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1980年代に始まった新自由主義の「アジア的モデル」が分解過程に突入 |
2008年3月の国会選挙とバランスシート
40年間政治と議会を主導した与党が大幅に議席を後退させ左派勢力が台頭
ダニエル・サバイ |
二〇〇八年三月八日の選挙は、マレーシアの政治的世界に地殻変動をもたらした。連立与党国民戦線(BN)とその中心政党である統一マレー国民組織(UMNO)は、一九五七年の独立以来最も大きな選挙における敗北をこうむった。連立与党はこれまで議会で百九十八議席から二百二十議席を保持してきたが、百二十七議席しか獲得できず、マレーシア連邦十三の州のうち五つの州の支配を失った。野党パカタン・ラキャト(PR、人民同盟)にとっては大きな勝利であり、BNが四十年間維持してきた、BNが望むあらゆる法律を議会で成立させることを可能にしてきた三分の二の多数派支配を終わらせた。これはまた、マレーシア社会が大きな変化を望んでいることの兆候でもある。
マレーシアの社会契約
マレーシア社会の編成は、英国植民地主義の遺産であり、人種差別主義的基盤と言わないまでも、人種的基盤に基づいている。種々のグループ、特に、マレー人、中国人、インド人(この三大民族グループが、人口のそれぞれ60%、25%、8%を占める)が、独自の区域、学校、商店、クラブなどを持って擬似分離的に生活している。
植民地時代に、英国人は数万人のインド人をマレーシアに連れて来て、ゴム・プランテーションやすず鉱山で働かせた。中国人は、中国南部からの貧しい移民として、自由にやってきたが、このコミュニティーは今日ではこの国の商業の中枢を支配するまでに富んでいる。植民地時代に、多数派であるイスラム教徒マレー人ブミプテリ(大地の子)に優位を与えることと引き換えに、中国人とインド人の市民権を交渉した。マレーシアは立憲君主国となり、王座は、順番性で半島の九つの世襲スルタンによって共有された。マレー人の習慣が連邦の構造の核心となり、イスラム教がマレーシアの宗教となった。UMNOは、独立以来、マレー人共同体の利害を代表する党であり、政治的世界を支配し、したがってこの国の主要勢力となった。
一九六九年、UMNOが主導する選挙連合は選挙において大きな敗北をこうむった。人種暴動が勃発し、二つの主要な民族グループが対立した。これらの出来事は一九六九年五月十三日に始まり、最終的には、古いマレー特権階級を代表するトゥンク・アブドゥル・ラーマン首相の政権を終焉させ、新興マレー資本家階級の代表に利益をもたらすものとなった。
これらの出来事は、この国の歴史の新しいページを開くものであり、新しい資本家階級が権力を確立した。すなわち、新経済政策(NEP)の開始である。暴動後の非マレー人に対する抑圧とテロの雰囲気が、マレーシアの構成民族のただひとつを優遇するこの政策を強制することを可能にした。この時期以降、人種暴動の恐怖が、UMNO、および特にその若者層に、市民権を要求するあらゆる運動に対する臆病さを植えつけた。
マレー人の優越と政治支配
一九六〇年代の終わりには、ブミプテリは企業の株式のわずかに二・四%を所有し、中国人共同体は二七・二%を所有し、外国人が六〇%以上を所有した。一九七一年以降、新経済政策(NEP)は、積極的な差別を通じた富の公平な再分配、すべての共同体内の貧困の根絶、国民的統一の強化を目標とする政策として打ち出された。
主として農業に閉じ込められ、非マレー人、特に中国人に比べて遥かに劣る教育的条件と経済的状態に置かれていたブミプテリが、土地の取得、公務員への就職、特定の商業取引認可の取得、奨学金、住宅の取得などに関して実施された措置の主要な受益者であった。これらの措置は、一時的なものと想定されていたが、一九九〇年にはNEPは国民開発政策(NDP)に置き換わり、この政策の精神はNEPと異なるところはなく、続いて二〇〇〇年までに国民ビジョン政策に置き換わった。
