| 中村丈夫さんとのことなど(下) かけはし2008.12.1号 |
|
私にとっての「左翼道」の先生楽しかった談論風発のひと時 |
「大ブント」構想
という「憶測」
ところで、『マルクス主義革命論史』の編者の顔ぶれとの関係で、これには廣松渉さんの「大ブント構想」との重なりがあったのではないかという憶測があるようです。
この点について、一九六七年の社会主義労働者同盟結成以来、中村さんのもとで活動されてきた大石和雄さんは、『紙碑 中村丈夫』(彩流社2008年刊)において、中村さんは『マルクス主義革命論史』の「編集・執筆作業に六九年秋頃から携わっている……。これにはブント系の廣松渉氏、第四インターの酒井与七氏も加わっており、ある人はこれを『大ブント構想』の一環というが、その真相を私はよく知りえていない」と述べています(同書、69頁)。
このことは、まず第一に、中村さんの人柄にかかわる問題であるように思われます。中村さんは労働者階級のための政治とその組織の問題についてきわめて厳格な人であり、自ら所属する組織で確認された方針として以外に政治諸グループの統合に関係することに手出しするようなことは考えられないことであり、そのような振る舞いは中村さんの「左翼道」に反することのように思えます。
第二に、中村さんには一九七五年に発表された「日本共産主義運動の特質」という重要な論文があり、その終節には、「日本共産党の社会民主主義的変質は……六〇年代後半からはもはや同党とはかかわりなしに成長した広義`新左翼a諸派を輩出させた。それらがスターリン主義とジャコビニズムをどのように超克し、革命的民主主義の再生からどこまで社会主義革命のヘゲモンとして進出しえたか、また今後しうるか――それは……凡百の情勢分析や戦術決定よりも比重のかかっている思想的課題である」という指摘があり、その結語として「われわれの場合も、革命的民主主義と社会主義との連続=断絶の弁証法、階級闘争における全人民的危機としての民族問題の定位の弁証法を十全に把握するにはいたっていない。それをにぎりしめるために日本共産党の栄光と汚辱を総括しうるならぱ、そのとき新左翼は幾多の自壊を超えて自己内部の日共的体質をも変革し、世界―日本のプロレタリアートのヘゲモン党を創出しうるであろう」と述べられています。
したがって、中村さんにとって労働者階級のための統合的政治組織が現実の展望としてありうるとすれば、「スターリン主義とジャコビニズムを……超克し、革命的民主主義の再生から……社会主義革命のヘゲモンとして進出し」うる政治的傾向の成長が明らかに認められる状況のもとにおいてになるでしょう。しかし、一九七〇年代前半において「内ゲバ」争闘の世界に自壊的に滑落していった日本「広義`新左翼a諸派」は、スターリニズムの堕落した政治のレベル
― 「日共的体質」 ― にしっかりと踏みとどまり、およそ「革命的民主主義」とは似ても似つかぬものになりはて、そこには「社会主義革命のヘゲモン」を予感させる片鱗さえうかがえなかったのでした。
中村さん自身、このことについて、その「日本共産主義運動の特質」の冒頭で「`共産党aを名のる労働者党の社会民主主義的変質、それを超えようとする`革命的a諸セクト=新左翼の自壊的挫折」と指摘されています。その結果ということもあってだろうと思いますが、中村丈夫さんの基本的な行動指針・原理は一九七〇年代をつうじて「量は少なくとも質のよいものを」という方向に強く傾斜していったように思われます。
第三に、私が直接に関知するかぎりでは、つまり『マルクス主義革命論史』刊行にかかわる三人の編者のあいだの現実の関係としては「大ブント構想」のようなものは何もありませんでした。このこととの関連で思い出されるのは、むしろ逆方向のことで、「マルクス主義革命論史」三冊の刊行のうえで中村さん、廣松さん、私、そして紀伊国屋書店編集部の山崎さんによる慰労会が催され、そこで私が`ブントは小ブルジョア急進主義そのものであるaといって廣松さんに食いついたような次第でした。
また、中村さんとの私の付き合いは一九六〇年代末近くから一九八〇年代にわたっていますが、その関係は基本的に個人的なものにとどまり、当然にも情勢や運動についていろいろ話し込んでいますが、それらは政治論議ではあるが、かなりまとまりのない談論風発のたぐいのものであり、政治組織に直接かかわる「生臭い」ことにたちいるようなことはありませんでした。
