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09年関西三里塚闘争旗開き               かけはし2009.2.23号

一坪共有地売却強要をはねかえせ

上坂さんの遺志を引き継ごう
上坂喜美さん遺稿集『三里塚を再び緑の大地に』出版記念会

 【大阪】二月一日の日曜日、尼崎市立労働福祉会館で、関西三里塚闘争旗開きと「三里塚を再び緑の大地へ」(上坂喜美遺稿追想集)出版記念会が、「関西三里塚闘争に連帯する会」、「関西三里塚闘争相談会」、「上坂遺稿集編集委員会」の三団体の共催で開催された。
 上坂さんの遺稿追想集の出版記念会と旗開きの同時開催ということで、旗開きには久しぶりの参加という人も多く、参加者は四十人とにぎやかな会となった。とりわけ上坂さんのお連れ合いの滋子さんが一言お礼を言いたいと、病弱な体をおして参加してくれたことが参加者を感激させた。

「再共有化」の意義
提起した上坂さん

 会は二部構成で行われ、最初に出版記念会が行われた。『三里塚を再び緑の大地に』と名付けられた遺稿追想集には、「成田空港」反対闘争についての上坂さんの考えが、三・二六、五・二〇の開港阻止闘争から「一坪再共有化」運動の時期にかけての上坂さん自身の文書で示されている。と同時に、三里塚闘争に献身する上坂さんの思い出が、反対同盟員として、あるいは支援として上坂さんとともに闘った、柳川秀夫さん、加瀬勉さん、鎌田慧さん、吉川勇一さんをはじめとする多くの人によって記されている。
 とりわけ、高島喜久男氏の「再共有化批判」を批判するために、一九八三年に上坂さんによって記された「積極攻勢の『再共有化』運動」という文章は、成田航空会社による一坪共有地売却攻撃が強まっている今、また革共同(中核派)再建協議会による自己批判が出された今こそ、一坪共有化運動の有効性を確認し強化する上でも、大衆運動における民主主義的あり方を再確認するうえでも最も重要な文書であろう。
 この文章の中で上坂さんは、反対同盟が分裂に至った情況を記したうえで、「現状での二期工事強行に展望のつかめない政府や公団が同盟の瓦解に希望をかけて、こちらの弱点めがけてさまざまな手を打ってくる」と政府・公団の攻撃の性格を分析する。そして、前の共有化運動が「敵からの攻撃に受け身的に対応して内部混乱を引き起こした」という反省にもとづいて、再共有化運動を、「直接的な二期工事準備としての一坪用地の切り崩しを防ぐと同時に、二期用地内外に自主耕作、闘う農業などによる闘う人民の村建設という積極的攻撃的方針」として位置付ける。
 そして、「闘いの前進に役立つものならどこから誰からもち出されたものでもこれをとり入れ、実行に移す中で徹底討論もし、まずい所があれば修正もしてゆく、言い出した者はその実行に責任をもち、反対意見を言う者がいてもいいが全体の妨害するようなことはしない」と、さまざまな闘争の過程で創り出されてきた三里塚闘争の作風をも提起しているからである。

「本来の意味での
共産主義的人間」

 開会の挨拶の後、編集委員会を代表して丹羽道晴さんが編集の経過を報告。丹羽さんは「一周忌には間に合わなかったが、なんとか旗開きには間に合った」と、編集時の苦労と完成の安堵感を率直に語り、「ジュンク堂のホームページにも載っているので書店でも注文できるが、ここに集まった皆さんが買うだけではなく、多くの人に勧めてくれるのが大事だ」と、完売に向けての激をとばした。
 続いて発言した反対同盟世話人の柳川秀夫さんは、「上坂さんは一貫して反対同盟とともに歩んでくれた人」と上坂さんを評価し、「上坂さんに恥じないように生きて生きたい」という自らの気持ちを語った。そして、空港会社による一坪共有地の買収策動の現状について報告し、空港反対運動を経済至上主義の社会を変えていく運動の中に位置付けて、「今の経済成長だけの世の中を見直し、新しい世の中を創る運動の中で、今後も空港反対運動を続けていきたい」と締めくくった。
 戸村選挙以来、上坂さんとともに連帯する会の運動を支えてきた、阪神連帯する会の菊永望さんの乾杯の音頭の後、参加者はそれぞれの上坂さんの思い出を語った。運動の先生、人生の師としての上坂さんであり、運動の同志としての上坂さんであり、そして運動に真摯に向き合う上坂さんの姿であった。それは、鎌田さんが本書によせた一文、「見事に生きた上坂さん」にある、「今は見かけなくなったが、自己犠牲的な、昔流にいえば、『共産主義的人間』の典型みたいな人だった」、「酒も煙草もやらず、たいして食べず、禁欲的な苦行僧のような」上坂さんを彷彿とさせるものだった。
 この会には、カナダ・モントリオール在住の上坂さんの息子さんの鉄さんからもメッセージが寄せられた。このメッセージの中で鉄さんは、三里塚闘争に取り組む上坂さんの姿を見て父親を見直したことや、巨人の試合の中継を聴きながらひたすら輪転機を回していた父親の思い出を語ってくれた。そのメッセージが読み上げられた後、上坂さんの妻の滋子さんが不自由な体で立ち、何度も何度も「ありがとうございました」と述べ、参加者みんなの心を打った。