多様な積極的な措置が、マレー人中産階級の登場を効果的に可能にするはずであった。しかし、この政策は、マレー人の特権を意味するものとなり、公然たる人種差別主義的イデオロギーを作り上げた。
UMNOの優越は、ケチュアナン・マラユ(マレー人支配)という人種差別的概念にその表現を見出した。これと平行して、この優位性を確保し深く分割された社会に対する厳格な支配を確保するためにいっそう抑圧的な法律が施行された。これらの法律は、急速な経済的開発を主要な目的とする権威主義的国家に役立つはずであった。
一九八一年から二〇〇三年まで首相であったマハティール・モハマドの支配の下で、「アジア的モデル」の概念が練り上げられ、発展させられた。投資を優遇する新自由主義的措置が導入され、これにともなって非常に制約的な労働立法が導入された。一方では、政治的複数主義は政治的安定に対する脅威と考えられ、経済的利益が個人の権利より重要であると考えられた。
経済的発展の名の下に、裁判所は窒息させられ、「西洋的価値」と等置された人権に対して「アジア的価値」が対置された。表現の自由は著しく制限され、すべてのメディアは政府によって厳格に管理された。国内治安、メディア、扇動、国家秘密、大学、宗教および民族間関係に関する抑圧的法律が、個人と組織の厳格な管理を可能にした。
共同体間の緊張と対立
すべての調査や研究がNEPの目的がとっくに達成されていることを示しているが、政府はこれらの「法定特権」や社会の中でのマレー人の特別の地位に手を付けることを望んでいない。「既得権」に関するこの政策が、共同体間の緊張を悪化させることに寄与した。
中国人はもはやマレー人の特権のために金を払いたくないと考えており、銀行貸付、公務員への雇用や教育へのアクセスの領域において抑圧されていると感じている。二〇〇七年十一月には、インド人が、彼らに割り当てられた公民権の二級市民的性格に反対して反乱を起こした。一九五〇年のマレーシア独立の日以来、インド人共同体の困難に対して政府はほとんど関心を示してこなかったし、(土地投機を動機とする)ヒンズー教寺院の破壊を罰することなく放置してきた。
政府は、連邦の歴史上初めて反乱に立ち上がったインド人たちの要求を考慮するのではなく、力によって対応し、「ヒンズー教徒権利行動団」(HINDRAF)の指導者や二〇〇七年十一月二十五日のデモの組織者を逮捕した。依然として三人の指導者が、国家治安を脅かしたとされる者を裁判なしで無期限に拘留することができる国内治安法(ISA)に関連して、拘留されたままである。
マレー人に関しては、すべての者がよいコネや天の恵みの利益にあずかっているわけではない。マレー人農民は、依然として相対的に貧困のままである。NEPは、UMNO内部に影響力を持つビジネスマンを作り出すことや、国家契約から利益を得ることに寄与した。ビジネスと政治は密接に結びつき、NEPから引き出される利益は、UMNOのメンバーがマレー人の投票を勝ち取り、自分自身を金持ちにし、党内部の地位を築き上げるために大いに利用された。
民主的要求と社会的運動
一九九八年七月の抗議運動後に登場したBNに対する反対派は、「レフォルマシ」と呼ばれる。当時副首相でUMNO総裁であったアンワル・イブラヒムの投獄は、強力な動員をもたらし、支配連合に対する反対派の連合戦線「バリザン・オルタナティブ」(BA、オルタナティブ戦線)をもたらした。この連合は、主要野党、すなわち、マレーシア・イスラム党(PAS)、アンワルの妻ワン・アジザー・ワン・イスマイルに率いられた完全な新党である人民正義党(PKR)、および中国人を基盤とする民主行動党(DAP)によって結成されたものである。
一九九七年の危機によって引き起こされた崩壊から親密な企業を守るためにマハティールが取った措置に反対したアンワルの失脚によって解き放たれたレフォルマシ運動は、マレーシアにおける民主的変革と正義に対する強力な欲求を示した。デモ参加者の要求はまた、真の政治的複数主義の欲求も反映していた。
