20年ぶりに安企部跡を訪ねた「統一の花」イム・スギョンさん
かけはし2009.10.12号 |
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「2度と行きたくなかったが…残すべきは残さなくては」 |
「近くに来ただけで吐き気も」
生きていることのある瞬間がそのまま歴史となる人々がいる。彼らの生は、その一瞬をぷっつりもぎ取って文章にすれば記事となり、小説となる。「統一の花」と呼ばれていたイム・スギョンさん(41)。1989年6月の訪北は、それ自体が歴史だった。その年の8月15日、南北軍事分界線(38度線)を越える瞬間は強固な分断の歴史の破断そのものだった。その後、20年、彼女の生き方は小説そのものだった。強固な歴史のひもは彼女の足を締めつけ、たやすく自由にはしなかった。「南山に同行していただきたいのですが」という提案に、何度も首を横に振った理由だ。
「私が江南に行く時は、いまだに南山1号トンネルを通りません。その近くに行くだけでも体が震え、ムカムカして吐く時もあったからです」。時代が残したトラウマ(心理的後遺症)だ。
2009年9月8日、〈ハンギョレ21〉は無理を押してイム・スギョンさんとソウル・南山のかつての国家安全企画部(安企部)跡を訪れた。彼女が南山を訪れる決心をしたのは、その日の意味のゆえだった。
「正確に20年前ですね。20年前のきょう、ここを出てソウル拘置所に行ったんです。2度とは来たくない所だったが、それでも残すものは残さなくては」。
「白い地獄」の地下取調室
1989年8月15日、ムン・ギュヒョン神父と共に軍事分界線を越えやってきたイム・スギョンさんを待っていたのは巨大なヘリコプター機だった。彼女を乗せたヘリはあっという間に南山の国立劇場前広場に到着した。黒いセダンに乗った安企部要員らは、座席のまん中に座ったイムさんに「頭を下げろ!」と短く、かつ鋭く命令した。悪名高いトンネルを過ぎ到着した所は対共捜査室(安企部第6別館)。今はソウル市庁別館として使われている。市庁別館前に立ったイムさんは後ろ側に回ろうと言った。
「取り調べを受ける人々が出入りする所は、後ろ側に急な階段があったんです、とても急な。その階段にそって地下2階に行くと取調室がありました」。
確かに彼女の言う通り、建物の後ろ側の中ほどには急な階段があった。階段は途中に4つの踊り場があるほどに長かった。彼女は慎重に下りて行った。今はソウル市庁の公務員や市民らが自由に出入りする空間だけれども、彼女はひっきりなしに押し返す反発力を感じているようだった。地下2階はソウル市の資料を保存する文書庫として使われていた。イムさんは足音を殺しながら入って行った。すでに名称も消えた安企部だけれども、彼女の胸の内には依然として実際に生き残っていた。
「ここから最も左奥の部屋に引っ張っていきました。防音ボードがしつらえられた壁と天井で、何もかもが真っ白な部屋でした。100燭(カンデラ)の電球2つが一挙にともされていて『白い地獄』という思いがしました。ベッドやら浴槽もあったが、それはすべて拷問用でした」。
着ていた服を脱ぎ、古びてよれよれになった青いトレーナーに着がえた。「統一の花」から「国家保安法違反事犯」に転落する瞬間だった。
彼女が20日間、閉じ込められていた房には「110」という数字が書かれていた。
「私を調べていた調査官が言っていました。その房にお前のような『ザコ』が入ってきたのは初めてだ、と。こうも言っていました。お前が来る直前にはソ・ギョンウォンがその場所にいたし、ムン(イックワン)牧師がいたんだ。(大韓航空爆破犯の)キム・ヒョンヒもこの房出身だし、(2重スパイ容疑で死刑となった)イ・スグンもこの房にいて、出ていった」。
直接的な殴打や拷問はなかった。「取調官らが言っていました。検事らが『イム・スギョンを絶対に殴るな』と言っていた、と。その代わり悪態の限りを尽くしました。答弁が気に入らないと座っていたイスの脚を蹴飛ばしました。そのたびに床に転がるのです」。
イム・スギョンさんが女性だから殴らないのではなかった。彼女の訪北を手助けした容疑で先に捕らわれ、地下2階で取り調べられていた漢陽大の女子学生3人は振り下ろされるムチを避けるすべはなかった。拷問はなかったけれども、殴打は厳然たる取り調べ手段だった。その女学生たちは国防色の軍服を着たままで取り調べを受けた。汗と血、涙のにじんだ軍服は、着ていること自体が拷問だった。
全世界の目が注がれていたために彼女には簡単に手を出すことができなかった。「取調官らが言っていました。私には特別待遇で『トレーナー』を着せるのだ、と。頭が痛くなるほどに、あかがにじんで臭い服を着せておくのだ、と」。
取調官は13人だった。彼らは4チームにグループを作り、24時間、彼女を取り調べた。
扉を開ける度に聞こえた悲鳴
「取調官らがドアを開いて入ってくるたびに隣の房からけたたましい悲鳴が聞こえてきました。それはもう鳥肌が立つじゃないですか。後で知ったのだけれども、ヨンシクさん(オ・ヨランシク元・統合民主党議員)が、そのとき共に地下2階の取調室にいたのです。ヨンシクさんは実によく殴られたそうです、死んでしまいたいほどに」。
彼女は、その取調室で当時、安企部対共捜査局長だったチョン・ヒョングン国民健康保険公団理事長に会った。
