| 韓国はいま アラリアン一家のパレスチナ受難史 かけはし2009.2.9号 |
相次ぐ空襲でもガザを離れず
76歳、「ここが故郷の地だから」 |
「ナクバ」から4
度目の「ガザ戦争」
イスラエルが「独立戦争」として、パレスチナでは「ナクバ(大災難)として記憶されている1948年が始まりだった。1956年、ガマル・アプデル・ナセル・エジプト大統領がスエズ運河を国有化したときも、イスラエル軍は英国やフランスの側面支援を受けてガザに戦車を駆り出した。
1967年の「6日間戦争」は実に38年にわたる軍事占領へと続いた。占領が終わってから3年半余り、2008年12月27日にイスラエル軍は再びガザを攻撃し始めた。作戦名「ケスト・レッド」は百年のパレスチナ受難史において実は4番目の「ガザ戦争」なのだ。ガザの痛みは、それほどに歴史が深い。
アラブの4カ国
を転々とする
長い痛みの歴史は悲劇の年代記へと連なった。パレスチナ難民3世である米国ジャーナリスト・アラリアンが1月2日、進歩的時事週刊誌「ネーション」インターネット版で紹介した家族史は、やるせなさの典型例だ。その訳を見てみよう。
「2008年12月28日朝、友人の『サファ』がミニホームページに載せた文章を見た。ハラボジ(祖父)が暮らしている町内にイスラエル軍が空襲を浴びせたというのだ。サファは、ガザ・シティの人口密集地域であるアスクラに暮らしているハラボジの隣近所だ。近くの大学街にもミサイルが飛び込み、家路に向かうバスを待っていた若者7人が命を落としたという。侵攻開始直後からハラボジに電話をしようと何度も試みたが徒労だった。『しばし待て』という機械音が繰り返されるばかりだ。最悪の状況に対する心配が頭から離れない」。
アラリアンは「ハラボジは半世紀の間、中東各地をさすらいながら、故郷に帰る日だけを待ち望んできた方」だと書いた。1933年生まれの彼のハラボジは5歳の頃に父母を失い、姉たちの手で育てられたという。1948年のイスラエル建国とともに、パレスチナの全域から追い出された数十万人が難民となり、ガザの海岸地帯に押し寄せた。国連がさし出す食糧にばかり頼って生きていくことはできなかった。故郷の地を去らなければならなかった。離散の痛み、「ディアスポラ(離散・失郷民)」の始まりだった。
「ハラボジはパレスチナ左派出身の難民であるハルモニ(祖母)と1958年に(クウェートで)結婚した。外曾祖父はイスラエル民兵隊の手によって犠牲となったパレスチナ警察の出身だった。ハラボジはサウジアラビアに移り、学校でアラブ語を教えた。……故郷の土を離れてきたハラボジにとっては、ずっとずっと苦痛だった」。
アラブの4カ国を転々としたけれども、どの国もパレスチナ難民出身には国籍を与えなかった。しばし通り過ぎて行く「経由地」であるにすぎなかった。いつかは故郷に帰れるものと考えていたアラリアンのハラボジは、倹約節約してガザ地区の海岸ベリに一区画の土地を買い求めもした。
そのころ戦争の話が伝えられた。1967年6月の第3次中東戦争だ。ガザに進撃してきたイスラエル軍は駐屯地を作り、はなから居座った。戦争以前にガザ地区に居住していなかった人々は「帰還」することはできないという決定も一方的に発表された。「ガザを永遠に失うのではないだろうか」。アラリアンのハラボジは、くずおれてしまった。
1975年、エジプトで暮らしていた彼のハラボジは米国行きを選択した。医学徒を夢見ていた明敏な息子「サミ」のためだった。当時、アンワール・サダト政権はパレスチナ難民たちの教育の機会を制限し、難民の若者たちが専門教育を受けるのを妨げていた。17歳で米国の地を踏んだサミは医学のかわりにコンピューター工学を専攻し、博士号を得た後、1986年にサウスフロリダ大学の教授となった。アラドゥリアンは彼の長女だ。
