むならばである。
 社会全体が、社会的環境的基準に従って――代替エネルギー、教育、健康、文化に投資するべき資源のレベルにしたがって――どんな類の生産を優先するべきかを民主的に選択するのは自由であろう。商品そのものの価格はもはや需要と供給の法則に従って決められず、できるかぎり社会的、政治的、環境的基準に従って決定されるべきであろう。この計画では、その目標の中に、労働時間の短縮による完全雇用の保障が含まれる。この条件は、社会的公正の要求を満たすのみならず、確実に労働者階級を支援するためにもぜひ必要である。それなしには、生産の構造的環境的移行の過程は遂行できない。
 このように、民主的な計画化は「専制」とは全く異なり、社会全体の決定の自由を行使することを意味する。これは、疎外や、資本家や官僚的機構の中での「経済法則」や「鉄のおり」を具体化することから社会自身を解放する上で必要な行使である。民主的な計画は、労働時間短縮と結びついた民主的計画化は、マルクスが「自由の世界」と呼んだものに向けた人類の大きな進歩となるであろう。自由な時間の増加は実際、民主的な議論や、環境と社会の運営への労働者の参加にとっての条件である。
 環境社会主義者が構想する民主的な計画のシステムのあり方は、環境的な選択の原則――地球温暖化の危機を考慮した場合は特に――に関わるものであり、地方のレストラン、食料雑貨店、パン屋、小商店・企業やサービスの経営に関わるものではない。同様に、計画は生産単位での労働者の自己管理と対立しないことを強調することが重要だ。変更の決定――例えば、自動車工場を風力発電所のエンジンを生産するためのユニットに変更する――が社会全体によってなされる場合でも、工場の組織や内部の機能は労働者自身によって民主的に管理されるであろう。
 計画の「集権化」や「脱集権化」の特徴について、われわれは長い議論をしてきた。しかし、重要な事柄として、すべてのレベル、つまり、ローカル、地域的、国家的、大陸的、そして望むらくは地球規模の計画の民主的な管理という問題が残されている。地球温暖化のような環境上のテーマは全世界に関わり、このレベルでのみ扱える問題だからである。
 この提案は「地球規模での民主的計画化」と呼べるかもしれない。これは、「集権的計画」として一般的にデザインされたものとは全く無関係だ。なぜなら、環境的社会的決定は、不特定の「中心」によっては行われず、人々の関心に沿って民主的に決定されるからである。
 環境社会主義的計画はあらゆる決定のレベルで、民主的・多元的議論をもとにしなければならない。政党、政綱、あらゆる政治的運動の組織化により、計画を組織化する代表が選ばれ、多様な提案が、彼らに関わるすべての事項についてなされるであろう。
 言い換えれば、代表制民主主義は、直接民主主義によって豊富化され、改善される必要がある。それは地域で、国家で、そして最終的には国際的レベルで、多様な提案について人々が直接選ぶことを可能にする。したがって全住民が無料の公的輸送や、公的輸送に助成するための車の持ち主により支払われる特別税や、太陽エネルギーの助成や、生産の減少を伴ったとしても労働時間を週に三十時間、二十五時間、あるいはもっと少ない時間に減らすとかいった問題を議論するであろう。
 計画の民主的特徴は、専門家の参加と矛盾するわけではない。専門家の役割は、決定することではなく、彼らの議論――しばしば異なり、時には対立する――を、決定の民主的過程の間に提出することである。
 一つの疑問が浮かぶ。環境を保護するために、消費習慣のいくつかを変えることが何らかの代価を必要とする場合でも、人々が正しい選択をするための、どんな保障をわれわれは持っているのだろうか? このような「保障」は存在しない。消費物資への物神崇拝が廃棄されたら、民主的決定の合理性が勝利するだろうという合理的な見通しだけである。
 人々が悪い選択をしてしまうかもしれないのはその通りだが、では専門家自身は間違えないだろうか? 人々の大多数が、彼らの努力、自己学習、社会的経験の結果、高いレベルの社会主義的・エコロジー的意識を獲得することなしには、新しい社会の建設を想像することは不可能だ。
 一部のエコロジストは、生産力主義への唯一のオルタナテイブは、全体の成長を止めること、あるいはマイナス成長に移ること――フランスでは「縮小」と呼ばれている――と考えている。このためには、人々の過剰な消費レベルを、劇的に減少させる必要があるだろうし、エネルギー消費を半分減らすためには、個人の持ち家、セントラルヒーティング、洗濯機などを諦める必要があるだろう。
 「減少論者」は生産力主義や消費主義への急進的な批判を押し出すという長所を持っている。しかし、「縮小」の概念は純粋に「成長」や生産力の発展の、純粋に量的概念に関するものである。発展の質的変換について考えた方が良い。それは二つの異なった、しかし相互補完的なアプローチを意味する。