「チョン・ヒョングン氏が入ってきて、こう言いました。『お前が百万学徒の代表か。百万学徒というのは、この国の大学生らがお前を代表と認めているのか。うちの娘は大学生だが、自分はお前を代表だとは考えていないと言っていたぞ』」。
チョン・ヒョングン局長(当時)はイム・スギョンさんの答えが気に入らないかのように、何度もファイルと書類で机をたたき、どなりちらした、という。激しいののしりも絶えなかった、という。
「チョン・ヒョングン氏が出ていくと、取調官らはこう言いました。『そんなことばかり言っていると生涯、ここから出られない。お前がここから出ていかないといって大韓民国はどうだと言うのか。お前1人が死んだからといって、いなくなったからといって大韓民国がどうってことではない』式に」。
話しているイムさんのくちびるはピリピリと震えていた。
110号調査室があった側は鉄製トビラで固く閉じられていた。自分をしきりに押し出している空間を、彼女はそう簡単に離れられなかった。固く閉ざされたドアのノブを何回も回してみる彼女だった。
「ここがどれほど多くの青春の涙と血とハン(恨)がこもった所であることか」。
階段を昇って再び正門側に向かった。正門から入っていくとテーブルとイスが置かれた休憩室が見える。休憩室の向こう側が面会室だったという。
「当時、ノ・テウ政権がイム・スギョンは人間的に取り調べるとしつつ、宣伝しようとしてアボジ(父)、オモニ(母)との面会をさせました。父母が面会に来ると言うので、どっと涙があふれ出るようでした。私のあだなは『水道の蛇口』なんですから、よく泣くもんだから。ところが、いざ両親に会うと涙が出ません。後ろに記者たちがぎっしり立っていて写真を撮り続けているのに、泣いてはいけないと思われたのです。ええ、私が泣けばノ・テウ政権は私が後悔している式に宣伝するだろうな、と思って」。
面会を終えて戻ってきた彼女に取調官らは「残忍な女め、両親に会っても涙1つ流さないのか」とののしったという。
全体主義体制と「取調官」
「その時、光州出身だという1人の女性取調官が、こう言いました。『わが故郷・光州ではなく、大韓民国がすべてなくなったとしてもお前のようなパルゲンイ(アカ)は根絶やしにしなければならない』と。その人も梨花女大を卒業したと言っていました。ところで、そのとき私を調べていた人々がみんなそうでした。司法試験の1次は合格したものの2次試験がダメで安企部に来たというアジョシ(おじさん)、警察大学出身だというアジョシ、そして私を取り調べていた女性調査官は3人だったが、そのうちの2人が梨大出身だと言っていました。別に、周辺にいる平凡な人々でしたよ、勉強も一生懸命やった、良い大学を出てきた。その人々にもう1度、会って聞いてみたいです。われわれはそれほどに間違っていたのか、と。それはそんなに人間を抹殺させるほどの犯罪だったのか、と。そんなふうに取り調べをしていて、あなた方の心は平気だったのか、と」。
ユダヤ人ヘナ・アレントは著書〈エルサレムのアイヒマン〉で「悪の平凡さ」という概念によって、ユダヤ人虐殺に乗り出したドイツ人たちの心理構造を定義したことがある。カルル・アドルフ・アイヒマンはユダヤ人の移住と虐殺の総指揮をした親衛隊将校で、戦後アルゼンチンに逃亡したあと1960年にイスラエルの情報機関の追跡によって捕らえられてイスラエルで裁判を受けた。アレントはその裁判を傍聴しながら、アイヒマンを血に飢えた虐殺者ではなく、権力者の命令や実定法に忠実だった1人の小市民と結論づけた。問題は、そのような権力や体制の要求にいかなる疑問も抱かなかった良心や思考能力の欠如だった。そのようなすべてのことに「名分」や「免罪符」を与えた全体主義の体制が問題だった。全体主義は、そのように拷問を受けた人々と、拷問を加えた人々の霊魂を同時に破壊する。
20年後に是非もう一度
ソウル市庁別館を出てきたイム・スギョンさんは振り返って再び建物を見上げた。目のふちが赤くにじんでいた。その瞬間、イム・スギョンさんは案内板の1つを指しながら叫んだ。「見て、誰もが思い通りに入ることのできる所だって。今は誰もが入ることができるって」。その案内板には南山を利用する人々のために別館のトレイを公開する、と書かれていた。
「そう、誰もが入っていくことができた。ところで、なぜあんなに気をもまなければならないのか?」。彼女のひとりごとだった。建物が残した記憶はそれほどに強かった。
「この建物を離れて20年が過ぎました。その20年を私はまるごと忘れてしまいました。『失われた10年』と言う人々がいたが、いったい何を失ったのでしょう? われわれは20年、30年と失ってしまったわけじゃないですか。ところでその記憶を忘れずにしてくれる建物も全部なくしてしまっては、どうします」。
彼女は個人的な希望も1つ付け加えた。
「人生は20年ごとに1回ずつ変わると言うでしょう? 20歳のときにここで私の人生が1度、変わったのが、40歳でここにまた来たことでもう1度、変わったのならば良いのですが。今後、20年後にもぜひとも来ることができるように、この建物がしっかり守られればいいですね」。(「ハンギョレ21」第779号、09年9月28日付、イ・テヒ記者)
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