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ユーモアもこめて、したたかな闘いが続く       かけはし2009.11.30号

宮下公園はみんなのものだ

野宿の仲間の追い出し許すな
渋谷区・ナイキを厳しく追及

 宮下公園の命名権をナイキ社に売り、スポーツ施設を中心としたテーマパークに作り替えるという「宮下公園のナイキ化」に対する闘いは本紙既報の九月二十七日の渋谷デモ以降も力強く続いている。緊迫した状況を迎えながらもユーモアを忘れず、したたかに闘い抜く姿をレポートする。

行政の不当な
対応に抗議する

 十月九日には渋谷区による「説明会」が宮下公園現地で行われ、宮下公園で生活する仲間を中心に都内各地の野宿の仲間や、みんなの宮下公園をナイキ化から守る会など六十一名が集まった。この問題がミニコミによってすっぱ抜かれてから一年、区報で「工事期間は九月から来年の四月まで」と報じられてから一月、やっと現地で暮らす仲間に「説明」とは全く遅すぎるが、中身もひどいものだった。
 生活福祉課は区庁舎内に「皆さんの自立を支援する相談室」を設けると発言、緊急一時保護センターなどの施設への入所を進める模様。「対策」がアパートではなく、「施設」と聞いて落胆する仲間もいる。
 公園課は「引き続きテント生活を希望する者は、宮下公園一階部分の遊歩道、あるいはスロープ下へ移転してもらう」と発言。スロープ下とは線路のすぐ脇でとてもテント生活出来るところではない。守る会はナイキ公園化にあくまで反対であることを明らかにし、「出直してこい!」とこの日の説明会を終えた。
 十月二十日、この間賛同を募って来た「宮下ナイキパークの命名権契約と改造工事の撤回を求める共同声明」の第一次集約分を渋谷区・生活福祉課、公園課、総務課に提出する。二十四人が結集。
 十月二十二日には「相談室」が開設され、期間は二十八日まで。数名の仲間が世田谷寮(緊急一時保護センター)、千駄ヶ谷荘(更生施設)、千歳荘(宿泊提供施設)などに入所した。
 翌二十九日、五人のテントに対して「警告書」を貼り付けるという嫌がらせに出てきた。五人の仲間というのは九月九日より公園課が実施して来た「意向調査」に応じず、相談室にも行かなかった人々である。また、施設に入所した仲間のテント、人の住んでいないテントなどをバリケードで囲んだ。そして「十一月九日より来年四月末(予)まで、工事のため園内は通り抜けできません」という紙を各所に張り出した。

ナイキ本社前で
パフォーマンス

 十一月九日、中央通路(道路を挟んで公園二カ所をつなぐ橋)など五カ所の出入り口をフェンスでふさぐという工事が行われる予定だった。
 中央通路が通れなくなるとトイレは渋谷側にしかないので、原宿側の仲間はとても不便になる。この日、早朝より全都から六十四名が集まり中央通路で待ち受ける。すると、渋谷のじれんの仲間の携帯に公園課課長より電話が入る、「個人的な事情により、今日のフェンス設置は延期する」。「個人的な事情」は今も続いているのかフェンスの設置は今のところ行われていない。
 十一月二十日には天王洲アイルにあるナイキ本社前での行動が行われた。この日のテーマは「宮下公園がナイキパークになったら出来なくなることをナイキ本社前でやる」というもの。ダンボールハウスや、ブルーシートの小屋が突然並べられ、寝袋で寝る仲間や、シートを広げてお弁当を食べるなど、「野宿」や「ピクニック」などのパフォーマンスが行われた。
 本社前はカラーコーンが並べられ、「私有地につき迷惑行為禁止」の張り紙。ガードマンや制服私服警官が多数配置されるという状況であったが、権力の介入や弾圧もさせずにこの日の行動をやりきった。しかし、腹いせのためかナイキの担当者は共同声明の受け取りを拒否した。
 共同声明で明らかにされた以下のようなこの計画の問題点。すなわち、この計画が単に命名権の譲渡にとどまらず、有料のスポーツ施設の設置などナイキの商品宣伝するための施設が公園の大部分を占め、公園の公共的価値を奪うものであること。計画が区長と一部議員によって進められ、議会の決議も経ず、公募や競争入札も行われず、ナイキ社が選ばれた経緯についても情報の公開を拒むなど民主主義的な手続きを全く経ていないこと。
 宮下公園で野宿を強いられているテント生活者約三十人が追い出されようとしていること、また、十分な対策や、説明がなされていないこと。宮下公園のナイキ化計画が、一握りの多国籍企業による社会全体の再編であるグローバリゼーションの典型であること。これらの問題は何一つ解決していない。
 グローバル企業ナイキヘの公共空間の売り飛ばしに反対の声を!野宿の仲間の生きる権利を守る闘いに連帯を!       (板)