革共同(再建協)
自己批判への批判

 第二部の旗開きでは、革共同(中核派)再建協議会の自己批判が出された直後ということもあって、参加者の発言はその問題に集中した。参加者の少なくない人が当時、中核派のメンバーによって職場や自宅に押しかけられ、恫喝され、暴力をふるわれる中で一坪共有地運動を担ってきた仲間であり、この自己批判書に厳しい評価を下したのは当然のことだった。
 発言者の多くが中核派からかけられた自らの内ゲバ体験を語り、中核派による内ゲバが第四インターにのみかけられたのではなく、運動全体にかけられたものであることに言及した。
 そして、この自己批判書にはそうした視点はおろか、こうした内ゲバ被害者に対する謝罪の言葉が一言もないことや、一坪共有化運動を脱落派の土地売り渡し運動とする従来の彼らの立場をいささかも変えていないことを指摘し、この文書が自己批判書にはなっていないとする発言があいついだ。     (Ma)




県教委の攻撃はねかえし全国に反響

「指導力不足」教員免職裁判で処分取消の勝訴判決


 【岡山】去る一月二十七日、岡山地方裁判所で「指導力不足等」を理由にした解雇は違法と、闘ってきた安東啓治さんの判決公判があった。
 法廷には傍聴席数を超える七十人の傍聴者が詰めかけ、裁判長も「判決にこれほどたくさんの人が来るのは初めてです」という中で行われた。判決は「主文、原告安東啓治に対する分限免職処分を取り消す。訴訟費用は、被告である岡山県教育委員会の負担とする」と短かったが、法廷では「オーッ」という声と割れんばかりの拍手が広がった。
 一分もかからない法廷だったが、二〇〇六年四月十四日の分限免職と、それに対する岡山県人事委員会への不服申し立ての却下、そして県教委側の九人の弁護団が提出する二十数年前にさかのぼっての「指導力不足」現象の膨大な書類、二十六項目の理由など、教育委員会が総力をあげての解雇攻撃だっただけに、三年にわたる闘いの成果が現れた。「免職処分は、裁量権の乱用にあたり違法」という勝利判決は、法廷に満ちあふれた喜びと勝利によって包まれた。

「目ざわりな」
教員の排除も

 判決後、岡山弁護士会館で、弁護士より判決文の解説が行われた。判決は、原告が指導力不足である可能性はあるが、地方公務員として不適格であるかどうかについて「慎重かつ十分な検討」をしていないと指摘し、免職処分は裁量権の乱用にあたり、違法と断定したのである。
 この判決は「指導力不足」という概念にはあらゆる問題が含まれ、抽象的であり分限免職基準もあいまいであり、このことの判断を避け、地方公務員として不適格か否か、が検討されていないという理由で、処分取消の判断を示したものである。従ってあいまいではあるが、問題が今後の教員のあり方、働き方の問題として先送りされた半面、解雇にあたる免職処分取消という歯止めを行ったのである。
 この指導力不足教員問題は、教員の中から「不適格教員」を排除しようとつくられた概念であり、思想的に目ざわりな教員のパージも含め、教員への支配と粛清を意図したものであった。安倍晋三が著した『美しい国へ』の中で岡山の指導力不足教員問題を取り上げ、教育現場からの排除を主張し、また、文部科学省も、教員の資質を理由に免職した初めての司法判断が示されるとして、全国的に注目されてきた。こうしたことへの反撃として今回の岡山地裁の判断は、抵抗する労働者にとって大きな励ましとなった。
 しかし、その一方でこの制度に対する反撃にまでは至っていない。指導力不足を判断する認定委員会は、構成メンバーが不公表であり、教育委員会は事務局の作成した書類審査だけで認定している。しかも判決で明らかにされたのは最終的に免職を決めたのは、教育委員会総務課の課内会議で決めたとのことであり、教育委員会の空洞化と密室性などその腐敗ぶりが指摘されている。
 岡山県教育委員会は、新教員の採用で、試験結果以外の理由で採用したり、採用か否かを国会議員や県議の問い合わせに対し電話連絡するなどで昨年の新聞をにぎわし、権力者にへつらう姿が浮き彫りになっている。教育界という特権社会の中で万能と言われる県教育委員会に対する今回の抵抗闘争は、今後も続くであろう控訴審、上告審の中でもより強化していきたい。
 なお、安東さんは、岡山県教組(連合系)に所属しているが、同じように分限免職された京都の高橋さん(地裁で勝利判決)、高裁で逆転勝利判決を獲得した大阪の井澤さんと上部団体の違いを超えて(全教系、大阪教育合同労組系)交流が開始されていることを報告しておきたい。  (吉村)



