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韓国は、いま                    かけはし2002.9.2号より

駐屯米軍はなぜのさばるのか

多発する米軍犯罪と駐屯軍地位協定の歴史


 花の年頃の女子中学生ヒョンスンとミソンが重くて大きな米軍装甲車にひかれて命を失ってから、すでに2カ月が過ぎている。国中がW杯の熱風の中で「テ〜ハンミングク(大韓民国)」と叫んでいた時に起きたことだ。W杯4強という自尊心は、この事件の処理の過程で余すところなく崩壊している。
 だれであれ車にひかれて命を失った人が悲劇でないわけはないけれども、加害者側が図々しい態度を見せれば、悲しみは怒りに変わる。あるいは単純な交通事故による過失致死だったかもしれないこの事件が、国民的関心を引く事件として広がっているのは、そして加害者側である駐韓米軍が図々しく振る舞っているのには歴史的、構造的背景がある。
 略称では、駐屯軍の地位に関する協定またはSOFA(Status of Forces Agreement)、正式名称は「大韓民国とアメリカ合衆国間の相互防衛条約第4条による施設と区域および大韓民国での合衆国軍隊の地位に関する協定」という、極めて長い名前の協定が、それだ。
 この協定は、俗に韓米行政協定とも言われる。米国の立場から見れば妥当な名称かも知れないが、われわれの立場からすれば適切とは言えない名前だ。米国では条約を締結するためには上院で出席議員の3分の2が同意しなければならない。だが米国行政府は議会のけん制や干渉を避けるために、一定の範囲の条約については行政協定の形態で大統領の責任だけで締結できるようにし、このようなやり方が慣行として認められている。
 駐屯軍の地位に関する協定もまた、その範囲内に属するものとして、米国では議会の同意を必要としない。だがわが国の場合、外国軍隊の地位に関する条約は、米国とSOFAを締結した66年当時の憲法第56条に国会の同意が必要な条約として明示的に規定されている。したがって韓米間で締結された米国の地位協定は単純な行政協定ではなく、独立的な基本条約だというのが法学者たちの共通した見解だ。
 米軍が韓国に駐屯した長い歴史は、法的地位を基準にして大きく4段階に分けてみることができる。まず、45年9月8日に米軍が初めて足を踏み入れた日から大韓民国政府が樹立された48年8月15日までは、米軍が占領軍としてこの地に米軍政を実施した時期だ。この期間に米軍は駐屯軍の地位に関する協定のようなものに拘泥されず、現在論議になっている刑事栽培に関する管轄権のようなものは論議することさえできない状況だった。米軍が韓国の法廷で裁判を受けるのではなく、韓国人たちが米軍の法廷で英語で裁判を受けなければならなかったからだ。
 次に大韓民国政府の樹立以降、49年6月30日、米軍が軍事顧問団だけを残して撤収する時までは、米軍の地位が48年8月24日に締結された「過渡期に施行される暫定的軍事の安全に関する行政協定」によって規定された時期だ。この協定は本文が5条にすぎないもので、後のSOFAよりも極めて簡単な内容だった。けれども米軍、軍属およびその家族らに対する全面的管轄権を保障するもので、内容は極めて強力かつ不平等なものだった。
 第3に、韓国戦争(朝鮮戦争)勃発直後の50年7月1日、米軍スミス部隊が釜山に到着して以来、67年2月9日にSOFAが発効するときまでの時期は、50年7月12日に締結されたいわゆる大田協定、すなわち「駐韓米軍軍隊の刑事裁判権に関する大韓民国と米合衆国間の協定」と52年5月24日に締結された韓米経済調整協定(マイア協定)が米軍の地位と米軍と韓国政府、韓国民の関係を裏付けていた時期だ。そして最後に、67年からはSOFAが駐韓米軍の地位を規定している。
