| 韓国 小説家ソ・ヘソン、抗争29周年の光州を行く かけはし2009.6.8号 |
|
かつて5月になると10万人の巡礼を数えた広場は今は静か |
全羅南道の父なる山、無等山が落ち込んでいる。
人々は長い間、この山から世の中を救う火種を得ようとした。山神霊などの人格神に向けた収穫への祈りではなく、躍動する歴史に向かって天下取りを図ろうとした。手紙の末尾に書物の序で「無等山の麓で」と記すのは虚勢からする世情にうとい人々の衒学的言葉ではなく、時代や良心の命令に従って生きていくという峻厳な誓いだった。その中心に1980年5月の光州抗争が位置している。先週末、無等山は29年を迎えた「光州」を見下ろしながら緑濃き姿をどっしりとさらしていた。
「無等山」に込められた意味
「甲午年(東学農民戦争)に続き、小作争議など農民を中心とした粘り強い湖南(全羅道)人の抵抗は日帝をうんざりさせた。韓国(朝鮮)戦争は理念的に全羅道を詰め、急ぎたてた。決定打はパク・チョンヒ政権が放った。さらにチョン・ドゥファンが実弾を降り注いだのだ。
パク・クァンス全南大教授は、よどみなく論旨を展開しながらも、最初は南道の人々の情緒に適応するのに相当の時間や努力が必要だったという言葉を忘れなかった。京畿道やソウルで育ち、光州にやってきて30年余りになる彼は妹パク・クァンスクを故・キム・ナムジュ詩人と結婚させた。
「4・29再補選の際、この地域の地方議会補欠選挙で民労党(民主労働党)候補2人を当選させたのは、民主党にしっかり1発かました格好だ。だからといって民主党が変わるだろうとは思ってはいない。ここで完敗し、京畿道でイ・ミョンバク政府に跳ね返る利益を得たことで勝利を連呼するのを見ながら本当に驚いた。DJ(金大中)以降、彼らは指導力においても、理念の志向性においても保守勢力と大きな違いはない」。
さしたる違いのない中で、省察を期待するというのは土台、無謀なことだったのかも知れない。
海抜1200メートル足らずの無等山を誰かが、かじり取ってきた。少なくとも東学農民抗争以降、長期間にわたって形成されたトラウマは南道の情緒という名によって被虐的同質性を付与するとともに、政治勢力にとっては奪い取るに具合のよいエサとなった。独裁勢力にとっては分裂の道具として、湖南の権力にとっては既得権維持の担保として作用した。それらを振り切って自ら主人公たろうとしたのが5月の光州だった。
1980〜90年代、多くの青年大衆が社会的故郷とみなしていたその光州は、いったいどこなのか。
光州で会った誰も、その実体が民主党だとは語らなかった。それにもかかわらず政党に対する意思決定が大きく変わってきていないのは事実だ。政治意識を管掌している脳内で起きた情報が、指先に伝えられて記票するまでの間に歪曲が起こるのだろうか。おそらくそれほどまでに担保化されているのだ。
全南道庁前、関係団体の攻防
29周年を迎えた5月を熱くしている話題は、土地の掘削を始めて中断した国立アジア文化の殿堂の建設をめぐる葛藤だ。設計通りならば道庁の後ろ側に立つこの建物が、抗争の核心的シンボルである全南道庁のかなりの部分を取り壊して入り口をつけなければならない所だ。
「しばしば(撤去する場所は全南道庁の)別館と呼んでいるが、壊されるこの場所は増築部分だ。本館と通路で結ばれており、抗争最後の未明に市民軍などがここに追い込まれ、2階のトイレから多数の遺体が発見された。望月洞墓地や尚武台を新しくしたから、いいのか。道庁と噴水だけは手を付けてはダメだ」。
70歳近い遺族会のチョン・チュンシク事務総長が荒々しい声で、これだけはぜひとも伝えてくれ、と言った。
壊すことになっている5階建ての建物2カ所には58メートルにも及ぶ黒いビニールの覆いがかかっていた。5・18関連の3団体は11カ月前から、道庁を守らなければならないとして籠城を繰り広げてきた。国立アジア文化の殿堂造成事業の足を引っ張ってはならないとして2月にここを離れた拘束・負傷者の会が、籠城の場に再び入り、遺族会や負傷者同志会を引きずり出そうとしたのは5月10日だ。
葛藤は深刻な様相だ。数日前には参与連帯をはじめ17の市民団体らがここで原形保存を主張する記者会見を行った。文化体育観光部(省)は工事が正常に進められなければ、まもなく予算を引きあげることになるだろう、とどう喝している。文化部傘下のアジア文化中心都市推進団側では民事上、刑事上の責任を問うことになるだろうとし、また5・18記念行事の後、直ちに撤去の執行を強行すると警告しているのが実情だ。