家族の悲劇は米国の地でも続いた。教授となったサミ・アラリアンはパレスチナ問題に対する積極的な活動によって当局の憎悪を買った。米全域を巡ってパレスチナ救援募金運動を繰り広げ、イスラエルに傾倒した米国の対外政策を強力に批判したからだ。人権運動家として彼の名前が知られていく間、米連邦捜査局(FBI)は専担要員まで張りつけ、彼を監視した。「危険人物」だと考えのだ。9・11同時テロはアラブ系米国人にとっては「災難」だった。あげくのはてに2003年2月20日、米法務省はサミ・アラリアンを、テロ組織である「パレスチナ・イスラムジハード(PIJ)」の指導部だとの嫌疑を被せて逮捕した。
米国ではテロ組織
の指導者の嫌疑
状況以外の具体的な証拠はなかった。裁判の過程でFBIが彼を10余年間、尾行・盗聴してきた事実も明らかになった。1審の陪審員団は嫌疑事実の大部分について無罪判決を下したが、役に立たなかった。新たな裁判が次から次へと提起され、彼はハンガーストライキで対決した。最初に逮捕されてから6年近い歳月が流れた現在も、家宅軟禁状態で裁判を待っている。彼に被せられたもっとも最近の嫌疑は「法廷冒とく」だという。別のアラブ系米国人に不利な証言をせよ、という当局の要求を拒否したからだ。
「ハラボジは5年前、家族らのひき止めにもかかわらず、故郷に帰ることを選択した。ガザに戻ったハラボジは完全に変わった。これまでずっと愛煙家として暮らしてきた方がタバコを断ち、外出も楽しみ始めた。庭いじりや花々の世話にも熱心になった。長い間、夢見てきたようにハーブ茶を飲み、イチジクを摘んでは食べた」。けれども2006年、ハマスの選挙勝利によってアラリアン老人の暮らしは、またまた反転することとなった。イスラエルの苛酷な封鎖が始まるとともに、生活必需品の不足状態に苦しめられた。
それにもかかわらず老人は離れることなく故郷の地を守った。「死ぬか、生きるか、それが問題」であるだけだった。75歳、余生の舞台はガザ以外にはありえなかったのだ。ライラ・アラリアンは、こう書いた。
「オモニ(母)に聞いてみた。『ハラボジは脱出できるときに、なぜガザから離れなかったのか』と。『封鎖がはじまる前に、暮らしがこれ以上、耐えがたい状況になる前に、いや空襲が始まる前にでもなぜ脱け出さなかったのか』と。オモニは、こう話した。『ここが故郷の地だから』と。『ハラボジはいつもノスタルジーに苦しめられていた』と。『ガザはハラボジの両親が眠っている所であり、ハラボジもそこで生涯をまっとうしたいのだ』ということだ」。(ハンギョレ21)第745号、09年2月2日付、チョン・インファン記者)
腹を合わせた親米3国共同戦線
責任をすべてハマスに押し付け
イスラエルの攻撃に道を開く
言葉は正しくしよう。2007年6月、ガザ地区で繰り広げられた一連の事件は明らかに「クーデター」だった。けれどもその主役はマフムード・アッバス自治政府大統領指揮下のファタハだった。06年2月の自治議会選挙でハマスはファタハを押さえ圧勝したが、パレスチナ解放機構(PLO)時節から権力を握ってきたファタハは、これを受け入れようとはしなかった。あげくにはガザの残存勢力はイスマイル・ハニヤ総理が率いるハマス政府に対決して銃撃を行った。ハマスのガザ掌握はファタハのクーデターを鎮圧する過程で「偶発的」に実現したものだ。