戦争賛美の教科書はいらない
自由社版採択&1採択地区化
撤回を求めて市民のつどい

 【神奈川】戦争賛美、偏った歴史観のこんな教科書はいらない自由社採択&一採択地区撤回を求める11・12市民の集いが十一月十二日、開かれた。司会の人から、八月四日採択後、九月七日の集会を契機に発足し、集会主催者である横浜教科書採択連絡会が結成された経緯などが説明された。この集会は十月に横浜市全市一括採択が強行されたことを受けての抗議集会である。

自由社版・採択
手続きの問題点

 元教員の古屋珠子さんからは自由社の教科書と帝国書院の教科書を具体的に比較したレジュメが配布された。帝国書院版も侵略という表現は避けているものの、資本主義の成り行きで戦争にいたったという説明がされている。
 扶桑社のように国家の必然としての戦争、アジアへ希望を与えたロシア戦争という記述、押し付けられた日本国憲法、天皇賛美、長々と神話を語る記述はもちろんだが、日本海海戦に一ぺージを割いたり、昭和天皇のお言葉に一ページを割いたりという「独自性」はあるという。子供が利用する前に大人は千五百円払ってでも読んでみるべきだと古屋さんは主張した。
 佐藤真喜子さんによると、右派(教科書正常化を求める会)の請願活動が全県を対象にしたものから横浜市をターゲットにして、今回の事態に至ったという。佐藤さんはあまりに多すぎる採択手続き上の問題点を、簡潔に整理して解説した。
 1、調査員報告は前回のものを流用、2、候補は七社なのに三社のみ審議、3、突然の無記名投票導入、4、審議会答申を無視、自由社推薦なしの緑区、金沢区でも自由社採択など、5、市内1地区化と審議会改変、6、今田教育長の不正疑惑情報である。無記名投票結果がどのようなものだったかは十月二十一日付け新聞で公表されており、二名は全部自由社、自由社に一切入れなかった人は一名、残り三名のうち二名は答申を反映しているとはいえない投票をしていた。
 田崎秀一郎さんは一採択地区化の問題を、提出した要望書を用いて訴えた。教科書選択は特に町村などで学校単位ですべきだという「規制緩和」方針が、閣議決定までされているというのである。一採択地区化を決定した神奈川県教委でも議論したそうだが、宮崎緑とともに反対した渡辺美樹(ワタミ社長)も「同じ日に厚木、相川、清川の採択区細分化に賛成して、横浜の統合に賛成するのはダブルスタンダード」と発言したそうだから、横浜市教委も神奈川県教委もこれ以上はない水準で、道理に外れている。
 話はそれるが、渡辺は公立学校の入学定員増を求めて通らなかったという理由で教育委員を同じ日に辞任した。

運動をどのよう
に広げていくか

 集会参加者から質疑が相次いだが、危機感から運動をどう進めたらいいかという提言が目立った。この事態は教育現場に収まらない運動の勢いを生み出しそうだ。学校現場の教員からは、正面切って動けないが、市民の応援がありがたい、自由社がいいと思っている教員はほとんどいないという発言もあった。
 十一月いっぱいの署名運動は自発的辞任を目指しているというが、対応次第で罷免要求も視野に入れるという。そのときに藤岡と今田教育委員長の裏取引実証をどこまでできるかも課題となる。藤岡信勝は『正論』でやっと一パーセントの枠を突破したと喜んだらしい。横浜市全市になると、三パーセントを超える巨大地区が誕生してしまう。
 連絡会でも出前学習会などに取り組んでいるが、どうしたらいいだろう。採択区のことにしても、採択区分散からはバウチャー導入を含めた教育格差の拡大の問題が付いてまわる。統合に反対した渡辺が良心的というわけではない。
 どの道筋をたどっても資本競争に耐えうる人材育成と参戦国家化が射程におかれており、子供のことを第一に考える教育行政というものは存在しないことが一層明らかになった。この集会ではそもそも学校、教科書が必要なのかということまでは問題にされない。
 だが確かなのは横浜市の自由社教科書の採択撤回は、他地区の扶桑社系教科書の追放とともに、急がなければならないということだ。       (海)