「北方領土の日」反対集会
アイヌ民族の先住権・諸権利
無視した「返還運動」にNO

日本政府からの
謝罪が不可欠だ

 二月七日、東京・渋谷勤労福祉会館で「アイヌ民族の先住権、諸権利の実現に向けて闘おう」をスローガンに、「北方領土の日」反対!アイヌ民族連帯!関東集会が開催された。主催は同集会実行委員会。
 二〇〇七年九月の「国連先住民族権利宣言」を受けて、昨年六月六日には国会で「アイヌの人々を、日本列島北部周辺、とりわけ北海道に先住し、独自の言語、宗教や文化の独自性を有する先住民族として認めること」いう決議が全会一致で採択された。
 さらに昨年七月、G8サミットに合わせて開催された「先住民族サミット」アイヌモシリ2008では、日本政府に対して「まず過去のアイヌ政策を反省し、明確な言葉で公の場で謝罪する」こと、「先住民族の権利、とりわけ、自己決定権、言語権、自然資源利用権など、アイヌ民族が本来持っていたすべての権利の速やかな回復を図るべき」こと、「『アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会』の構成や運営においては、アイヌ民族と日本政府との対等な関係が保障されるべきであることから、その数についても、少なくとも半数以上がアイヌ民族から選ばれ、委員の選定についてもアイヌ民族の意見が尊重されるべきである」ことなどが提言された。
 こうした動きの中で、「北方諸島」の先住民族としてのアイヌ民族の自決権を無視し、「日本固有の領土」である「北方領土の返還」をキャンペーンする政府に抗議の声を上げなければならない。
 この日の集会では狩野雄一さん(東京アイヌ史研究会)が「樺太・千島交換条約とアイヌ民族の強制移住」について、そして島崎直美さん(札幌ウポポ保存会事務局長)が「世界の先住民族との連帯を求めて」というテーマで講演した。

先住民族サミット
の成果引き継いで

 樺太・千島交換条約(1875年)は、千島(クリル諸島)全体を日本領、樺太(サハリン)をロシア領としたが、同条約付属交換公文では、交換の対象になる地域に住む住民の処遇については後日、日ロ間の協議で取り決められることになっていた。樺太に住むアイヌ民族にはロシア国籍を、千島に住むアイヌ民族には日本国籍をというのがその原則であり、国籍と居住地を一致させるという政策である。これは同地域に住む日本人とロシア人には居住地に関わりなく従来どおりの国籍選択が認められていたのに比べると、明らかな差別政策だった。
 そして一八七五年八月二十二日に調印された交換条約付録文書では、三年以内に樺太・千島に住むアイヌ民族に国籍選択を強制した。たとえばロシア国籍のままでいることを望むウルップ島以北の千島在住アイヌは居住地を去らねばならないことになり、樺太在住のアイヌ民族で日本国籍を望む者は樺太から去らねばならなくなった。
 狩野さんは南樺太アイヌの一部が、自らの意に反して宗谷、そして石狩川流域の対雁(ついしかり)に強制移住させられたこと、さらに北千島アイヌにも三年以内の居住地(国籍)選択を迫り、北千島北端のシュムシュ(占守)島のアイヌを一八八四年にシコタン(色丹)島に移住させた経緯について語った。こうした強引きわまる強制移住によってアイヌ民族は伝染病などによって多くの死者を出すことになった。狩野さんは自由往来を分断してアイヌ民族を国境に閉じ込めた誤りを指摘するとともに、それを前提とした「北方領土交渉」に異論を提起した。
 島崎直美さんは、「北方領土の日」が当事者としてのアイヌ民族を置き去りにするものだと批判し、国連の「権利宣言」も国会決議も「国の謝罪」がなければ権利・要求としては実現できないと強調した。そしてアイヌ民族にとっても「自分だけがよければいい」ということではなく、「みんなが幸せになる」ための努力を若い人びとにも伝えたい、と述べながら「皆さんがアイヌ民族のために何をしてきたのか考えてほしい」との突きつけも行った。
島崎さんはまた、二〇〇八年の先住民族サミットをやりぬいたことで、一人ひとりが自覚し、自立する勇気を与えられたと確信をもって語った。    (K)


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