1年半ばかり前のことを事あらたに持ち出すのには理由がある。イスラエルはガザ侵攻の理由をこう言いつくろった。「ハマスがクーデターによってガザを掌握して以降、イスラエルを狙ったロケット・ミサイル発射が急増した」。よく見てみよう。ファタハがガザを掌握していた後にも、ファタハ系列の武装勢力はしばしばガザからロケットやミサイルを撃ちあげた。すべての責任をハマスに押しつけるのは明らかに「虚偽の事実の流布」にあたる。
うわべだけの
アラブ民族主義
ところでアラブ国家が、これに調子を合わせている。中でも声高なのはエジプト、サウジアラビア、それにヨルダンだ。絶妙にもアラブの「親米3人組」と呼ばれるに値する。国々だ。公然とイスラエルとの「正常な関係」を結んでいる3国は、いずれの面でも互いに似かよっている。
韓国の独裁者チョン・ドゥファンと同じ時期に執権し、80歳を超えた今日まで鉄拳を振りまわしているのがホスニ・ムバラク・エジプト大統領だ。リヤドのサウ・ドゥ王家は21世紀にも、何をも恐れぬ絶対王政が可能であることを満天下に証明してくれる。また立憲君主国を自称しているヨルダンは米国とイスラエルの支援なしには王室の経済さえ支えることができない構造だ。ここから、ハマスに不安を覚える共通の理由が導き出される。
ムバラク大統領の最大の政敵は「ムスリム兄弟国」だ。ハマスのルーツでもある兄弟国は05年の議会選挙で、さまざまな不正選挙にもかかわらず88議席(全体の約20%)を得て躍進した。以降、政権からの大々的な弾圧によって公開の活動ができずにいるが、金持ち世襲の迷妄を捨てられないムバラク大統領にとっては目の上のこぶだ。サウジアラビアもまた9・11同時テロ以降、自国内のイスラム主義勢力のはびこりによって尋常でない事態となり、全人口の4分の3ほどの「パレスチナ系」と伝えられるヨルダンもまた同じような問題で頭を悩ましている。選挙を通じたイスラム主義陣営の執権、その先例を作っているガザのハマスやレバノンのヒズボラに敵対的とならざるをえない構造なのだ。
そこでだ。「急進展」しているというエジプト主導の休戦交渉は信じるに足らない(注、この稿はいわゆる1月18日の「休戦」以前に執筆されている)。イスラエルの侵攻直後、エジプト政府はガザ南端ラファ国境をガチガチに封鎖しながら、「一切の悲劇はハマスが自ら招いたもの」だと声高に主張した。休戦の当事者としてハマスではなくファタハをそそのかしたりもした。ヨルダン川西岸のファタハ政府もまた、まんざらでもない気配ありありだ。惨劇をやめさせることよりも、ガザでのファタハの影響力を回復することを優先視する態度まで示した。ガザ侵攻直後、アッバス大統領はイスラエルの非難声明よりも、ハマス側に挙国政府の構成提案を先んじて出した。うわべだけのアラブ民族主義、その「不都合な真実」、これが現実の状況だ。(ハンギョレ21)第745号、09年2月2日付)
抗 議 声 明
4人の死刑執行に抗議する
死刑廃止を求めるフォーラム90
一月二十九日、森英介法相は牧野正さん、西本正二郎さん、川村幸也さん、佐藤哲也さんの四人の死刑執行命令書にサインし、死刑執行が強行された。一昨年十二月の鳩山法相時代以来、二カ月に一回のペースで行われている、国連総会決議をも無視したこの暴挙を糾弾する。死刑廃止フォーラム90の抗議声明を掲載する。
本日(1月29日)、牧野正さん(58歳:福岡拘置所)、佐藤(旧姓野村)哲也さん(39歳:名古屋拘置所)、川村幸也さん(44歳:名古屋拘置所)、西本正二郎さん(32歳:東京拘置所)に死刑が執行されたことに対し、強く抗議する。
森英介法務大臣は、昨年10月28日に死刑執行を行い、更に3ヶ月後の今日、4名の死刑執行を行った。これは、死刑の執行にあたっては、記録を精査し慎重にも慎重を期すという人命に配慮した従来の慣行を完全に踏みにじるものであって、暴挙というほかない。