生産と消費の
「選択的縮小」

1.削減だけではなく、資本主義――すなわち無駄な、あるいは有害な生産物の大規模な生産を基礎にしたシステム――によりもたらされた莫大な資源のムダを止めるため、あらゆる経済部門の抑制。武器産業は良い例だ。ここでは、資本主義システム(その生産物の計画された廃用品化とともに)の中で製造されているすべての「生産物」 は、大企業の利益を生む以外に何の役にも立たない。
 問題は抽象的な「過剰消費」ではなく、現在支配的な消費のタイプであり、その主な特徴は、人目を引く消費、多量の廃棄物、取り付かれたような物資の蓄積、「流行」に押し付けられた偽の革新の衝動的な獲得である。
 新しい社会は、われわれが「聖書にある」と記述できるであろう、水、食料、衣類、住居と、それ以外の必須のサービスである健康、教育、文化、輸送のようなものから始まる、必須の受容を満たすために生産を方向づけるであろう。このように、われわれは「選択的な縮小」について語ることができる。

本物のニーズと
人工的なニーズ

2.加えて、資本主義が無視しているいくつかの生産やサービスの「選択的な成長」を確保することが必要であろう。すなわち、太陽エネルギー、有機農業(家庭や協同組合の)、公共交通などである。
 必需品が全く不足している国々、すなわち南半球の国々は、工業化した国々よりも、鉄道、病院、下水道、その他の建設のためにはるかに多く「発展」する必要があることは明らかだ。しかし、再生可能なエネルギーを基礎とした生産のシステムと両立するべきだし、環境に有害であってはならない。これらの国々は、すでに飢饉に侵されている自国の人々のための食料を多量に生産する必要があるだろう。
 しかし、「ビア・カンペシーナ(農民の道)」ネットワークにより国際的レベルで組織された小農民の運動が数年にわたり議論してきたように、それは、家族単位、協同組合、あるいは集団農場で、小農民の有機農業を通じて得るほうが、殺虫剤、化学物質、遺伝子組み換え作物の大量使用を原則とする、農業関連産業の破壊的、反社会的方法によるよりもはるかに容易に達成できる目標である。
 汚い債務の現システムと、工業化資本主義諸国による南の資源の帝国主義的搾取は、北の南への技術的、経済的支援の上昇に道を譲るべきであろう。
 ヨーロッパや北アメリカの人々の生活水準を絶対的に削減する必要――特定のピューリタン的・禁欲的なエコロジストはそう信じているらしい――は、まったくない。これらの地域の人々に必要なのは、単に、どんな実際的必要も満足しないようなものや、資本主義システムが支持する、取り付かれたように消費される役に立たない生産物を追い払うだけのことであろう。消費を削減する一方で、彼らは、実際はずっと豊かなライフスタイルの道を作るために生活水準の概念を再定義するかもしれない。
 人工的な、偽の、あるいは見せかけのニーズと本物のニーズをどうして見分けるか? 広告産業――心理的操作によりニーズに影響を与えようとする――は現代の資本主義社会で人間生活のすべての分野に浸透している。食物や衣類のみならず、スポーツ、文化、政治などさまざまな分野で、すべてはそのルールに従ってファッション化される。広告は 道端、郵便受け、テレビ画面、新聞、風景の中に溢れている。それも狡猾、永続的、攻撃的な方法で。
 この部門は直接、顕著な強迫観念に駆られたような購入習慣に貢献している。さらに、数ある原材料の中でも、石油、電気、労働時間、紙、化学物質の驚くべき浪費を伴う。このすべては消費者が支払う。それは人間的観点から見て不要な「生産」部門の一つであるだけではなく、本当の社会的ニーズとも矛盾する。
 広告は資本主義市場経済に必須のものであるが、社会主義に向かう過渡期社会の中では、存在する場所がないであろう。それは、消費者の連合体が提供する、生産物やサービスの情報に置き換えられるだろう。本物のニーズと人工的なニーズを区別する基準は広告の抑制後の永続性である。ある期間は、支出の古いパターンが存続するであろうことは明らかだ。というのは、誰も人々が必要とするものを告げる権利はないからである。