 ローマに行けばローマ法に従う、という言葉がある。だが駐韓米軍にこの言葉は適用されない。実に不平等な条約ではあるが、67年にSOFAが発効する以前の米軍にとっては、より一層そうだった。韓国戦争初期のさし迫った状況の中で締結された大田協定は、米軍犯罪の種類や場所のいかんを問わず、無条件で米軍当局に刑事裁判権を付与した。
 いかに戦争という切迫した状況下で出てきたものだったとは言うものの、大田協定は刑事裁判権を完全に放棄したということにおいて、独立国家が結べる協定ではなかった。しかもこの協定は韓国人が米軍またはその構成員に対して加害行為をしたときには、その韓国人を米軍が拘束することを認めた。大田協定は憲法が定めた、裁判官によって裁判を受けることのできる国民の権利を、条約によってはく奪したという点において、また国会の批准や同意を得なかった点から見るとき、明白に憲法に違反した協定だ。
 米軍による犯罪を韓国の裁判所ではなく、全的に米軍の軍法会議で裁判されるようにしたのは、帝国主義の時代の治外法権の延長線上に立っている措置だ。治外法権というのは、一国の国民が他の国に居住するとき、両国間の条約によって駐在国の領土内で駐在国の法令に服従せず、本国の法令に服従する特権を言う。
 53年7月、停戦を迎えるとともにイ・スンマン政権は停戦協定を受けいれる対価として韓米相互防衛条約の締結を米国から拘束された。その年の8月7日、韓米相互防衛条約についての仮調印を行うとともに採択されたイ・スンマンと米国務長官ダレスとの共同声明は、両国が相互防衛条約の効力発生直後、米国軍隊の地位に関する協定を締結するための交渉をすることに合意した、と発表した。だが戦時に結んだ不平等な大田協定を、停戦という新たな状況にふさわしい協定へと代替するための試みは米国側の無誠意によって、これといった成果をあげることができなかった。
 韓国政府は54年後半、米国に行政協定締結を要求したのに続き、翌年4月、行政協定締結のための草案を作成し米国に伝達するとともに交渉の開始を求め、57年9月にも再び交渉を求めたが、米国は特に反応を示さなかった。米国側は、休戦はしたものの韓半島は技術上、戦時状態だということに固執した。米国は韓国の法秩序や、その運営に対する不信、政治秩序の不安定性などを表面的な理由に掲げたが、実際には、すでに習性化した特権的地位のゆえに駐屯国の地位に関する協定を締結しようとする交渉には応じなかったのだ。
 米国が初めて駐韓米軍の地位に関する韓米行政協定の締結が可能だとの立場を示したのは58年1月23日、駐韓米大使ダウリングの声明を通じてだった。米国が、やむなく交渉に応じるとの立場を明らかにしたのは――実際には交渉は開始されなかったが――駐韓米軍の犯罪の横行への世論の沸騰を無視できなかったからだ。特に、このような世論に火をつけたのが、いわゆる楊洲列車強盗事件だった。
 57年4月12日の晩、仁川で米軍PX用物品を満載し、仁川から議政府を経て東豆川に向かった軍用列車が、議政府と徳亭の間の峠道で突然、停まった。列車からだれかが懐中電燈で信号を送ると、9人の韓国民間人が列車に駆けより酸素溶接機で入り口を切断し、洋モク24ケースを持ち出した。このとき突然、銃声が起こり3人が銃にあたって倒れ、残りの人々は逮捕されたが、銃にあたった1人は現場で即死した。
 この事件は思いもよらぬ事実が明らかになるとともに、駐屯軍の地位に関する協定が締結されていない状態で韓国警察が初めて米軍を審問する契機となった。逮捕された犯人らに対する審問の過程で犯人らは、この事件は犯人らに発砲したウィルスン上士(陸、海、空軍の下士官階級の最上級)と共謀したことだったとぶちまけ、停車した列車から懐中電燈で信号を送った人物も、ほかならぬウィルスン上士だったと自白した。