5月が光州に、光州が5月に傷を被らせている間、無等山は当然にもさらに落ち込み、崩れ、より険しく傾いているのだ。
「光州市長はもちろん、国会議員らにも必死に訴えてきた。こうしていては光州が大変なことになりかねない。共に解決できる方法を求めてくれと泣訴した」。
5・18記念財団ユン・クワンジャン理事長は、今年5月には恥ずかしくても空も仰げなかった。対話さえ断った。80年の抗争当時・教師の身分で鎮圧軍に引っ張られて行った彼は、光州の亡命者として広く知られた弟ユン・ハンボンを2年前、あの世に先に送った。
「光州特別法を、まずしっかり作らなければならなかった。政治家というのは、こういう時に政府と市民の間を調整し、知恵を求めるようにしなければならないはずなのに……。民主党は、ここでは長きにわたって執権勢力ではないのか」。
太いまゆ、髪の毛の逆立っている彼の顔は疲れきっているようだった。
光州は病んでおり、彼らが期待するには政府も民主党も余りにも遠くにあった。
29年前の今日、演壇がわりとして上り戒厳軍を追い払い民主化を叫んでいた道庁前の噴水台では水が無心にほとばしっていた。夜を通して燃え上がっていたかがり火は、なかった。80年以降、虐殺と抗争を記憶し称えて、5月ともなれば全国から押しよせた巡礼者たちが時には10万人を数えていたその広場は、ぽっかりと空いていた。
官が行事を主導するようになる以前に5月の光州に来たことのある人ならば、長い苦しみを伴いながらメッカに向かうムスリムたちの巡礼を理解できたことだろう。彼らにとって旅費と信心が必要だったとするならば、光州に向かう道は警察の監視の目をかいくぐらなければならなかったという点で、むしろもっと苦難に満ちていたと言っても言いすぎではないだろう。巡礼者たちは泊まる所がなくて、ただただ冷たい大学の講堂、そのコンクリートの床に喜んで身を預けたものだ。光州は負い目であり教科書であり、そして未来だったという訳だ。そして彼らがたどりつこうとしたその頂点が道庁だった。
交通管制塔の解雇労働者たち
黒いビニール・シート越しに錦南路を見つけ伏せっている旧道庁で出会った光州巡礼者・米国人ジョージ・カチアヒカス(全南大・交換教授)は楽観的だった。
「光州の人々は抗争を通じて競争から協働へ、服従から抵抗へと良くなっていった。私はこれを『エロス効果』と呼んできており、光州をパリ・コミューンと比較した論文を書いたことがある。ヨーロッパの68革命は愛国から国際主義へと発展していった。下から上がってくる力は偉大であり、発生や手続き、意識などすべてを新たに構成する。現在の葛藤も大きな目で見ればこれと変わらないと考える」。
彼は契機に伴った民衆の質的変化を愉快に説明していた。
道庁のまん前の大通りの曲がり角にはロケット電機の解雇労働者たちがいた。彼らのうちの2人は、空に向かって上っていくのかのように優に30メートルは超える、すっと立った交通管制塔の、そのてっぺんに「巣」を作って65日目を過ごしていた。筋肉のけいれんを抑える薬を服用し、パス(薬)を塗り、大人用おむつを着用し、ペット・ボトルで用を足しながら、彼らは5月を待っていた。
「光州で最も激しく闘った人々は、持たざる人々だった。虚空にしがみついて考えてみると、その時でも今でも労働者を取り巻く状況は変わっていないじゃないかと思い、やる瀬ない。それでも5月を信じる。光州の市民たちがわれわれを捨てないことを知っている」。
30メートルを隔てて糸電話に乗って聞こえてくる労働者ユ・ジェヒさんの声は力強かった。非正規職をなくそうとの主張をした罪によって追い出された彼ら。新たに職員を選ぶ際に優先採用するという約束を会社側は守れという切迫した要請は、5月の領分として残っていた。
そうだ。長い間、5月の光州は新しい世の中だった。5月が開け放った空を、彼らは自らの身をもって覚えていた。29年前の光州ではなく、今日のこの場での5月でなければならないわけが、ここにある。政治や社会運動が光州、湖南、5月を食い物にした既得権を古着のように脱ぎ捨て、買弁者から新たな道へと払い捨てることができなければ、無等山はさらに崩れ落ちてしまうだろう。
既得圏のマストが分別を失う
「数年前、前大統領が来たとき学生らが道を阻んだ後で、5・18行事に偉い人が来るからと警察が包囲するように道路を阻んでいる。通行証なしには入ることすらできない。人々の足が目に見えて減った。花の売れ具合いも一緒だ」。