過渡的な時期の
公共輸送問題

 消費モデルの変化は歴史的な過程であり、教育的な挑戦である。自家用車のような、ある種の生産物はもっと複雑な問題を提示する。自家用車は公共上の厄介者である。世界的規模で、自家用車は毎年数十万人の人々を殺したり手足を切断したりしている。自家用車は大都市の大気を汚染し――子供や高齢者の健康を大いに害しながら――気候変動に重大な影響を与える。
 しかしながら、車は資本主義の現状の中では本当に必要な物と言える。環境社会主義へ向かう過渡的な時期には、地上、地下ともに、公共輸送は容易に利用でき、無料であろう。一方では歩行者や自転車乗りを保護するレーンがあるだろう。従って、しつこく、攻撃的な広告で促進された物神崇拝的な生産物となってきた自家用車は、ブルジョア社会よりもはるかに不要な役割を演じるであろう。
 新しい社会へのこのような移行期には、道路による物資の輸送――それは交通事故の原因でありあまりに高いレベルの汚染の元である――を厳しく削減したり、トラックによる輸送を鉄道に置き換えることは、はるかに容易であるに違いない。資本主義の「競争力」の不合理な理論のみが道路輸送の発展理由だからである。
 このような提案について、悲観主義者は次のように答えるだろう。「そう。でも個々人は無限の熱望や欲望に動機づけられているので、それは管理され、分析され、追い返され、必要なら抑圧さえされねばならない。民主主義はそのためある種の制約下に置かれるだろう」と。
 しかし、環境社会主義は、すでにマルクスにより支持された、道理にかなった仮定の上に成り立っている。社会的階級や資本主義的疎外がない社会での、「所有」に対する「存在」の優位、すなわち、無数の物への所有欲よりも自由な時間が優位である。
 それは、文化、スポーツ、遊び、科学、性愛、芸術、政治などの現実活動によって個々の満足を達成できる。商品への物神崇拝は、資本主義に適したイデオロギーや広告を通じて、取りつかれたような購買欲を刺激する。何物もこれが「不滅の人類の本性」の一部だとは証明しない。
 それは、特に過渡的時期においては、争いが存在しないことを意味しない。環境保護のニーズと社会的ニーズの間で、環境に関する義務と基礎的インフラの発展のためのニーズの間で、そして特に貧困国では大衆的な消費習慣と資源の欠乏の間での争いが存在しないことを意味しない。階級のない社会は矛盾や争いのない社会ではない。
 これらは避けられない。資本の束縛から自由になった環境社会主義的展望の中では、社会が自らの決定を行うようリードするオープンで複数主義的な討論によってそれらの問題を解決することが、民主主義的計画の役割となるだろう。共通で参加型のこのような民主主義は、間違いを犯さないためではなく社会的共同体そのものにより間違いを修正するために必要な手段である。
▼ミシェル・レヴィはブラジル出身の哲学者、社会学者。フランスのNPA(反資本主義新党)および第四インターのメンバー。アムステルダムIIRE(国際調査・教育機関)の評議員で、フランスのCNRS(フランス国立科学研究院)の前リサーチディレクター。『チェ・ゲバラのマルクス主義』、『マルクス主義と解放の理論』、『父なる祖国か母なる地球か?』、『戦争と神々:ラテンアメリカの宗教と政治』、など多数の著作。ジョエル・コーベルとともに国際環境社会主義者宣言の共同著者。2007年にパリで開催された第一回国際環境社会主義者会議のオルガナイザーの一人。

(注1)パンフ『第四インターナショナル第十六回大会決議草案:気候変動についての報告』参照。
(注2)文書では以下のように記載されている:「IPCCは、現在の温室効果ガス排出の傾向が続くなら、今から二一〇〇年までに平均気温が一九九〇年比で最低一・一度から最高六・四度の間で上昇するだろうと予測している。上昇温度にかなりの幅があるのは、一つは気候モデルに、もう一つは人的展開の予測に由来する二重の不確実さがあるためである。」
(注3)「状況の緊急性を前提にかつ社会的な諸々の理由から、炭素の回収・隔離貯留は、化石燃料の急速な放棄という戦略の中の経過的な手段として受け容れ可能かもしれない。それは特に、鉱山の転換計画の可能性を開くことができるかもしれない。しかし今のところその方策は、この方向で想定されているわけではない。逆にそれは、それが生み出す結果を気にかけることなく物理的限界を押し戻す、資本主義の新しい企てだ。諸政権は『クリーンな石炭』について語っているが、しかし、それを採掘することの大きな困難、粉塵汚染、炭鉱に付随する環境的影響と健康にとっての結末、これらを考慮に入れるならば、それは一つの神話だ。」
(注4) 「この運動の目標は、洗練された政策を練り上げることではなく、政府に対して少なくともIPCCの評価レポートから導かれる最も慎重な結論に従って行動し、『共通だが差異ある責任』の原則を尊重し、社会的・民主主義的権利と、すべての人々の人間として生きる権利を尊重するよう強制することである。われわれはこの目標を、現実主義の名の下に排出量削減の目標を引き下げようとする潮流に対して擁護するだけでなく、それが不十分であると非難する潮流に対しても擁護する(われわれは後者に対しては、『最低限』の要求としてIPCCの『最も慎重な結論』の尊重を求めることへの賛同を求めようとする)。」
(「インターナショナルビューポイント」09年11月号)


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