| 「SENKI」「かけはし」W杯論争 かけはし2002.8.12号より |
「国民的興奮」さめやらぬままに
「ニッポン」「ニッポン」と叫んだ興奮さめやらぬままに、サッカーワールドカップやオリンピックなどの国家主義と金権腐敗・商業主義のスポーツショーが大好きな元・共産主義者同盟(現在は「共産主義は破産した」と叫ぶ政治グループ)「ブント」の諸君が、「かけはし」のW杯批判論文に、かみついてきた。
今年二月のソルトレークシティー冬季五輪では、マスコミさえ白けさせるほどのブッシュ政権の愛国主義むきだしの運営や不正ジャッジの連続に毒気を抜かれたのか、あるいはシドニー五輪をめぐる「SENKI」「かけはし」オリンピック論争(本紙00年10月30日号、11月27日号)ですっかり懲りたのか、「SENKI」は沈黙を守ってしまった。
今回のW杯では、日本が主催国の一つであったことも含め、戦後かつてない規模で無数の「日の丸」が全国各地で打ち振られ、多くの青年たちが戦後初めて自主的に大声で天皇制賛美の歌である「日の丸」を歌うという、文字通り「国民的興奮状態」が作り出された。この「国民的興奮状態」に勇気づけられたのであろう。「SENKI」(7月5日付、1081号)が、「かけはし」(5月27日号、6月3日号、6月10日号)のW杯批判論文を「批判」する文章を掲載した。「五輪論争」であえなく退場した大庭俊和と文人正(ブントただし)に代り、「役割期待」を背負って登場したのは山根克也である。
題して「W杯が歴史を動かす?『かけはし』高島論文、裏返しのW杯中心史観」。山根によれば、彼らが放棄したはずの「マルクス主義の言葉」による「反論」であるという。
「悪いのは利用しようとする奴ら」
それでは、山根の「マルクス主義の言葉」による「反論」を聞いてみよう。
山根は言う。「『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』というが、高島氏にかかるとW杯=諸悪の根源』なのである。……W杯そのものが国家主義的本質を有しているわけではない。……非難されるべきはW杯ではなく、W杯を利用したムッソリーニであり、中南米の軍事独裁政権ではないのか」。
なるほど、なるほど。「悪いのはW杯じゃなくて、利用する悪い奴らの方なんだ」「『悪い奴ら』の責任を、『清く美しいW杯』に押しつける高島の主張は、逆立ちしたW杯中心史観だ」というわけだ。しかし山根君よ。「利用する悪い奴ら」から切り離された「清く美しいW杯」なんて、君の頭のなか以外のいったいどこにあるのだろう。
少し考えてみよう。「利用される」W杯を組織し運営するのは、そもそもそれをカネもうけや国家主義的国民統合に「利用しようとする悪い奴ら」自身だ。アベランジェの下で多国籍巨大スポーツ興業企業に肥大化した金権腐敗のFIFAや、アメリカや日本やドイツやイタリアやフランスなど、山根君がすっかり忘れてしまった「マルクス主義の言葉」を使えば「帝国主義諸国」や、中南米の軍事独裁政権などの「悪い奴ら」が、最初から「利用するために」W杯を組織し運営しているのに、「利用する奴らが悪い」と言ったって、いささか説得力に欠けるんじゃないのかな。
「階級的諸関係」との関係
自分の主張にウソ寒さを感じた山根は、無理して突っ張って叫ぶ。「W杯ごときに、戦争を引き起こしたり、革命を防いだりする力などありはしない。戦争や革命が起きるのは、現実の国際関係や国内の政治的経済的あり方に矛盾が蓄積したことの結果以外ではないのだろうか。マルクス主義者を自称しながら、戦争であれ、革命であれ、階級的諸関係を基礎にした唯物史観に基づいて分析しない高島氏はサッカーおたくそのものだ」。
なるほど。ますます結構だ。でも、もう少し考えてみよう。W杯を組織するのは「SENKI」のような「環境と人権のNGO」ではない。山根君が世界にインターネットで呼びかけてサッカー大好き人間を野原に集めても、それをW杯とは言わないだろう。