2006年12月25日の長勢元法務大臣の死刑執行に始まり、鳩山、保岡の各法務大臣へと続く連続的な大量の死刑の執行は、わずか2年1ヶ月の間に、10回、合計32名にのぼり、過去30年間類例がなく、死刑廃止に向かう国際的なすう勢に完全に逆行するものであって、強く非難されなければならない。
国家・個人を問わず、人の命を尊重し、如何なる理由があろうとも人の命を奪ってはならないことは、人類共通の倫理であり、民主主義の原理・原則である。そして、それ故に、すでに世界の3分の2以上の国と地域が死刑を廃止しているし、国連は一昨年と昨年12月の2回にわたりすべての死刑存置国に対して死刑執行の停止を求めたのであり、これに応えて死刑存置国は死刑の執行を減少させてきたのである。しかし、唯一日本だけが、これを意図的に真っ向から踏みにじり、本日4名もの死刑を執行した。
昨年10月ジュネーブで開かれた国際人権(自由権)規約委員会において、日本の死刑制度について10年ぶりに審査が行われ、委員から死刑廃止を求める厳しい批判がなされた。日本政府は、この批判に謙虚に耳を傾け、死刑の廃止に向けてスタートを切るべきであったにもかかわらず、これにあえて逆らい、死刑の執行を強行したことは、国際的にも強く非難されてしかるべきである。
日本では、凶悪犯罪は減少の一途をたどっている。死刑判決と死刑の執行の激増を正当化する理由はどこにも存在しない。
牧野正さんは、無期懲役の判決を受けた事件の控訴取り下げ無効の裁判を起こし、係争中だった。死刑判決を受けた事件に関しても、本人が控訴を取り下げており、三審まで裁判を受ける権利を保障されておらず、死刑の量刑が正しかったか否か大いに疑問がある。
佐藤哲也さんと川村幸也さんは、共犯4人の事件で、2名は無期懲役の判決を受けており、首謀者は別にいると争っていた事件である。佐藤さんは、昨年再審請求をしていたが、自ら取り下げている。川村さんは、再審請求をして、棄却された状態で、さらなる再審の準備をしているところだった。
西本正二郎さんは、自ら控訴を取り下げて確定した事件で、三審まで裁判を受ける権利を保障されておらず、死刑の量刑が正しかったか否か大いに疑問がある。
同時に、法的に何らの義務がないにもかかわらず、死刑の執行を強いられている拘置所職員の苦痛にも心を致すべきである。
今回の死刑執行の対象者は、比較的若い年齢だった。いずれも、昨年私たちが行ったアンケート調査に対して、裁判のあり方に不服を持ちながらも、「命をもって罪を償いたい」と回答してきている。また、今回執行された人たちのように、事件を反省し、死刑を受け入れている人たちに対して、あらためて「命を奪う」死刑という刑罰を適用する意味があるのか、もう一度考える時期に来ているのではないだろうか。法務省は、真に反省した人を矯正・更生させることにもっと力を注ぐべきなのではないだろうか。罪を犯した人を国が殺すことで事件を解決したものとみなすという今のあり方は、あまりに安直すぎる解決方法であることを、法務省はもっと真摯に受け止めるべきである。
私たちは、死刑の廃止を願う多くの人たちとともに、また、森英介法務大臣に処刑された牧野さん、佐藤さん、川村さん、西本さんに代わり、そして、この間連続的に死刑を執行させられている拘置所の職員に代わって、森英介法務大臣に対し、強く抗議する。
2009年1月29日
死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90
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