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「かんぽの宿」が明らかにしたもの           かけはし2009.3.30号

公共資産食い物にしたオリックス

「340兆円」に群がる日米金融資本
郵政民営化の本質さらけ出すなりふりかまわぬ利潤の追求



白紙化された
一括譲渡契約

 今年一月、鳩山邦夫総務相が日本郵政とオリックス不動産との「かんぽの宿」一括譲渡契約に対して「国民が出来レースだと思う可能性がある」と待ったの声をかけた。これを契機に「入札」をめぐる多くの疑惑が浮上し、宿泊・保養施設「かんぽの宿」の売却問題は白紙に戻されることとなった。
 「かんぽの宿」、東京中央郵便局の建て替え問題と続く経過をみると「総選挙を乗り切って政権維持を図りたい麻生政権の生き残り策」とも見られる。麻生の「郵政民営化は間違いだった」発言はその証左といえる。また「旧郵政省のファミリー企業で、天下り先」を失うことに対する官僚の「反乱」という側面も色濃く存在する。
 だがそれと同時に「かんぽの宿」問題が明らかにしているのは、小泉―竹中ラインの下で押し進められた郵政民営化の本質が「国民の共同財産」を日米の「ハゲタカ・ファンド」に切り売りするための「改革」であったという事実である。また「かんぽの宿」問題は一九八〇年代末から進められた新自由主義的グローバル化・規制緩和の実態の一側面を余すことなく映しだしている。それは「規制緩和」を「改革」として賛美し続けた「日経」や「朝日」などのマスメディアが果たした役割や犯罪性さえ同時に暴露している。ここでは郵政民営化全体について取り上げることはできないが「かんぽの宿」が垣間見せた「規制緩和」の実態を明らかにしたい。

民営化は誰の
ためだったか

 郵政民営化の核心は郵貯・簡保の三百四十兆円という膨大な金融資産を「国」のくびきから解き放ち、米日金融資本がさん奪することを目的にして押し進められたということである。民営化の手法は国鉄、電電公社の経験を基礎とした「分社化」であり、小泉が「改革」の旗を振り、マスメディアが「応援団」の役割を果たすことで充分であった。この縮図を最も体現したのが二〇〇五年の総選挙における「小泉劇場」であった。
 小泉に郵政民営化を強力に要求したのがブッシュ共和党政権とウォール街のリーマンやメリルリンチ、ゴールドマンサックス、シティバンクなどの米国の金融資本とハゲタカファンドであった。米国の郵便事業が未だ民営化されていないにもかかわらず、強力に日本政府に対して民営化を強制したのは「三百四十兆円」をターゲットにしたからに他ならない。
 今回の「かんぽの宿」問題の主役を担った日本郵政とオリックスの関係は、「民営化」の決定・実施と並行して準備された。つい昨年までオリックス株の約五七%を前記した大手外資が握っていた。その中には昨年倒産したライブドア事件で有名になったリーマン・ブラザーズも含まれている。
 だがサブプライム問題でハゲタカファンドなどの外資の一部が撤退を余儀なくされるとふだんあまり耳にしない「日本トラスティ・サービス信託銀行」が筆頭株主に代わった。この日本トラスティ・サービス信託銀行はりそな銀行、住友信託銀行、中央三井トラスト・ホールディングがそれぞれ三分の一ずつ株式を持っている。
 二月二日の参議院本会議における国民新党の自見庄三郎の質疑応答の中で明白になった事実であるが、この信託銀行は郵貯・簡保の旧勘定で百三十兆円の管理業務をすでに引き受けているのである。これは郵貯・簡保の持っている三百四十兆円の三分の一を超えている。三井住友銀行が当時の竹中総務相と組み日本郵政の社長に西川善文を送り込んだのはそのためである。
 西川が三井住友銀行頭取であった時代、バブル期の不良債権を処理するためにゴールドマンサックスに増資を依頼し引き受けてもらっている。西川の三井住友が日本の大手銀行の中で初めて外資導入の先鞭をつけたのである。日本トラスティ・サービス信託の裏にはすでにゴールドマンサックスが食い込んでおり、二〇〇七年三月に一括売却された「かんぱの宿」や社宅問題ではゴールドマン・サックス系ファンドが「大活躍」している。
 また今回の売却にからんで日本郵政がアドバイザーとして契約を締結しているのがメリルリンチ日本証券である。外資が「かんぽの宿」の売却にどんなアドバイスをするかはさておき、成功報酬が最低六億円も払われる。オリックスとの契約は白紙に戻ってもメルリリンチとの契約は維持され、毎月アドバイザー料として一千万円が支払われている。二重三重にハゲタカファンドは関わっている。

