もどる

                           かけはし2009.1.19号

イスラエルのガザ攻撃糾弾!

米・西欧に後押しされた予防的グローバル戦争の一翼
ミシェル・ワルシャウスキー(オルタナティブ情報センター・AIC)

何の防備も持た
ない住民を虐殺

 そのことについて、繰り返し言わねばならない。これはガザ地区で繰り広げられている戦争ではない。そうではなく、何の防備も持たない住民に対して世界第三位の空軍によって一つの煉獄が繰り広げられているのだ。

 そのことについて、繰り返し言わねばならない。ガザの煉獄は、ガザ地区から近い近隣のイスラエルの町に向かって、イスラム聖戦派や他のパレスチナ小集団の活動家たちが発射するロケットにたいする「不均等な」リアクションなのではなく、すでに計画的で、以前から準備していた行動であり、大半のイスラエルのコメンテーターの承知しているところだ。
 そのことについて、繰り返し言わねばならない。これらのロケットの発射は、ヨーロッパの何人かの外交官がわれわれを信じさせようとしているように、「何も説明しようのない挑発行為」なのではなく、これらのけっこう取るに足らない(それを認めなくてはなるまい)反撃は、米国とまたヨーロッパとの犯罪的な協力の下、イスラエルによって一年半以来続いている女、子ども、年寄りを含むガザ地区の住民に対して課せられた野卑な封鎖を前にしてのことなのだ。

 そのことについて、繰り返し言わねばならない。これは、忘れっぽく選択的な記憶しか持たないものたちに説明しようとしているように、パレスチナの攻撃に対して、何も正当化できない長い間遅れ気味になっている自衛作戦なのではない。
 エフード・バラクがそれを告白している。ガザと呼ばれている「テロリスト集団(実体)」を叩くために、何ヶ月も前から周到に準備して来たことなのだ。占領地における人権問題の国連報告者リチャード・フォークが、的確に説明するように、百五十万の人口が集中して住むゾーンを「テロリスト集団(実体)」と規定するとき、ジェノサイドの論理へと入ることになるのだ。

2006年のレバ
ノン攻撃と同質

 二〇〇六年のレバノン攻撃とまるで同じように、イスラエルの攻撃は、テルアビブにいる(そして、後数カ月はホワイト・ハウスにもいる)ネオコン政権の戦略家たちによる永続する予防的グローバル戦争のなかに、位置づけられる。
 この名前が示すように、この戦略は、予防的で、即時の明白な説明は何も必要としないのだ。すなわち、西欧の民主主義は、まず、「国際テロ」、つぃで「イスラム原理主義のテロ」、そして最後には全く単に短く「イスラム」として識別されたグローバルな敵によって脅かされている、というのだ。

総選挙を射程に
入れた計画的攻撃

 ハンチントンの『文明の衝突』は、国際政治の現実の記述ではなく、このように、八〇年代後半に共同で練り上げられたアメリカとイスラエルのネオコンの攻撃的な戦略の政治思想的な枠組みなのだ。この戦争の戦略の中で、イスラム原理主義の脅威は、冷戦時の共産主義の脅威に取って代わったのだ。すなわち、グローバル戦争を正当化するグローバルな敵である。
 もし、ガザの犯罪的な空爆が、イスラエルでコンセンサスのできた支持を享受するなら、既存的な左翼、とりわけ、メレッツが、エフード・バラクによって指揮される戦争オーケストラに、小さなピッコロを加えるなら、間に合わなくならないうちに、イスラムがかもしだしている絶対骨抜きにすべき実存的脅威というヴィジョンをまさに分かち合っているからに他ならない。

 犯罪の恐ろしさに、いますぐの理由の卑劣さを加えるべきだろう。この二カ月以内に、イスラエルで総選挙が行なわれることになっており、パレスチナの犠牲者たちは、また選挙の論拠なのだ。ガザへのイスラエルの攻撃による殉教者は、エフード・バラクとツィピ・リヴィニ、エフード・オルメルトの間で、だれがこの凶暴さの中で最も決断できているかというメディア上での競争の対象物なのだ。
 労働党を指導する戦争犯罪者か、あるいは、残っているもの、今朝、世論調査の中で四ポイント上げたものだ。一万人ほどの声に対抗して、無垢の三百五十人のパレスチナの犠牲者たちを取引する無制限のシニシズムを超えて、バラクは、またも、政治家としての近視眼を見せたのだ。獣性の競い合いの中で、彼のすべての努力にもかかわらず、彼は、ベンジャミン・ネタニヤフを追い越すことはまず無理だろう。選挙民は、コピーよりオリジナルのほうが好きなのだ。