一九七〇年代中頃だったように思いますが、四・二七叛軍兵士裁判のための合宿研究会の一つで、私が世界情勢について地球をまるごと俯瞰するような具合の報告レジメを提出し、中村さんが`このレジメはあたかも政治統合を提起するようなものになってますねaという趣旨のコメントをされたことがあります。このとき私がどのように答えたか記憶していませんが、いずれにしても、それ以上の話は何もありませんでした。
評議会共産主義
という独自性
中村丈夫さんは、一九六〇年代央過ぎから一九七〇年代にかけて国際スターリニズムのイデオロギー的枠組みから左翼共産主義者として抜け出し、ソ連邦を初めとする堕落した既存「社会主義」国家群をそのものとしてもはや袋小路におちいっている「前期社会主義」として批判し、新しい労働者革命による「前期社会主義」の克服をふくむプロレタリア社会主義世界革命を主張する独自の政治的立場をまとめてゆかれました。その中心となる考えが「評議会共産主義」という独自の主張であり、その理論的構想をまとめる重要なステップとなったのが中村さんが『第三インターとヨーロッパ革命』(第三巻)の解説論文として執筆された「レーニンと第三インターナショナル」でした。
他方、私は『第二インターの革命論争』(第二巻)の編集をつうじて第二インターナショナルについていろいろと新しい知識を獲得し、ことに第二インターナショナルの時期をつうじたローザ・ルクセンブルグの傑出した左翼としての役割について認識を新たにすることができました。また『第二インターの革命論争』そのものは、一九七〇年代におけるわれわれのグループ形成において、マルクス主義とトロツキズムを歴史的連続性においてとらえるという意識をより明確にするという点でいくばくかの役割をはたしたように思います。
「講座派は結局
ナロードニキ」
中村さんは一九八三年に`私の「封建論争」aという文章を発表していますが、そこで`いまとなれば、「三二テーゼ」はスターリン的諸悪の根源、人民戦線は脱プロ革命次元での民主主義への拝脆でしかなかった。a一九四〇年代初頭の東大在学中(?)に`ともに逮捕された生き残り朋友の「資本論」学者と一杯呑むと、「労農派は合法マルクス主義、講座派はナロードニキ、その右派はレネガート[背教変節者]だ」、「断乎護教連盟結成!」ランラ、ランラととちくるう(原文のまま)のである。本音でないこともないaと述べられています。そして、この`「資本論」学者aは`「飯田貫一」氏または「田代正男」氏ではないかと推測されaるそうです(フェニックス社前田浩志さん)。
`人民戦線は脱プロ革命次元での民主主義への拝脆でしかなかったaと考える中村さんは、一九七五年の『第三インターとヨーロッパ革命』解説論文で明らかなように、コミンテルン第三回大会の統一戦線戦術を労働者統一戦線→労働者評議会革命の立場としてとらえていて、そのプロレタリア革命を主張する立場は明白に一貫していました。
われわれやブントよりも前の世代の共産党員で、大きくは「社会主義革命」派・構造改革派として分裂していった部分はすべて右翼`人民戦線a派であったと一九六〇年代中頃以降の私は考えていたのですが、中村丈夫さんは明白に左翼共産主義の方向をとり、その例外をなしていたのです。
また中村さんが一九九一年に発表された「私のなかの伊藤律」という文章には、`日本共産主義運動aについて以下のような示唆にとむ指摘があります。
「私見では、日本共産主義運動の伝統的特質は、社会主義革命とはほぼ一貫して無縁なところにありましょう。明治以来の『民権=国権』、労働運動と社会主義との不結合という民族国家主義的統合力ヘの屈従は、国際的にはスターリン主義の圧力下に、『二段革命』志向(社会主義革命の回避)や社会排外主義のパターンを定着させてきました」。「いまにして思えば、三二年テーゼは反ファシズム闘争の放棄、対ソ十字軍への玉砕的決起の指令であり、それを修正した人民戦線も、脱社会主義の次元で民主主義派と無条件に統一しようとする[ものであり]、レーニン的統一戦線の歪曲とみなくてはなりますまい。社会主義路線は……なによりも、三二年テーゼをも人民戦線をもともに批判しぬく、大衆的政治闘争の実践的視点を要請したはずでした」。
ところで、「日本共産党の運動はもちろんのこと、日本新左翼(ブント・中核派)の運動も基本的に『民主主義』的運動にすぎず、そこには労働者の社会階級闘争という考え方が一貫して欠如していたのであり、したがって社会主義運動は存在しなかった」というのが一九六〇年代〜一九七〇年代に獲得した私の基本的な考えでした。そして中村さんは、「人民戦線は脱プロ革命次元での民主主義への拝脆でしかなかった」ということと「講座派はナロードニキ」という立場から、以上のように考える私を`ランラ、ランラaの「護教連盟」の新参として認め、談論風発の相手にしてくださったのではなかろうかと思っています。