いまや出場チームが三十二にもふくれあがったW杯を主催国として組織するためには、開催地ごとに必要なスタジアムなどの建設費や、国家と各自治体の行政機構を総動員する運営費はじめ、数千億円、あるいは兆単位の国家資金を注ぎ込まなければならない。
G7の帝国主義経済大国でも大変な負担だ。ましてや経済規模の小さな国では、国家予算の大半を注ぎ込むという無理をしなければ、開催することさえできない。そのような国で、民衆が必要とする予算を削ってW杯に強引に回そうとすれば、当然にも民主主義の制限や人権弾圧が必要になってくる。
たとえば八六年のメキシコ大会。メキシコは当時、八二年に始まる世界を震撼させた深刻極まりない債務危機のなかにあった。しかも大会前年九月には一万人の死者を出す大震災に見舞われた。「ワールドカップより家を!」という被災者の悲痛な叫びを無視してW杯準備が最優先されたため、大会時にはまだ五万人もの被災者が路頭に迷っていた。
反対運動を恐れた政府は、「W杯反対」を含めて一切のデモを禁止し、スタジアムを多数の戦車が取り囲むという厳戒体制をとった上で、なんとか開催にこぎつけたのである。このような例は、いくらでもあげることができる。
すなわち、W杯は山根君の言う「現実の国際関係や国内の政治的経済的あり方の矛盾」のなかで、国家権力が総力をあげる文字通りの「国策」としてしか開催することができないのだ。山根君はこの「国策としてのW杯」が、戦争や革命を引き起こす諸要因としての「現実の国際関係や国内の政治的経済的あり方の矛盾」とは全く関係ない、独立した特別の存在だと思い込んでいるようだが、これにもかなり無理があるようだ。
山根君には、この「国策としてのW杯」それ自身を、今日のグローバル戦争状況と小泉政権の有事立法策動や深刻化する世界経済危機などとの具体的連関のなかで、「階級的諸関係を基礎にした唯物史観に基づいて分析」してみることをお勧めする。「かけはし」のW杯批判論文が参考になると思うよ。
山根の本音は、「W杯を観ている間ぐらい、『現実の国際関係や国内の政治的経済的あり方の矛盾』なんか忘れて興奮させてくれ!」ということなのかもしれない。まさにそれこそ、君の言う「W杯を利用する悪い奴ら」が願ってやまないことである。
「メジャーなものを批判するな」?
実は山根は、「悪いのはW杯じゃなくて利用する奴らだ」という「理論」がとうてい成り立たない哀れなものであることにも、W杯が彼の言う「現実の国際関係や国内の政治的経済的あり方の矛盾」の切り離せない構成要素にほかならないということにも、うすうす気がついて、ますますウソ寒さを感じている。こうなったら、もう開き直りしかない。
山根は叫ぶ。「高島氏は、『労働者人民の自己解放としてのスポーツ』なる『あるべき姿論』から、現実の矛盾と不正に汚れたW杯を全否定している。だが国家主義にも金権主義にも毒されない『労働者人民の自己解放としてのスポーツ』なんてないのだ。歴史上一体どこに存在したというのか。『あるべき姿論』で批判することはたやすい」。
「現実の矛盾」に毒されていても、「不正に汚れ」ていても、とにかく楽しいんだから、好きなんだから否定しないでくれ、というわけだ。もはや山根には、論理を組み立てようとする意欲もなくなってしまったようである。
山根の開き直りはますますエスカレートし、「国家主義に利用されたり、金権主義に毒されたりするのは、それだけ人気があるからだ」と、さらに没論理化する。理屈じゃない、とにかく人気があるんだ、それを応援して何が悪いというわけだ。そして山根論文は、そのように人気のある「社会的にメジャーなもの」を否定してばかりいることが「左翼がマイナーになった理由」だ、というすごい結論を導きだすのである。
もちろん、この結論は山根一人のものではない。「SENKI」の同じ号に、「W杯・天皇訪欧を問い、天皇制の戦争責任を追及する共同行動」が発行したW杯批判リーフレットを批判する文章が掲載されている。筆者の川添達雄は言う。