この運動はマハティールの失脚には至らなかったが、彼の人気に永続的な損傷を与え、彼の権力の掌握力を衰えさせた。一九九七年の経済・財政危機およびレフォルマシ運動後の一九九九年の総選挙において、BAはBNとUMNOの影響力を、特に選挙基盤の牙城であるマレー人が多数派を占める農村州において、掘り崩すことに成功した。UMNOの影響力の消失は、党の内部においてさえマハティールに対する抵抗をもたらし、二〇〇三年の(22年間に及ぶ首相の地位からの)マハティールの引退をもたらし、現在の首相であるアブドラ・アーマド・バダウィに利益をもたらした。
投票に示された政治的変化
一九九九年の選挙は、社会の人種的編成に挑戦する政治的時代を開き、民主的前進を勝ち取りたいというマレーシア人の欲求を示した。このことは、特に、一九九九年以降のすべての選挙における政治的変化に反映されている。
一九九九年には、UMNOは、一九四六年の設立時に獲得したマレー人のチャンピオンとしての資格を失った。マレー人選挙民の目にUMNOに代わるものと映り、選挙の勝利者となったのは、超保守的なイスラム政党PASであり、人民正義党ではなかった。この勝利は短命なものであった。なぜなら、その後の二〇〇四年の選挙で幸運の反動をこうむったからである。
親イスラム政策を受け入れるためにPASの指導者たちが取ったことは、おそらく、マレー人にとってマハティールと彼の政策に関する魔法を解く唯一の方法であっただろう。しかし、一九九九年の選挙におけるPASの成功は、UMNOがイスラム教的主張と党の伝統的な民族主義的主張を漸進的に混ぜ合わせることによってPASと対抗しようとした結果であった。実際、それまでは主要な論争は本質的に文化的および民族的秩序の問題であったが、UMNOによる政治的目的への宗教の利用は、種々の宗派の間の関係を損ない、イスラム宗派に属するマレー人に対するイスラム法の重圧を強化することに寄与した。
マハティール辞任の一年後の二〇〇四年には、彼の後継者のアブドラ・バダウィが、汚職と戦い、透明性と民主主義を支持することを約束することによって議会選挙で勝利した。これらの約束は、依然として演説の言葉のレベルにとどまっており、ISAのような種々の反民主的法律を変える試みや、新聞の自由を与える試みは実施されていない。非常にカリスマ的な指導者というわけではないアブドラは、UMNO内部においても、特に彼を後継者として選んだマハティールによって、拒否され、次の二〇〇八年三月の選挙において拒否された。
二〇〇八年の選挙は、支配連合である国民戦線と主要政党UMNOにとって、これまでに記録された最も重大な選挙の敗北であった。BNの得票率は、二〇〇四年には六〇%であったのに対し五二%であった。四十年間で初めて、BNは、憲法改定を余裕を持って行うことができ、望む修正を論争も反対もなしに通すことを可能にしていた議会における三分の二の多数を失った。
政府は票を獲得するために、種々の共同体に対してありとあらゆる種類の贈り物を約束した。農民は最も貧困なマレー人に対する奨学金の拡大、農村におけるインフラへの支出の拡大、五年間に二百万人の雇用の創出などである。政府は中国人の学校のための資金を約束し、インド人に対して破壊された寺院の再建のための土地を約束した。非マレー人共同体からの改革の要求に直面して、NEPを維持する意思を再確認した。
UMNOによる管理と手を切りたいという欲求は、強まっているように思われる。野党は、ペナン、ペラク、セランゴルのような工業州や首都クアラルンプールで選挙に勝利した。マレー人投票者も、彼らの利益を守ってくれると思われていたUMNOに関する魔法が解けたことを示した。半島部で、マレー人投票者の半数は、これらの選挙のために三つの主要野党(PAS、PKRおよびDAP)によって結成された野党であるパカタン・ラキャト(PR、人民同盟)を選んだ。PASはケダおよびケランタン(この州は1990年以来PASが支配してきた)の諸州で選挙に勝利した。
「マハティール体制」への回帰?
