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ガザに光を!現地緊急報告集会              かけはし2009.4.13号

イスラエルは封鎖・占領やめろ

崩壊に瀕しているガザ地区 今こそこの戦争犯罪を裁け


どのように生き
ていけるのか

 三月二十日、東京・水道橋の在日韓国YMCAアジア青少年センターで「ガザに光を!現地緊急報告集会」がガザに光を!実行委員会の主催で開かれ、昼間に行われたWPNの参加者が多数を占めた。一月にガザ入りしたジャーナリストの土井敏邦さんがイスラエルによる空爆・地上攻撃後の様子やパレスチナ人のインタビューをビデオ撮影したものを映しながら現地報告を行った。余りの惨状に、パレスチナの人びとが今後どのように生きていくことが出きるのか、われわれは何をしなければ考えさせられるものだった(別掲)。
 次にアラブの音楽に挑戦している松本泰子さんがアラブと日本の歌を披露した。続いて、パレスチナ支援の活動をするNGOから報告が行われた。
 アムネスティ・インターナショナル日本の川上園子さんが「イスラエル軍が使った武器(白リン弾、フレシェット〔小さい矢が5〜600本が空中で炸裂する〕、立方体榴散弾〔無人機から発射される新型ミサイル〕など)が国際法で禁止されており、戦争犯罪として訴追すべきという人権専門家の声があがっていると報告し、戦争犯罪を裁こう」と訴えた。
 次に在日本韓国YMCAが「ガザにもYMCAがあり、職業訓練や幼稚園を運営し、さらにオリーブの植樹支援キャンペーンを行っている。募金などを通して支援している」と報告した。JVC(日本国際ボランティアセンター)から@救急セットの提供A先天性代謝異常疾患の子どもへ治療用ミルクの提供B栄養失調児へ新鮮な食料の提供C幼稚園の子どもたちへぬいぐるみの提供を行っている」と活動を報告し、「無力であることと、微力であることは違う。大海の一滴が大海をつくる」と訴えた。

今回ほどつらい
ことはなかった

 パレスチナ子どものキャンペーンから次のように報告があった。
 「昨日ガザから帰ってきた。私はガザに行くようになって二十年目になる。今回ほどつらいことはなかった。人が抱えている悲しみの深さを感じられたことはない。一面瓦礫の山。パレスチナ人が苦しい経験を話してくれる。知ってほしいと語る。子どもはつらい思いを抱えているので心を開けない。私たちは農家から野菜を買い上げ、障がい者の子どもに配る。農地の三〇%を破壊された。ガザの中の方に押しやられている。支えないとガザが崩壊する。エジプト側から物が入っているが、ガザの経済を回さないといけない。援助でしか生活できない状態だ。国連の支援会議が開かれ、EU・日本・米が支援するとなった。しかし封鎖をどうするか、イスラエルに破壊しないことを約束させることができるのか、ここがはっきりしないから、インフラの復興支援が具体化しない」。
 「署名を四万八千筆集めた。一千万円を超えるカンパが集まった。五月までに千人の子どもたちの検診と栄養補給をする予定だ。現地のNGOのワーカーたちを支援しなければならない。おとなたちが希望をもって子どもたちを育てられるようにしなくてはならない」。
 最後にピースボートが「暖房がなくビニールを着て寝ている状態だ。子どもたちはPTSDになっているが、イスラエル人を殺そうとは思っていない。ただ安全で平和な生活がしたいだけだ。見捨てないで、と言う。希望を捨ててはいけない」と報告した。
 報告はいずれもパレスチナ・ガザが崩壊の危機に陥っていることを明らかにした。イスラエルの封鎖・占領をやめさせる運動をつくりだしていこう。  (M)
 停戦後の一月二十三日にイスラエルとの国境、北部のゲートが開かれた。アベドラ地区はイラクのファルージャと同じで建物に対する徹底的破壊とガザ市民に対する無差別の虐殺が行われた。アメリカンスクールでさえ破壊された。白リン弾は十日後にも燃えていた。医薬品や豆の倉庫が爆撃され、使い物にならなくなっていた。
 戦車の砲撃によって十四人の家族のうち十一人が殺されて、生き残った子どもの一人は両足切断された。別の場所ではF22戦闘機からの攻撃で四階建てのアパートが崩壊し、三十五人のうち二十三人が死んだ。白旗を掲げた少女が十メートルからの至近距離から射殺された。また、サムリファシクーでは百二十人が一カ所に集められ、ミサイル攻撃を受け二十九人が死んだ。こうしたひどい攻撃によって、子どもたちは人権や民主主義が信じられないとトラウマに苦しんでいる。
 日本ではあまり報道されていないが、産業への破壊も徹底的に行われ生活基盤が崩壊した。果樹園やイチゴのビニールハウスを戦車と白リン弾で踏み潰し焼き払った。四百頭の牛を飼っていた牧場で三百頭が殺され、死体はそのままにされていた。
 毎日六百トン生産していたコンクリート工場が壊された。撤退の十二時間以内に東部の二百の工場が壊された。これはイスラエル軍の作戦として行われた。
 ハマスのロケット攻撃があるからそれへの報復として、イスラエルの軍事侵攻があると「暴力の応酬」と報じられるがそれはまったく違う。パレスチナ側がテロに走る原因はイスラエルによる占領だ。イスラエル軍は二〇〇五年にガザを撤退したが、封鎖し軍事的にコントロールしている。これは占領が続いていることだ。占領は目に見えにくく絵に表しにくい。
 そして、パレスチナ抵抗勢力とイスラエル軍との間の攻撃力の差があまりにも歴然としている。イスラエルも悪いがパレスチナも悪いというのはウソだ。
 産業・生活破壊がものすごく、その再建のための建築資材を持ち込めないので、生きていくのが非常に困難だ。封鎖を解き、占領をやめさせることが緊急に必要だ。(ビデオ説明をおこしたもの、文責編集部)