人々が一般的に望月洞旧墓地と呼んでいる、その入り口で「5月コッチプ(花屋)」を開いているアジュモニ(おばさん)は苦笑いした。最初、市民が手造りで仕上げた参拝の道が権力の統制下に入ったのだから、神聖さが減じるのは、ともすれば当然だとも言えよう。
10余年前に新装なった墓域で益山北中、光州クムグ中の生徒らの隊列に続き幼稚園の子どもら百人ほどが小走りに入ってきた。彼らが黄色い帽子を脱いで黙祷を捧げた。その瞬間、望月洞の墓域が明るくなった。
「分かち合い、譲り合うことを学ばずして良い友達を得ることができようか。5・18には年齢を問わず学ぶことが多い。帰ってから子どもらに望月洞に来た訳をていねいに教えてやる積もりだ」。
チャ・ジョムスク園長(スワン・エコ子どもの家)が説明している間、サレジオ修女会の予備修女らが階段を踏んで静かに祭壇の前に上ってきた。
5月を守る人々は彼らであるはずだ。彼らがいる限り、山がさらに低くなったりはしないだろうとの頼もしさがわいた。民心が流浪しているのではなく、既得圏の帆柱が分別を失っているだけだ。
山の父性が強調される時代は民衆に辛酸に満ちた闘いを求めるというものだ。いつの日か母性に満ちた政治がなされる時、初めて無等山が南道のオモニ(母)たる山となり得るはずだ。
道を戻ってくると、山がひょいと身を広げ、起き上がっているようだった。(「ハンギョレ21」5月25日付、ソ・ヘソン/小説家)
〈光州〉連作版画家ホン・ソンダム
「歴史的責任を取らな
かった民主党は有罪」
版画連作<セビョク(夜明け)>を通じて5月抗争直後の光州をストレートに形象化し続けていたホン・ソンダム画家は、光州の危機は「チェサ(祭祀)」にある、と繰り返し語った。遺族中心の「5月」を市民中心のものへと移していかなければならない、という意味だ。
――光州抗争を形象化した代表的な作家だ。29周年を迎えた思いはどうか。
光州は、わが青春そのものであり、また誇りでもある。29周年を迎えた今、ほろ苦さは拭いえず、また消しがたい。いま光州で起きていることもそうだし、人権や民主主義が80年代へと退行しているのを見ながら、5月の光州をさらにしばしば想いおこしている。悪夢も見る。
――光州の形象化は続けられていると思うか。光州ビエンナーレは5月の精神を受け継いでいるのか。
5月の血の対価によって誕生したビエンナーレは最初から民衆と遊離していた。ただ一般美術家たちのお祭りであり、ヨーロッパ・ビエンナーレをまねいたものだと言っても間違ってはいないだろう。光州内部の、いわば食物連鎖とも言える。私も参加したことがあり、自ら恥じるところが少なくない。人権、平和、反戦など世界の至る所で起きている暴力的な行為に対して創造的な形象言語によって発言することのできる場とならなければならない。まさに5月の精神に立ち戻ることだ。
――国立アジア文化の殿堂の設立問題で5月の関係団体などが葛藤しているが。
道庁は当然にも保存されなければならないが、それよりも重要なのは分裂しないことだ。ましてやそこで銃に撃たれて死にもしたのに、これしきの葛藤は克服しなければならない。内部の敵も払いのけてこそ本当の5月の精神を持っていると言うことができる。問題は利己心だ。
――先日の補欠(地方議会)選挙で民主労働党の候補が光州と長興で当選した。光州、全南(全羅南道)の民心は進歩的なのか。地域にとらわれているのか。
あえて他の地域と比較するまでもなく、進歩的な政治的意思を持っているにもかかわらず、最悪だけは避けなければならないとの考えから民主党を選択してきた。当選の可能性、けん制勢力などの論理がそれだ。そのために光州、全南の人々は長い間、二重性に苦しめられなければならなかった。地域主義という貶(おとし)めも受けなければならなかった。地域大衆の政治レベルにふさわしい政治勢力が出現しなければならないというのは当然だと思う。民労党候補の当選は変化をもどかしく要請している民心を意味する。民主党という政治勢力は、歴史的責任をおよそ取ったことがない。そういう点では有罪だ。
――最近はどんな作業をしているのか。
日本帝国主義の本質を知らせようとしてきた靖国神社の作業に続き、龍山の惨事について絵を描いている。(旧)正月を数日後に控えた未明に生命を焼き殺してしまう権力がある限り、5月は続く。これは光州と何ら変わることのない虐殺だ。受難が新たに始まっており、むごく苦しくはあるけれども恐くはない。われわれは、この山を越えるだろう。これこそが光州が残した財産だ。(「ハンギョレ21」第761号、09年5月25日付)
|