二〇〇八年三月の選挙以来、新しい部分選挙が行われ、野党が勝利している。これらの選挙の敗北と、UMNO内部の政治的不安定が、潮流を強めることに寄与し、二〇〇九年三月の次回党大会でアブドラ・パダウィを退陣させることに寄与した。党総裁としての彼の後継者であるナジブ・ラザクは、二〇〇九年三月末に首相の地位に就いた。なぜなら、UMNOの指導者は自動的に議会多数派である国民戦線の公式代表者となり、したがって首相になるからである。
ナジブの権力への到達は、投票者のメッセージ、すなわち透明性、整合性、能力、正義の要求を受け入れることからはほど遠いことを示しており、UMNOがマハティール時代のような独裁的なシステムに回帰する可能性を示しているように思われる。ナジブは腐敗に関わっているので、このことがUMNOとマレーシア市民社会の間のギャップを深める可能性がある。
一月には、野党に率いられたペラク州の州議会多数派のメンバーの離党を引き起こし、国民戦線に忠実な新しい政府を形成する策略が展開された。この策略は、ペラク州のスルタンと共謀して行われ、スルタンは、離党後のPRの議会メンバー数とBNのメンバー数が依然として等しいにもかかわらず、BNが率いる新しい政府の構成を承認した。最近、BNはふたたびサランゴル州国会議員でありPRの顧問である女性が裸で眠っている写真をインターネット上に流して信用を傷つけようとした。これらの写真は、彼女の知らないうちに元ボーイフレンドが撮影したものであるが、この保守的な国では大事件であり、議員辞職を申し出ることを余儀なくされ、新しい選挙になる可能性がある。このような策略の例はいくらでもある。投票箱で失った権力を取り戻し、カリスマ的なアンワル・イブラヒムが率いる野党を黙らせるためには、手段を選ばないのである。
一方、パカタン・ラキャト(PR、人民同盟)は便宜的な連合と見られ、所属する党の間の差異は大きい。アンワルのPKR(人民正義党)は多民族党であるが、PASはイスラム法を唱導するイスラム政党であり、DAP(民主行動党)は中国人共同体の利益を代表する。これらの党の合意の主要点は、腐敗や権力の切り売りと闘い人種的特権に基づいた社会体制と手を切るには、過去四十年間UMNOが強制してきた管理体制を変えることが必要だということである。PASとDAPの間の宗教問題に関する差異は、二〇〇八年三月に勝ち取った州を一緒に支配し、人民を尊重する政策に従うことを妨げなかった。パカタン・ラキャト(PR、人民同盟)の強みは権力にとって新しいものであり、メンバーは権力によって消耗させられておらず、腐敗にまみれていない。
マレーシア社会党(PSM)
マレーシアの政治は、独立以来、ほとんど人種的および共同体的論理によって支配されてきた。「マレー人優位」政策は、マレー・イスラム共同体全体の利益にはならなかったが、支配連合とマレー大企業のネットワークの利益になった。アブドラ政権は、マハティールが始めた新自由主義的政策を先鋭化させた。マレー人労働者の搾取は、マレーシアの中国人やインド人の搾取と変わるところはなかった。
経済的問題や階級闘争は、これまでイスラム国家の構成のような人種的問題によって覆い隠されてきたが、前面に出てくる可能性がある。これは、マレーシア社会党(PSM)が自らに課した任務である。一九八〇年代末にマレーシア左翼が完全に姿を消した後、一九九四年に設立されたPSMは、人民階層の中に自らを植えつけることに成功している。その主要目的は、「PSMの主要任務は、異なる人種をひとつの労働者階級運動に統一し、資本主義に対する闘いに勝利することである。」
その設立以来、PSMは、病院の民営化、燃料価格の上昇、イラクにおける戦争に反対する闘いを民族の連合の文脈の中で指導してきた。PSMは、マレーシアと米国の自由貿易協定に反対する闘いを行った唯一の政党であった。昨年まで、PSMは十年にわたる法廷闘争にもかかわらず法的登録を獲得できなかった。このことが、二〇〇四年および二〇〇八年の選挙においてPSMがアンワルの人民正義党(PKR)の旗の下で闘った理由である。
二〇〇八年の選挙では、PSMの二人のメンバーが当選した。PSM中央委員会のメンバーであるジェヤクマル博士は、支配連合の有力なメンバーである労働大臣を相手に闘って議会の議席を勝ち取った。PSM委員長のナシル・ハシム博士は、スランゴル州議会の議席を勝ち取った。社会主義者議員が議会や州議会に選出されたのは、この四十年間で初めてのことである。PKRの旗の下で出馬したが、PSMは独自の選挙資料と独自の綱領を掲げて選挙運動を行った。二人の同志の選挙は、とりわけプランテーション労働者、都市の貧しい人々や工業労働者の中での本物の活動家形成の結果である。
登録以降は、PSMは、最小限の基盤である「国民戦線にノーを」に基づいてパカタン・ラキャット(人民同盟)とともに活動してきた。NEPの抑制、ISAの廃止、労働者に有利なあらゆる取組みの要求を支持している。議会内部においては、ジェヤクマル博士は野党に参加しているが、労働者の利益に反する決定や彼が固守する社会主義的原則に反する決定には拘束されない。二人の党員の当選は、PSMにとって強力なトランポリンになっており、今やPSMは十三の州のうちの七つの州に組織を持ち、約一万人の委員会メンバーがいると公称している。マレーシアの左翼のこのような発展は喜ばしいことであり、PSMが強化されることを願うものである。
▲ ダニエル・サバイは、バンコク在住の「インターナショナル・ビューポイント」の通信員。
(「インターナショナル・ビューポイント」09年4月号)
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