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追悼                         かけはし2009.4.27号

原田節さんと共に過ごした時代

「いつもしんどいところを損得なしに引き受けた」
立原 瀧二


 四月二日、原田節さんが、最も愛した那須岳で雪崩により亡くなった。今年の一月、同岳で遭難し亡くなった山仲間の慰霊登山のため、峰の茶屋方面に向かう途中の出来事だった。その場所は、まず雪崩が起こらない場所。文字通りの遭難だった。五人のパーティーのうち原田さんだけが、雪崩から脱出できず流されて雪に埋没。懸命の救出作業にも関わらず、帰らぬ人となった。享年五十九歳。後世を妻とともに農業に懸けようと、東京から茨城県牛久に移り住んだ矢先のことだった。
 宇都宮時代の友人であり、同志のひとりとして、ここに彼と過ごした時代を回想し、追悼文とさせていただきます。
栃木の市民運動
を大きく変えた

 ここに一枚の写真が残されている。茨城県の仲間にお願いして送ってもらったものだ。写真には、「共青同」と染め抜かれた旗と、まだ若かった原田同志(写真中央下)とその仲間たち。そして、そこには私の姿もあった。遠い記憶をたどれば、たぶん茨城県の袋田で開催した「栃木・茨城反戦青年サマーキャンプ」のひとこまであると思う。今から四半世紀も昔、彼が三十五歳、私が二十四歳ごろのことだ。
 私が彼と初めて出会ったのは、キャンプの数年前のこと。大学を卒業し、宇都宮で就職してしばらくしてからのことだと記憶している。場所はどこかの居酒屋だったと思うが定かではない。当時、宇都宮には数人からなる共青同の班が存在し、私は学生時代からの縁で「世界革命」を購読していたから、その関係で紹介されたのだと思う。
 彼は中央方針の空白県解消とやらで、キャップとして派遣されてきたことを後から知った。そして、三里塚一九七七年五・八闘争の被告で、東山裁判の目撃証人であることを聞かされた。その甲斐あってか、彼が来てからの栃木県の市民運動は大きく変わった。共青同のメンバー(私も彼にオルグされたそのひとり)、シンパも拡大。金大中救出運動、映画「侵略」上映運動、反天皇制講座、そして三里塚闘争と、人々の目で見える運動が活発に、それも連続的に展開されはじめたのだ。それは利己的な党派の運動ではなく、正に市民運動として存在した。県知事を相手取って「玉串料違憲訴訟」の原告団を組織したのも彼だった。まさに彼は、オルガナイザーそのものだったと言い切れる。
 ステ貼りの方法を伝授してくれたのも彼だった。深夜、「第四インター」のステッカーを大学に街角に貼りまわったことを思い出す。当たり前の方法であったのかもしれないが、ステッカーをロール状に重ねて、軍手に糊を付けて貼るなど想像もつかなかったのだ。また、彼はチラシのガリ切りや謄写版の技術にも長けていた。それは職人芸の世界そのもの。あるネットの中に、「いつもしんどいところを損得なしに引き受けてきた人でした」「彼が先頭に居るなら遠くまで行ける、そう思っていました」という追悼の一文に、素直に頷けるのは私だけではないだろう。
 また、彼が栃木県における活動の中で特筆するものに労働組合の結成があった。ある木材会社で発生した一方的な解雇に対し、全国一般栃木合同労組を組織。連日の抗議行動、座り込みなどを経て、解雇撤回という全面勝利を勝ち取ったのだ。もちろんその先頭に立ち赤旗を掲げ、組合員を鼓舞し、資本と対決したのも彼だった。それまで「組合」とはまったく無縁だった年配の組合員と酒を酌み交わし、肩を組んで「インターナショナル」や「同志を固く結べ」を声高々に歌っていた姿を思い出す。
 彼は宇都宮を出たあと東京に戻り、柘植書房の編集者など出版関連の仕事に携わり、電子部品、エコ関連会社を経て、農業に生活の場を見いだした。柘植書房以後は会う機会も少なくなったが、何かの集まりがあるたび、その活躍ぶりが話題に上り、「いつでもどこでも、奴らしく元気にやっているんだな」と微笑んだものだ。
 彼の突然の死に、何か割り切れないものを感じる同志と仲間は、決して少なくない。それは、彼がどの時代でも、どの場所でも精いっぱい生き抜いて皆に勇気を与えてくれたからだ。存在感の大きな人だった。今でも「よう、どうした」と人なつっこい笑顔で向こうからやって来るような気がする。
 彼の葬儀に、春風に翻る赤旗もインターナショナルの歌もなかったが、心の中で「同志は倒れぬ」を口ずさみ、棺を赤旗にくるんで送りたいと切に思う。
 原田同志安らかにお眠りください。いつまでもあなたのことは忘れません。


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