 犯人らはウィルスンと謀議するとき、貨車の取っ手を巧妙に抜いて証拠を残さないことにしたが、酸素溶接機で切断して証拠が残ると、警備責任者であるウィルスンが責任を逃れがたいとの考えに加え、共謀の事実を隠蔽するために犯人らに銃を撃ったのだと主張した。米軍側はウィルソンが犯人らと事前に会い懐中電燈で合図をしたことは認めたが、これら犯人一味を一網打尽にするための、おとり捜査だったと言い逃れた。
 ところで銃にあたった3人は、当のウィルスンと共謀した人々であり、残りの人々はウィルスンとの共謀の事実を知らない単純加担者だった。ウィルスンが共謀の事実を隠すために、この事実を知っている人々を殺害しようとしたという韓国人らの主張が力をえたのだ。
 この事件の波紋が広がると韓国の閣僚と駐韓米軍首脳部の会談を経て、米軍はウィルスンに対する韓国側の取り調べに同意し、5月6日、米8軍将校クラブで韓国の検事によって審問が始められた。韓国側はウィルスンの事前共謀についての心証を固めたが、ウィルスンを起訴することはできなかった。そのかわりに韓国政府はウィルスンを窃盗事件の共犯であり、かつ殺人犯であると規定した起訴状の写しだけを米軍に伝達できたにすぎない。
 この事件の後にもさまざまな米軍犯罪が相次いで起こる中、ダウリングの声明が出てきたのだが、その直後にキム・チュニル君リンチ事件という、もう一つの衝撃的な事件が起きた。58年2月25日朝、議政府の米軍1軍団ヘリ機場に飛行機の付属品のケースが到着した。ケースを下ろしたKATUSA(駐韓米軍に配属されている韓国軍人)たちはケースの中から聞こえてくる悲鳴に驚き、ケースをめくってみた。すると顔にコールタールを浴びたまた全身満身創痍となった一人の少年が出てきた。
 彼はその日未明、富平の米空軍整備倉下士官宿舎に物を盗みに入った14歳の靴磨き少年キム・チュニルだった。トマス・ジェイムス少領(少佐に当たる)とマビン・ケンプ大尉ら米軍たちはキム・チュニルを捕らえ、5時間にわたって容赦なくこん棒でなぐり足蹴りにし、剣で両ひざや腕を刺し、それから頭をカミソリで切り顔にコールタールを注いだ後、飛行機の付属品運搬用のケースに入れて釘打ちをした後、議政府1軍団に送ってしまったのだ。
 逆説的なことだが、被害者が殺害された事件よりも被害者が生きて米軍の暴行を証言したり、その証拠が写真によって公開されるとき、より大きな社会的憤りを呼び起こしもする。そのような事件の代表的例が60年1月2日に発生した東豆川女性削髪事件だ。この日未明、東豆川の二人の女性は以前から顔見知りで付き合いのあった米人に会うために7師団タンク大隊の鉄条網の破れ穴をくぐって営内に入った。2人は隊舎に入り、かねて顔見知りの米人を起こしたが、暗闇の中で人を見誤り他の人を起こした。その米人は2人をつかまえてから同僚らを起こし、10余人の米人が恐怖で真っ青になってブルブル震えている女性らを取りまき、もてあそび始めた。報告を受けて駆けつけた中隊長メケネリは1人の下士官とともにハサミと電気バリカンで2人の女性の頭を坊主刈りにしてしまった。その後、米人らは掃除用のモップで女性らの頭を掃き、手を打って奇声をあげ、喚きたてた。
 米軍部隊に無断潜入したのは女性らの過ちだったが、このような暴行をほしいままにできたのは、大田協定に米軍に対する犯罪をなした韓国人を米軍が逮捕できるとの条項があったからでもある。もちろん、この条項は、このような暴行やリンチ(私刑)を保障しているものではないが、当時しょっちゅう起きていた各種のリンチ事件が、この条項と関係がないとは言えないだろう。
 このような衝撃的諸事件が相次いで起こると、米軍は駐屯軍の地位に関する協定の交渉に応じると発表したが、実に交渉が初めて行われたのは4・19革命以後の61年4月10日だった。ダウリングの声明から初交渉が実現するまでの3年間にも間違いなく米軍の脱線と暴行とはほしいままになされ、国会は2回にわたって対政府建議案を採択し、行政協定の締結を促し求めた。だが米国が交渉に応じたのは4・19革命に続き、61年初めに米軍との経済協定などをめぐって民族主義や対米感情が高まった後のことだ。