「かつて私が天皇制賛美に反対の声をあげたひとつの根拠は、昭和天皇Xデーを機に、現実に生活している民衆の気持ちとまったく無縁なところで、『哀悼』や『奉祝』などの感情を国家権力が強制してくることへの異議申し立てであった。これに対してW杯には多くの人々が熱中している。これを無視して『ワールド』は間違っているから観戦や応援すべきでないとは、まるで天皇制の押しつけのように強引なものを感じる」。
やはり「人気のある」「多くの人が熱中している」「メジャー」なものには反対すべきでないということらしい。世論調査をすれば、「象徴天皇制」を支持する人がすでに圧倒的多数、すなわち「メジャー」になっている。また川添によれば、「押しつけ」でない「自主的」な「天皇陛下万歳」にも反対すべきではないらしい。「SENKI」が天皇制に反対する諸行動にほとんど参加しなくなった理由はこれだったのだ。
かつて治安維持法弾圧体制の下で、文部省と内務省は「過激思想撲滅」のための「スポーツによる思想善導」政策を打ち出した。それは、オリンピックなどの国際スポーツ大会で愛国主義的興奮の渦をかきたて、天皇を中心とした国家への忠誠心を作り出すことにとどまらなかった。警視庁工場課が各工場に自らスポーツ指導者を送り込み、スポーツ団体を組織し、東京だけで二十万人もの労働者を動員する「工場体育デー」を東京工場協会と共催するということまでやっていたのである。
「メジャーなもの、人気のあるものには反対すべきではない」? ああ、「SENKI」の諸君は、W杯や五輪などの国家主義的スポーツショーに「がんばれニッポン!」「ニッポンチャチャチャ!」と興奮し、熱中しているうちに、すっかり「過激思想」を撲滅され、「思想善導」されてしまったようである。
山根にとってのスポーツとは?
蛇足だが、「国家主義にも金権主義にも毒されない『労働者人民の自己解放としてのスポーツ』なんてないのだ。歴史上どこに存在したというのか」という山根の珍無類の主張それ自身についても一言、触れておこう。
正確を期す。「かけはし」のW杯批判論文では、「労働者人民が自ら体を動かし、運動能力を解放して楽しむ実践」としてスポーツを規定している。もちろんこれは「あるべき論」でも「べし論」でもない。むしろ、きわめて常識的な規定である。自主的スポーツサークルの活動でも、昼休みの校庭でも、日常的に行なわれていることである。
ところが山根は、そんなものは「歴史上存在しなかった」と断ずる。どうやら山根にとっての「スポーツ」とは、「国家主義と金権主義に毒されている」と山根も認めるW杯や五輪や、プロのスポーツショーを観戦することだけらしい。彼は、校庭でソフトボールをしたこともない少年時代を過ごしたのだろうか。ジョギングやキャッチボールをしたこともないのだろうか。
「ブント」幹部の一人である山根にとって、何度も「SENKI」紙上をにぎわせてきた「異種格闘技大会」や「山岳マラソン大会」も、「自ら体を動かし、自己の運動能力を解放して楽しむ実践としてのスポーツ」ではなく、「ブント」と称する政治グループの求心力を高め、組織への忠誠心を養うための「オルグ活動」でしかなかったのであろう。
「五輪論争」の文人正の小論に優るとも劣らぬ支離滅裂な山根克也論文ではあった。
(7月20日 高島義一)
追記 きっと「SENKI」には、「FIFAや主催国を改革すればいいじゃないか」という「反論」が載るだろう。FIFAや主催国のどこを、どのように「改革」して「清く美しいW杯」にしようとしているのか、ぜひ具体的に展開してもらいたいものである。ついでに、その「改革」を二〇〇六年ドイツ大会までに間に合わせる予定があるのかどうかも、ぜひ教えてほしい。
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