土井敏邦さんのプロフィール

 中東専門雑誌記者を経て、現在フリージャーナリスト。一九八五年よりパレスチナ・イスラエルの現地取材を続けている。主な著書は『沈黙を破る│元イスラエル軍将兵が語る`占領a│』(岩波書店)、『パレスチナの声、イスラエルの声』(岩波書店)など多数。二〇〇九年完成の記録映像『パレスチナ・届かぬ声』(4部作)は、十五年間パレスチナ・イスラエルの双方を追い続け、`占領の構造aを描こうとした作品である。今年も一月からガザに入り、現地の惨状を報道している。


追悼
竹内淳さんの思い出
樋上徹夫(ピースサイクル神奈川)

ピースサイクル
運動の担い手

 「もしもし竹内だけど………今年はどうする?………」「今回は出発式は仕事で出られないなぁー。横須賀の交流会から一泊二日の参加になると思うよ………」「分かった。賛同金のほうもたのむよ、じぁあ………」
 毎年六月頃に彼から必ずかかってくる電話。神奈川ピースサイクルの参加・走行日程の確認の電話だ。この十年間あまりはこの電話のやりとりが彼との「年始の挨拶」がわりのようなものだった。
 彼は発病する少し前に「ピースサイクルで使うから大きい車体でないとだめなんだ」と、小型車を希望する家族の猛反対を押し切って自家用車をワゴン車に買い替えている。すでに彼の脳裏には今年のピースサイクル運動の全国展開のイメージ、そして神奈川ピースサイクルの構想が浮かんでいたのかもしれない。そこへ突然の体調不良、検査入院、そして「膵臓ガンのレベル4b(最末期)」の宣告。彼はもちろん、私も周囲の仲間たちの誰もが到底受け容れがたい宣告だった。
 彼の思い出のほとんどは二十年に及ぶ神奈川ピースサイクル運動の中にある。当初の頃は参加者が三十人をこえるほどで特別に彼の印象はなかったが、年とともに参加者が漸減していく中で毎年宣伝カーのハンドルを握り、自治体へのメッセージ伝達、交流会での挨拶にと事務局の一人としてしっかりとこの運動を支えていた。実走時には彼はドライバーに専念していたので彼が自転車を漕いでいる姿は実はまったく記憶にない。
 私自身は神奈川県内での参加経験しかないが、彼はピースサイクル全国事務局長として長崎や広島など全国各地の実走行動、交流イベントなどに何度となく参加している。彼がピースサイクル運動に情熱を注いだのには、この運動を通してしか得られない貴重な経験や交流を自身の「宝」として育もうとする強い意志があったからだと思う。
 「ピースサイクルが全国化して二十周年、私も今年で五十歳になり、節目の年でもある今年は平和への願い、安心できる安全な社会づくりの一歩を広島、長崎で感じ取れればとの思いから八月六日広島、八月九日長崎の集会に参加してきました」(08年神奈川ピースサイクル報告集に彼が寄せたピースサイクル広島・長崎報告の書き出し)。