 61年4月17日に初めて開かれた駐屯軍の地位に関する協定締結のための交渉は、ほかならぬ5・16軍事反乱によって中断されてしまった。交渉は中断されたものの、米軍犯罪が絶えることはなかった。62年前半期は全世界的な民族主義の熱風の中で米軍による衝撃的な事件やリンチ事件などに対する批判が沸き上がった。
 特に1月16日に起きた坡州の木こり殺人事件は大きな衝撃を与えた。当初、米軍は非武装地帯に入ってきた2人の木こりが巡察兵の停止命令を無視して逃走したので射殺したと発表した。だが真相は違った。彼らが殺害された場所は非武装地帯ではなく、米軍部隊周辺の出入り禁止区域だった。カールビンやM1のような軍用武器ではなく、ハンティング用の散弾銃によって殺害されており、しかも被殺者のうちの1人は裸体状態で銃が撃ち込まれていた。
 彼らの体は散弾銃に撃たれて蜂の巣状態だったが、1人の被殺者の服には針の穴もなく、血の一滴も付いていなかった。この事件に続き2月12日には米軍哨兵が無断侵入者を射殺した事件、2月24日には米軍に暴行された妊産婦が堕胎する事件をはじめ、多くの事件が新聞で報道され、5月29日には米軍将校が部隊内の韓国人従業員を集めて、窃盗容疑者を電柱に逆さづりにして苛酷な鞭打ちをした坡州リンチ事件が起きた。
 当時は5・16軍事クーデター以後、戒厳令が宣布された状況にもかかわらず、学生たちの抗議デモが続いていた。62年6月6日、高麗大生2千余人は「韓米行政協定を締結せよ」、「リンチ事件を徹底究明し、責任者を厳重処断せよ」などのスローガンを掲げてデモを展開し、6月8日にはソウル大生千余人が同じスローガンに「高麗大生を釈放せよ」という内容を追加して激烈なデモを展開した。
 学生らのデモが国民的支持を受けると米軍も緊張した。極めて異例なことに国連軍司令官が、申し訳ないとの声明を発表し、国務省も遺憾の意を表明した後、ホワイトハウスに駐屯軍の指揮に関する協定に関連した協議を再開すべきだと建議した。パク・チョンヒも戒厳状況ではあったものの、今回ばかりは寛大に処分するとして拘束された学生全員の釈放を指示した。
 6月15日、ついに米軍は条件付きで交渉再開に同意した。交渉はすぐにも始めるが、交渉の締結は合憲的な民政が樹立された後にのばそうというものだった。軍事政府はこれを受けいれ62年9月20日、17カ月ぶりに実務者会議の交渉が再開され、65年5月18日、パク・チョンヒの訪米を前にして草案が用意された。だがこの草案は、すべての1次裁判管轄権を米軍側に譲り渡すように規定していた。草案の内容の一部が明らかになるとともに、学生らや米軍基地労働者らの反発が大きくなると、政府は再交渉を通じて草案の屈辱的な条項を修正した。交渉がまとめあげられたのは66年7月8日で、韓国政府が最初に駐屯軍の地位に関する協定締結を求めてから13年ぶりのことで、実務者交渉が始まった後、3年9カ月の間に82回の公式会議や非公式会議を経た後のことだった。
 7月9日に調印されたSOFAは10月14日、国会の同意を経て67年2月9日に発効した。このとき締結されたSOFAは31カ条の膨大な分量と合意議事録、合意諒解事項、交換書簡など3件の付属文書がついている。本協定は外形上、NATO軍の地位に関するロンドン協定などと比較するとき、大きな違いはなく、大田協定に比べれば極めて進展したものだった。だが本協定と同じ効力を持つ3つの付属文書が大きな問題だった。事実上、本協定の内容を覆す自動放棄条項を通じて米軍の刑事裁判権に対する実質的な管轄権を保障してやるなど不平等な内容が多かったからだ。