三里塚の大地で上坂喜美さんを偲ぶ
死者も生者も渾然一体となりこの空港と闘いつづける


 三里塚闘争に連帯する会の代表で、一昨年(2007年)七月十七日、八十三歳で亡くなった上坂喜美さんを偲ぶ取り組みが十月三十一日、十一月一日、関西三里塚闘争に連帯する会、関西三里塚相談会の仲間と現地の人びとで行われた。木の根ペンションと横堀鉄塔で上坂さんの魂は三里塚の地に還された。
 上坂さんは、亡くなる前から、「献体をする。葬式はするな」と家族や活動仲間に伝えていた。遺体は近大に献体され、今年七月に遺骨として返還された。遺骨は家族の手で、大阪の一心寺に納骨された。上坂さんの一心寺への納骨をうけて今回の取り組みが行われた。
 十月三十一日には、木の根ペンションで「上坂さんを偲ぶ三里塚の集い」が開かれ、関西や首都圏などから三十人ほどが参加した。
 成田空港の暫定滑走路は十月二十二日から北側延伸し供用が始まった。さらに空港の拡張を狙う空港会社は一坪共有者に対し土地を渡せと裁判を起こしてきた。反対同盟の柳川秀夫さんは、「いま、空港会社は何をするか判らない、平和な情勢ではない。上坂さんの遺志や生き方を頭の中にたたきこんで、生きて行きたい」と述べた。
 一九七四年戸村一作と三里塚闘争に連帯する会が発足し、戸村委員長の参院全国区選挙が闘われた。選挙後は三里塚闘争に連帯する会に再編され、上坂さんは代表を務め、開港阻止に向け闘争の全国化に奔走した。ともに専従活動を担った加瀬勉さんは、事務所のソファーで毛布一枚で過ごした思い出を語り、「三里塚闘争は大衆性に支えられて戦闘性がある。全国的にまとめた上坂君のその功績は偉大だ」と述べ、さらに「祖霊の墓を暴き空港建設をしている三里塚に安らぎ安堵する場はない。死者も生者も渾然一体となって闘い続ける。私も上坂君の遺志に背くことなく晩節を汚すことなく闘争に邁進する」と決意を語った。

選挙や映画の赤
字に私財を投入

 関西から上坂さんを東京での活動に送り出した菊永望さんは、「印刷屋を成功させ家族の生活を支えていた上坂さんに、専従をとは言い出せなかった。やっとの思いで切り出したら、本人に非常に怒られた」、「選挙や映画『襤褸の旗』で赤字があった。そこに私財投入し、三里塚闘争をやった」。その信念の強さは政治的展望があったからだ。「政治的展望と三里塚農民との連帯は上坂さんの中では統一していた。農があって現実社会は成り立っている。三里塚の内陸にハブ空港なんてできない。ただ官僚の幻想から生まれてただけだ」と言っていた。
 戸村さんの当選を果たせなかった参院選の後、運動はまとまっていたわけではなかった。静岡の塚本春雄さんは、「これで終わりにしようという意見もあったが、『全国のいろんなところ、いろんな人々と結びつきができたのだから、そこを大切にしよう』という上坂さんの声がまさった」。「連帯する会の副代表になり、代表の上坂さんとは深い付き合いが始まった。東京での会議のあと静岡で途中下車してくれることが多かった。いま思うと、上坂さんにもいろいろ悩みがあったのではないか。人間としての会話ができなかったのではと心残りがある」と述べた。

後半生を三里塚
闘争に賭けた

 翌十一月一日、朝八時から散骨が行われた。木の根ペンションの裏手の桜の木の下に反対同盟の三輪旗を広げ、その上に上坂さんの遺影など遺品を置き、参加者一人一人が献花し、線香も供えた。かつて木の根部落の中にあった木の根ペンションは、今では空港の誘導路の真ん中だ。第一ターミナルのサテライトビルが眼前に建っている。
 続いて横堀鉄塔に移動する。横堀鉄塔も誘導路が拡張されたため四方を空港に囲まれている。横堀十字路から鉄パイプの柵で囲まれた道を経て、トンネルをくぐると、三十メートルの鉄塔がそびえ立つ。鉄塔の下には、横堀団結小屋、案山子亭が建っている。管制塔元被告の原勲さんの墓もある。そしてここにも、管制塔元被告たちが植えた桜の木がある。その一本の下で上坂さんの闘う魂を大地に移した。
 関西からの参加者は、その後、岩山や朝倉など「古戦場」を回った。岩山記念館の前には三十年を経たタイヤの焼け残りもあった。車で帰る都合もあり、東峰で行われたワンパック収穫祭には少しだけ立ち寄り、旧知の仲間にあいさつをしてまわった。
 上坂さんは、後半生を三里塚闘争に賭けた。その三里塚は、いままた、厳しい闘争の局面にある。参加者は、上坂さんの遺志を受け継ぎ、共有地強奪と闘う決意を新たにして関西に向かった。
 上坂さんの追悼集「三里塚を再び緑の大地に 空港反対闘争に賭けた上坂喜美の後半生」が今年二月に出版されている。また、大阪の一心寺は、宗派を問わず遺骨を受け入れ十年分の遺骨をひとまとめにして、お骨佛(遺骨で造られる阿弥陀如来像)を造立している。上坂さんの遺骨も仏像の一部になる。 (川野わたる)


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