開港阻止決戦
で重傷を負って

 私事に及ぶことだが、普段は活動の場をまったく異にしていたにもかかわらず彼に対しては独特の親近感があった。彼の勤務(集配)エリアが私の居住・生活エリアであったため、制服姿でバイクを駆る彼と何度も遭遇し先に気づいた方から「オ〜ス!」と声をかけあっていた。
 二月に見舞ったとき彼はロビーまで出てきて応対し私たちの心配を少しでも和らげようと努めていた。だがすでに腹水が滞留して足もむくみ始めていた。「ヤバイ」と直感。彼を目の前にしてそう直感したのは実はこれが初めてではなかった。
 一九七八年三月二十六日の三里塚開港阻止決戦当日に空港に突入した青年共闘、学生共闘の部隊の中には重度の火傷、銃弾や催涙ガス弾の被弾などで深い傷を負った多数の仲間たちがいて権力に逮捕・拘束されたまま千葉県警の利用する病院に搬送されていた。当日午後に三里塚野戦病院の医師たちと病院に急行するとそこに彼がいた。首(後部)に至近距離からの催涙ガス弾の直撃を受けて意識朦朧、口からは黄色い液体を吐瀉していた。呼びかけてもうめき声のような反応しか返ってこない。衝撃による神経系統への影響が懸念された。時に彼はまだ十九歳だった。彼も含めた多数の重体・重傷者は野戦病院の医師たちらの猛抗議で直ちに権力の手から奪還されて救急医療設備の整った病院へと転送され、最悪の事態はなんとか避けられた(新山幸男同志を除いて)。
 彼は`活発で多弁な労組活動家aというイメージにはおよそそぐわない口数の少ない穏やかなタイプ。今風に言うと「ダルく」て「ユルめ」のヒョウヒョウとした活動家。けれどもそういうタイプの活動家ほどえてして頑固者なのだ。
 そういう彼には時に独り言のように、自分に言い聞かせるようにポツリと言葉を発するクセがあった。それが的を射ていたり意表をつく冗談だったりしたのでよく覚えている。何度目かに見舞ったとき、彼は腹水の滞留でパンパンに膨らんだ腹を指して「まるで妊娠八カ月だよ」などと冗談を放ったが笑うに笑えなかった。彼は見舞った私たちの緊張感をなんとか解きほぐそうとしていたのだと思う。腹水の滞留で内臓が圧迫され本当に苦しかったはずなのに。
 病床にある彼とは一つだけ約束を交わした。「今年の神奈川ピースサイクル、ワゴン車はたっぷり使わせてもらうよ」(私)、「ウン」とうなずいて首をたてにふってくれた彼。
 竹内淳さんに誓います! 神奈川ピースサイクル運動の発展・継承に力のすべてを注ぐことを!竹内淳さん、本当にありがとう!

竹内淳さんの略歴

 一九五八年に新潟県巻町に生まれる。
 一九七七年に川崎市中原区の郵便局に入局し三里塚を闘う全国青年学生共闘に結集。自らの生命をかけて三里塚の農民に連帯し開港阻止決戦の最前線を担う。日本共産青年同盟に加盟。その後は開港阻止決戦被告となった全逓の同志たちに対する郵政当局の不法不当な処分撤回闘争と救援に尽力。全逓(現JP労組)指導部に抗して階級的労働組合運動のために闘いぬき郵政労働者ユニオンの結成と共に神奈川支部の先頭で闘う。神奈川県労働組合共闘会議(県共闘)の議長もつとめる。一九九〇年からは神奈川ピースサイクル運動の展開に情熱のすべてを注ぐ。
 二〇〇九年三月十四日に膵臓がんで死去。


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