昨年九月、四・二七叛軍兵士裁判関係者の河鰭定男さん、佐藤正兵さん、水谷驍さん、そして古川純教授と一緒に東京練馬区富士見台のお宅を訪れ、中村さんの奥さんとお子さんに懐かしむ感じをもって応対していただき、中村丈夫さんの遺影に五人でお線香をあげました。その際、
私が訪ねることになっている日には「父の様子がいつもとすこし違うような感じがしたのですが、父とのあいだに何かあったのでしょうか」と、お子さんから尋ねられました。この話を聞いて、中村さんが私との談論風発の議論を歓迎されていたのだろうと推察し、感謝の念とともに大きな喜びを感じました。
先に述べているように、一九六〇年代末頃から一九八〇年代にかけて少なくとも年に一度は中村さん宅を訪ねるようになり、ヨーロッパとアジアの旅行をすると必ず報告にうかがうようになっていたし、私としては中村さんからいろいろと`左翼道aの薫陶をうけました。ここで、中村丈夫先生、奥さん、そしてお子さんに、いろいろとお世話になったことについて感謝のお礼をしなければなりません
― どうもありがとうございました。
(2008年10月6日)
「かけはし」ウェブサイトでの私の論文ページ開設によせて
酒井与七
酒井与七同志が一九六〇年半ば以後に発表し、今日ではなかなか読む機会もなくなっている一連の論文を自ら選んで「かけはし」ウェブサイトの学習欄に順次掲載している。われわれが歩んできた時代の「歴史意識」を再整理し、新しい展望に受け継いでいくためにも、彼の問題提起を捉えかえしていくことは有益である。以下「論文集」に付した酒井同志の文章を再録する。(編集部)
私の論文集について
パソコンで読めるデジタル・ファイルとしてここに集めているのは、一九六〇年代中頃から一九九〇年代初期にかけてさまざまなテーマについて書いたもののうち、いまも私の記憶に残っていて、現在または今後にむけていくばくかの意味をもちうるかもしれないと思われる論文や断片的文章である。紙に印刷された自分の文章をコンピュータ・ファイルにする作業を始めたばかりであり、ここに掲載する文章をこれからも追加してゆきたいと考えている。
習作の時期と19
60年代半ば以降
ある程度まとまった政治的文章として私が最初に書いたのは、一九五九年初めに日本共産党京大学生細胞総会に提出した情勢・任務についての報告だった。この総会は、一九五六〜五八年において全学連傘下の京大学生運動を主導した共産党学生細胞が党機構との訣別を決議した会議であり、当時の共産党学生細胞として最後の会議だった。このとき、私は二人の細胞指導委員会副キャップの片方になっていて、情勢と任務についての報告を私が担当することになり、細胞指導委員会キャップが共産党機構との決別に関する提案を担当したはずである。党機構との決別についての提案と情勢・任務報告はそれぞれ謄写版刷りの文書として一九五九年初めの細胞総会に提出されたが、現在、これらの文書は消失していると思われる。私の情勢・任務報告は経済の見通しからはじまって、`一つの工場・職場に一人のボリシェヴィキ労働者を獲得せよaという任務の呼びかけによって結ばれていたように記憶している。
やはり一九五九年一月、私は第四インターナショナル支持組織の日本革命的共産主義者同盟(JRCL)に参加しているが、共産党機構と断絶した京大学生細胞のメンバーの多くは同年四月から共産主義者同盟(ブント)に流れ、われわれの第四インター支持JRCLグループは医学部自治会を影響下におくのみで、他にそれぞれ大学院進学と就職を予定している二人の経済学部メンバーと文学部メンバーの私がいるにすぎなかった。五九年末には医学部以外で六人ほどのメンバーがいたが、継続的に活動しているのは私一人という状況だった。
JRCLグループは学生運動において主として社会主義学生同盟左翼反対派(レフト)として活動し、われわれは一九五九年中にレフト京大支部の機関紙として『インテルナツィオナーレ』を創刊した。この京大レフトの機関紙は一九六一年から精力的に発行されるようになり、それは一九六四年頃まで継続し、千号をこえるまでになった。一九五九年から一九六三年にかけて、私は『インテルナツィオナーレ』のために三十〜四十本の文章を書いているはずだが、この謄写版刷りの機関紙はまったく消失しているし、自ら執筆した文章についての記憶もほとんどなくなっている。