不正きわまる
「出来レース」

 この問題が表面化した時、日本郵政側は盛んに「競争入札」という言葉を使ってオリックスへの売却はルールに則ったものであるかのような印象を与えようとした。しかしこの二月十六日、総務省が日本郵政に「入札」に関する資料の提出を求めると事態は一変した。
 事実は@二〇〇八年五月に二十七社が応募したが信用力とホテル運営能力の審査で五社が落とされ、六月には十五社が辞退A八月の一次審査では三社にしぼられたが、さらに一社も辞退し、十月の最終審査には二社が残った。この時オリックス不動産は二十三億六千万円、対抗馬のホテルマネージメントインターナショナル(HMI)が四十三億五千万円の価格を付けた。日本郵政は「評価が低すぎる」として「ゆうぽうと世田谷レクセンター」を対象から外し、それ以外の価格を引き上げるように要請し、その結果オリックスに決まったのである。このように事実経過の中に「競争入札」は一回もなく、実質は「任意契約」のための「不正な出来レース」に他ならなかった。
 日本郵政と西川は、「年四十億〜五十億円の赤字や全従業員三千二百四十人の雇用維持を考えると譲渡価格は適正」であると何度となく「赤字」と「雇用維持」を強調した。竹中もこの間頻繁にテレビに出演し「かんぽの宿は赤字の不良資産」説を持ち出し必死に弁明し続けている。
 だが「かんぽの宿は二〇〇五年度には十七億円の黒字。それが〇六年度には突然三十六億円の赤字となった。その最大理由は減価償却期間を六十年から二十五年に大幅に短縮したからである。赤字はあくまで『帳簿上』のことで『営業』は黒字」なのである(『文芸春秋』09年4月号)。日本郵政は「入札」の途中で「赤字」を入札業者に示し、その段階で三分の二を辞退させている。「転売の禁止」と、強調されている「雇用継続」も「転売を阻止する縛りは二年間となっており、雇用にいたってはオリックスとの間で「少なくとも一年間は現行の条件を維持する」となっているだけである。つまり二年後には転売が可能であり、一年後には従業員を入れ換えることができる契約となっている。
 二〇〇七年三月に売却された「かんぽの宿」の中で、一万円と評価された鳥取県岩美町の「鳥取岩美簡易保険保養センター」は、一年もたたないうちに六千万円で鳥取市の社会福祉法人に転売された。四千円と評価された沖縄東風平レクセンターも一括で購入した業者により学校法人尚学学園に四千九百万円で転売されている。オリックスの目的もさらにこれを数倍、数十倍の規模でやろうとしたのである。二千四百億円をかけて作った七十施設をわずか百九億円で叩き売る関係が「出来レース」でないという方がおかしい。