 65年の草案で米軍に完全に保障してやった裁判管轄権が、形式的にではあれ韓国側に渡るようになったのは、学生らのデモも影響を及ぼしたけれども、韓国軍のベトナム派兵に対して米軍が気嫌とりをしたものと言えるだろう。今日の立場から見るとき、SOFAは大変な不平等条約だけれども、ベトナム派兵という血の対価によって米軍の「無法の天地」を少なくとも外形上とはいえ、終わらせることができた。米軍犯罪は67年以後、毎年、少ないときには千百余件、多いときには2千3百余件起きているが、67年以前には統計さえない。ただ関連者たちの証言によれば、SOFAの採択以後、米軍犯罪が著しく減少したと言うから、米軍犯罪がそれまでどれほど深刻だったかを推し量ることができるばかりだ。
 このような苦節を経て作られたSOFAは、その後35年間に2回改定されたにすぎない。80年代以後、反米運動が激しくなるとともに、米国もSOFA改定に応じざるをえなくなった。91年の改定では本協定と合議議事録には全く手をつけないまま、合議諒解事項と交換書簡を廃棄するかわりに、2つの文書を代替する諒解事項を新たに採択した。しかし、それに代えて駐韓米軍の駐屯費を防衛費負担という名目の下に韓国に押しつけ始めた。
 01年の改正も極めて不充分なレベルだった。67年のSOFA5条1項は「合衆国軍隊の維持に伴う経費は合衆国が負担する」となっているが、韓国の防衛費負担によって、この条項は死文化した。米軍基地に対する無償支援、KATUSAなどの人力および軍需支援費、基地移転費などを含めると、国民の税金によって負担される駐韓米軍の駐屯費用は92年25・4億ドル、93年24・1億ドルで、駐韓米軍駐屯費の78%を、われわれが負担しているのだ。
 これは日本が76%、ドイツが33%、NATO加盟諸国が25%を負担しているのと比較するとき、世界最高だ。フィリピンが米軍基地使用料を受け取っているのと比較すると、そして雀の涙ほどの対北支援と比較すると、「手助け」と言っても、このような「手助け」はない。しかも米国の強引な武器の売りつけを考えれば、これは「かっ払い」とでも言うべきだ。
 SOFAに関して一般人にとっては主に刑事裁判権の問題が知られているけれども、実際には環境、労働、財産権、民事、女性そして子どもの人権など、どれ一つ取っても問題でないものはない。刑事裁判権が国家と国家の間の主権に関する問題だとすれば、他の諸項目は国民個々人の人権や財産権に関する問題だ。ところで国家が甘く見られているのに、その国家の国民が被った人権侵害や民事上の被害が米軍の目にキチンと見えるわけがない。もっと大きな問題はSOFAの根拠となっている韓米相互防衛条約だ。これまで一度も改正されたことのない韓米相互防衛条約は米軍駐屯の目的規定が欠如していて、無償駐兵権が認められており、米軍撤収に関する協議規定もなく、条約の時効が無期限という点において多くの問題を内包している。米軍に無償、無期限でわが領土を渡すのは、SOFAのいかなる条項よりも韓国の主権を極めて深刻に侵害している条項だ。韓米相互防衛条約の全面的検討もなしに、その付属協定にすぎないSOFAのどんな改正も根本的限界を持たざるをえない。
 ヒョスニ、ミソニ、2人の少女の死に対する悲しみや怒りが大きくなると、米国は遅ればせに国務長官まで登場して遺憾と謝罪とを表明している。95年に沖縄で小学生が米軍によって性暴行を受けたとき、10万人が集まって抗議集会を行い、クリントン大統領の謝罪と日本のSOFAの改正を引き出した。米軍は、このように事態が大きくなったときにのみSOFAを変えることを考える。どうしようもないほどの浅薄な国なのか。(「ハンギョレ21」第421号、02年8月15日付、ハン・ホング/聖公会大教授・韓国現代史)

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