イスラエル国内
で千人が抗議デモ

 戦争指導者が今日、レバノン戦争をイスラエルの失敗に転換したものと同じ問題にぶちあたっているので、ますます、植民地戦争を経験したものなら誰でも知っている問題:どのように終らせるか?が問題なのだ。
 「われわれの『仕事』が済めば、やめるだろう」と、ちっぽけな指導者たちの傲慢さ一杯に、彼はそう表明した。しかし、この仕事は、いつ終わるのか? イスラエルの指導者たちの植民地主義的夢の前で、いつ、ガザと西岸地区の住民は、降参をうけいれ、壁に囲まれ、一つ一つちりぢりバラバラになって孤立した十二個ほどの保護地に縮められてしまった「パレスチナ国家」という国民国家の希求を限定することを受入れるというのだろう?
 もし、これがバラクが実現したいと願っている「仕事」なのだとしたら、イスラエルの民衆は、非常に長いだけではなく終わりのない戦争を受入れなければならない。そしてもしユダヤ国家が、短期戦(ドイツ語でいうblitz krieg)によく武装されているとしても(とりわけ、航空機によって行なわれる時)、彼らは、パレスチナの人々が、植民地化の弾圧の犠牲者の民衆のように、戦闘の主役となって動く耐久戦になると、早期に危機に陥るだろう。
 戦争が開始されてから、一週間経つ前に、政治家や軍人の誉れに満ちた声明にもかかわらず、イスラエルの雰囲気は、すでに変わりつつあることを説明している。先週土曜に、ガザの空爆の後で、私たちは千人余りで自発的に、怒りと恥を表明するためにデモしたが、今度の土曜日には、イスラエルに対する国際的な制裁とエフード・バラクとそのチームを国際刑事裁判所にかけようという私たちの仲間は、もっと多くなるだろう。私はそう確信している。   (1月2日)
bミシェル・ワルシャウスキーは、イスラエル国内で活動している反シオニズム左派の活動家。




コラム
山と労働運動に生きて


 正月四日、旧友のTが死んだ。那須・三斗小屋温泉に向かう途中の遭難事故だった。先に到着していた山仲間三人が、夜半になってもTが到着しないことから、翌朝捜索したところ登山ルートから外れた、峰の茶屋に突き上げる明礬沢の谷底でツェルトを被った遺体を発見したという。遺体収容に立ち会ったボクの友人Oから、死因は新聞にある滑落死ではなく凍死だったと聞かされた。
 遭難状況を知らせてくれたOたちが推測するに冬季登山口の大丸温泉を出発したのが午後四時ごろ。尾根筋に付けられた一般ルートの突風を避けて、明礬沢から峰の茶屋を目指した。
 しかし、アイゼンを持っていなかったため途中からのアイスバーンを越えられず、寒さと疲労から力つきたものと思われる。当日は雪が降っていたというから、ヘッドランプの灯りだけでは方向さえ心許なかったことだろう。
 通常では夕方からの登山、まして厳冬期の一月ということを考えれば「無謀」「自殺行為」と非難されても仕方あるまい。しかし、Tはかつて四季を通して三斗小屋温泉の大黒屋旅館で番頭をつとめた経験があり、冬季夕刻からの登山も初めてのことではなかった。その後も三斗小屋に通うこと二十有余年。いわば山の精通者だったといってよい。ボッカで通い慣れた道ゆえの過信もあったろうが、Tにとっては「一寸と実家に行ってくる」程度の気軽な山行だっと容易に想像がつく。
 ボクとTとの出会いは、二十年も前に遡る。戊辰戦争での三斗小屋温泉全家焼失から再建百二十年を記念して、概観、登山、生活など奥那須のすべてを網羅した『三斗小屋温泉誌』を出版するにあたって、「登山」の章の執筆者として刊行委員会から編集現場に送り込まれてきたのが最初だった。木訥で飾らず生真面目な人柄は、夜間、道路工事のアルバイトをしながら、文字通り缶詰状態でその全原稿を書きあげた。その中にある「冬期登山」の項にTはこう記している。
 「(前略)温泉泊まりだからと安易に考えてはならない。冬山装備で身をかため、入下山の天候にも細心の注意を払いたいものだ。特に風には気を配りたい。強風時の峰の茶屋通過は、困難を極める。(中略)遅くとも昼頃には越えたいものである」。まさしくTが執筆したとおり。今もって遭難が悔やまれて止まない。
 記念誌出版後、Tは東京福生の自宅に帰り会う機会はほとんどなくなった。しかし、あるころから小社事務所に「三多摩合同労働組合」の機関紙が送られてくるようになった。封を切ると機関紙にT書記長の文字。彼は従来の山と合わせて、組合活動を人生の両輪に据えたのだ。残念ながらT本人から組合を始めたきっかけを最後まで聞くことはできなかったが、〇八年十二月二十九日発行の機関紙「ユニオン」にこう記してあった。
 「`労働者aの団結を継承・反芻して地域の仲間・全国の仲間とともに派遣法の撤廃・さらなる労働法の改悪を許さない闘いを推進しよう!(中略)解雇の嵐が吹き荒れる時代状況を逆手にとって、働く者の未来を切り開こう。ともに頑張ろう!」。享年五十三歳。惜しまれる死だった。合掌。       (雨)

もどる

Back