新しい抵抗の
闘いと合流を

 一九八〇年代後半から始まった「規制改革」「規制緩和」はその進展過程で新たな多くの「ベンチャー企業」をつくり出した。その典型的な企業がグッドウィルであろう。グッドウィルは規制緩和で成立した介護事業や人材派遣にいち早く乗り出し、一挙に「時代の寵児」に上りつめ、矛盾が顕在化すると「詰め腹」を切らされ没落した。
 だがそれより巧妙に規制改革会議の議長の椅子に座りながらそれがつくり出す「利益」をむさぼり続けたのがオリックスの宮内である。宮内はハゲタカファンドの裏に隠れて村上ファンドなどに投資をして巨大な富を手に入れ、他方では自ら規制を解除し公共的な病院の民営化・PFIにも三菱などと組んで積極的に突き進んでいる。最早病院は医療の場ではなく利潤追求の場に化したのである。
 二〇〇五年に成立した郵政民営化法は、二〇一二年九月までに「かんぽの宿」をすべて廃止し売却することを条文化している。しかし宮内はその五年前に「かんぽの宿」の統廃合と民営化を主張し、オリックスグループとしてねらいを定めていた。
 「『かんぽの宿』は全国に八十カ所くらいあり、郵便局で集めた資金で造られました。……そもそもなぜ、国の機関が宿泊事業をしなければならないのか根本から問い直すことも必要でしょう」(宮内『経営論』)。
 ここにあるのは国民の財産・公的資産をいかに資本の利益対象にしていくかという思想だけである。これが規制緩和の実態であり、残ってしまいどうしても利益対象にならないものだけを国民に税金で支えるように押しつけるのである。
 郵政の四社分割とほぼいっしょに「ゆうメイト」と呼ばれる非正規労働者が大量に導入された。「ゆうメイト」を安い賃金で働かせるだけでなく、返す刀で郵政労働者の労働条件を切り捨てることによって「マル生」時代よりも劣悪な労働環境が郵政の労働現場に強制された。これが意味しているのは、一方では「三百四十兆円」の金融資産の売却の準備をしながら、他方では再び「赤字」を口実に郵便事業会社をクロネコヤマトやペリカンに売却するか統合再編しようという目論見である。
 郵政民営化をめぐる第一ラウンドは、全郵政、全逓などの屈服によって少数の闘う者が孤立させられ、全体的には闘わず敗北させられた。しかし今日、全国に拡がり始めた「派遣切り」に対する抵抗と闘争、そしてそれと合流し始めた労働者・市民。第二ラウンドはこの新しい流れとともに反撃していかなければならい。    (松原雄二)



荒川国際平和展 2009
沖縄・パレスチナ・東京大空襲を結ぶ平和の意思

 【東京東部】三月七、八の両日、東京荒川区のムーブ町屋四階ギャラリーで、「荒川国際平和展2009」(主催・実行委)が開催され、約百人が訪れた。
 一夜にして十万人以上が殺された一九四五年の東京大空襲から六十四年。今年も被害の大きかった東京の下町をはじめ、各地で追悼・慰霊行事が開かれた。二〇〇〇年、区民有志が集って始めた平和展は九年、十回目を数える。大空襲の悲惨を語り継ぎ、平和を願う姿勢は変わらないが、地元東尾久地区への本土初空襲の実態調査や、世界の戦場を取材するジャーナリストらの写真、一般公募作品の展示など、参加者への敷居を低くした多彩な内容が特徴だ。

イスラエルのやり
方は変わらない

 初日七日のテーマはパレスチナ。午後二時から映画「レインボー/RAINBOW」が二度にわたって上映され、その後藤田進さん(元東京外語大教員)とルティ・ジョスコビッツさん(「私の中の『ユダヤ人』」著者)の対談が行なわれた。
 司会の三井峰雄さん(山猫印刷所所長)があいさつ。「昨年末からのイスラエルによるガザ地区への一方的な空爆を見ていると、一九八二年のレバノンを思い出す。同年六月から始まったイスラエル軍によるベイルート包囲と大爆撃、大虐殺だ。イスラエルのやりかたはちっとも変わらないじゃないか。状況はまったく良くならないじゃないかと怒りがわいてくる。それでも、その頃から連帯運動を続けてきたお二人とみなさんがこうして集まり、議論を積み重ねていくことが大切だと思う」。