一九六〇〜六二年の時期、私は自分の活動を京大レフトの建設・強化とレフト組織の大阪にむけた拡大に集中し、JRCLの中央機関(京都)や全国規模の活動にはタッチしなかった。したがって、この時期における私の文章活動は京大と関西のレフト組織を基盤とするものであり、それらはすべて消失しているし、またJRCLの末端メンバーにすぎない私が『世界革命』紙のために執筆するようなことはなかった。
この時期のもので、今日でも何ほどかの意味があるもしれないと記憶に残っているのは、レーニンの『唯物論と経験批判論』に依拠して、黒田寛一の「哲学」論理を方法的に純然たる観念論にすぎないと批判した四万字余の論文である(1960〜61年執筆)。しかし、これは原稿のままで京大レフトのメンバーによってまわし読みされ、謄写版刷りのパンフレットにならず、原稿も消失しているので、その内容を確かめることもできない。
いずれにしても、この時期の私にとってマルクス主義とトロツキーの理論はいまだ学習と習得の対象にとどまっていて、この頃の文章は習作的なものにすぎなかった。
当時のJRCLの中央機関活動と全国的組織活動は一九六一〜六二年において組織分裂のうえで完全に崩壊してしまい、私は一九六二年に京大・関西レフトを基盤にして独自の全国的組織活動をはじめた。一九六三年にJRCL中央書記局(京都)の専従になり、JRCLの全国的再建活動にのりだし、『世界革命』紙の極度に不定期的な編集発行にたずさわるようになった。一九六四年に京都・大阪から東京に移り、それから一九八〇年代中頃まで旧・新JRCLの中央専従として活動をつづけた。
したがって、一九六〇年代中頃以降において、私は主として『世界革命』紙とわれわれの理論機関誌『第四インターナショナル』のためにさまざまな文章を書いてきたし、またJRCLの内部ブレチンでの討論文章や『トロツキー著作集』のための解説文章を書いている。
マルクス主義とトロツキーの理論を習得しようとする努力は一九六〇年代中頃以降もつづくが、同時に、この頃から私の思考・文章に自分なりの独自性・オリジナリティが認められるようになる。このことを明白に示しているのが「テーゼの前に
― 過渡期とマルクス主義」(1965〜67年)であるが、「テーゼの前に」を構成する三つの文章は、マルクス主義とトロツキー理論の一九六〇年から一九六五年までの私の習得と第二次世界戦争後の世界のあり方について獲得した私の問題意識を全般的に概括したものである。ここで表明されているマルクス主義についての歴史的な問題意識がこれ以降の私の政治的思考の基本的な下敷きになっているし、そして「かけはし」のサイトにこうして集められている私の文章はすべて一九六五年以降のものである。
二〇〇八年三月二十九日
現在収録され
ている論文
b永久革命論 永久革命とフランス革命について
b永久革命論 未完のメキシコ革命とカルデナス体制
b永久革命論 中国革命におけるトロツキズム
b歴史 第三インターナショナルの歴史的敗北と戦後プロレタリアート
b歴史 過渡期とマルクス主義 ― テーゼのまえに
b過渡期論 過渡期と商品市場――トロツキーのソビエト過渡期経済論/抜き書きとノート
b過渡期論 ロシア過渡期経済政策と堕落した労働者国家ソ連邦についてのノート 〔『世界革命』1989年2〜4月発表――2007年10月〕
b過渡期論 マルクス=エンゲルスの共産主義と過渡期 ― 抜き書きとノート
b過渡期論 官僚的ソビエト・テルミドールの`完成a〔『トロツキー著作集 1938〜39 下』1972年 解説より〕
b過渡期論 ソ連邦におけるスターニズムとその終焉 酒井与七 1990年〔8月以後〕
b党と労働組合 プロレタリアートの階級闘争と党
b党と労働組合 マルクス=エンゲルスの労働組合論と階級的労働組合運動 構成・執筆 酒井与七
b党と労働組合 『トロツキー労働組合論』(三一新書、1971年)まえがき
b党と労働組合 国際革命文庫『過渡的綱領』(1977年)まえがき
b党と労働組合 労働者政府のスローガンと過渡的綱領――一九七六年一一月二四日
b党と労働組合 プロレタリア独裁と労働者政府のための闘い――藤原次郎「プロレタリアート独裁と`労働者政府a」によせて――
b党と労働組合 過渡的諸要求の体系〔『トロツキー 労働組合論』(三一書房、1971年)訳注〕
|