ガザとつながる
東京大空襲

 ルティさんはまず、自身の生い立ちや経験から語った。
「私はパリで育った。ユダヤ人の家で親の言うことをそのまま信じて過ごしてきた。ユダヤ人は世界一の民族であり、イスラエルは世界でもっともよい国だ、と。一九六八年に初めてイスラエルに行き、パレスチナの問題を知った。両親の話と全然違う現実に大きなショックを受けた」。
 藤田さんは、「普通の市民が強大な軍事力でズタズタにされる。映画レインボーのなかで監督が言うように、記録する意志をはるかに超える現実が繰り広げられ、進んでいく。これをどう受け止めたらいいのか。記録行為はほんの一部になってしまう」。
 「ガザの被害と、かつての東京大空襲の被害とはつながっている。ジェノサイドだ。人間を殺す世界は、ちっとも変わっていないのだ」と指摘。参加者との議論では、イスラエルの国際的地位や、国内での平和勢力について、世界のユダヤ人とイスラエル国家について。マスコミの報道のあり方などが提起された。ルティさんは、「世界のユダヤ人のなかには、イスラエルを批判する人も多い。でもイスラエルの女性と難民の男性が結婚することもある。そうした現実の流れは、もはや誰にも止められない」と語った。

今も癒されぬ
惨劇の深い傷

 翌八日は区民平和音楽祭。ハイビジョンルームで荒川少年少女合唱隊がレッスンを一般公開。練習曲は構成合唱「ぞうれっしゃがやってきた」。指揮者の厳しい指導に懸命に応えようとする子どもたちの澄んだ歌声は、聞く人の琴線を振るわせ、涙腺を緩くする。
 国の戦争責任を国民が初めて集団で問う裁判「東京大空襲訴訟」はこの五月、最終弁論を経て判決が予定されている。火炎地獄のなか、愛すべき家族が目の前で殺されていく惨劇。肉体と精神に負った深い、癒やされない傷は今も生存者を苦しめ続けている。
 戦後六十四年、国家による調査も追悼も、謝罪も、補償もされない切り捨て状態に置かれた遺族らは、「私たちを人間として扱え」と怒りをこめて提訴した。十日には、浅草公会堂で大集会が開かれた。

語りつぐことが
私の責任です

 星野ひろしさん(訴訟原告団団長・空襲犠牲者遺族会会長)は、合唱団の子どもたちを前に墨田、台東、江東地域の当時のようすを生々しく語った。父の戦死で途方にくれる家族。北十間川にかかる福神橋の土手に引き上げられ、累々と並ぶ無数の子どもたちの遺体。十四歳の星野さんは親戚の安否をたずね、上野から高田の馬場まで歩いた。菊川周辺などあちこちで、死体が道をふさいでいた。
 空襲の実態を語り歩いていると、当時を知る人々に出会う。その証言で、あいまいだった記憶が正確に修正されていく。「あの惨状を語り継ぐことが私の責任です。それが私の戦後の原点です」――優しい口調だが重い言葉に、子どもたちは静かに聞き入っていた。東京朝鮮第一初中級学校舞踏部の生徒たちは、おなじみの民族舞踊を披露した。

胸にしみわたる
スライドトーク

 フォトジャーナリスト・大島俊一さんのスライドトークが始まった。ハイビジョンルームのスクリーンに映し出されたパレスチナ、イラクの写真をもとに、現地情勢と世界の流れが報告、分析された。
 大島さんは学生時代からドキュメンタリーに魅せられていた。東京・山谷地域では、日雇い労働者の姿を追い続けた。仲間と記録映画の制作も手がけた。
 今年の常設展示として、「戦争を止める人びと」と題する四十八枚を選んだ。戦火と米軍基地に翻弄された沖縄の人々の素顔を追った写真だ。特種紙にプリントされたモノクロ写真は、緩やかな陰影で被写体の意思を伝えている。穏やかな語り口で、ギャラリーとスライドを解説した大島さんの人柄を示すような、印象的な作品群である。
 海外取材に出かける予定を変更され、準備段階から実行委にかかわってこられた。
 参加者は今年も「グループ・風見鶏」の演奏で「イムジン河」「千の風になって」などを合唱し、「おいしい」と評判のすいとんを試食。二日間のイベントは無事に幕を降ろした。(S)


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