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大江・岩波沖縄戦裁判控訴審が結審            かけはし2008.9.29号

事実とことごとく矛盾する証言で墓穴を掘った原告側



 【大阪】大江・岩波沖縄戦裁判控訴審は、九月九日大阪高裁大法廷で開かれた第二回口頭弁論で結審した。四カ月、わずか二回の法廷で結審したことに驚きの声があった。判決は十月三十一日に下される。
大阪高裁には二百人あまりの人が傍聴券を求めて並び、六十三人が券を得た。報告会での秋山幹男弁護士の報告によれば、裁判のようすはつぎのようなものである。

垣花武一さん
が追加の証言

一審と比べ期間は短かったが、一審で敗訴している原告側も必死になって書面を出してきた。まるで「白兵戦」だった。原告側は、準備書面1、2、3を先週末から今日にかけて出してきた。私たちもそれに全力で対応した。私たちは、控訴理由書に対する反論(準備書面3)、原告側が出してきた宮平秀幸証言に対する反論(準備書面2)、基本的主張(準備書面4)宮平秀幸証言に対する反論追加(準備書面5)を提出した。
 今日口頭で述べたのは、準備書面4の骨子と宮平秀幸証言の評価だった。控訴審では「集団自決」とは何だったかを究明すること。証言すべき生き残った人々の証言が得られないままこの裁判が終わるなら、使命を果せないという強迫観念にとらわれ、それを心がけてきた。
 成果としては、垣花武一さんが阿嘉国民学校慶留間分教場での野田隊長の玉砕命令について追加証言してくれたこと。また、座間味村の幹部たちに呼ばれた石狩事務局長が「軍から米軍が上陸したら玉砕するように言われている」ことを伝えられ、石狩事務局長といっしょに仕事をしていた垣花さんがそのことを石狩事務局長から打ち明けられたと初めて公に証言してくれたこと。

梅沢隊長命令は
否定されたのか

 原告側が必死になっているなと思ったのは宮平秀幸証言だ。
 その証言とは、一九四五年三月二十五日午後十時頃、座間味村の幹部と宮城初枝さんが本部壕を訪れ、梅沢隊長に手榴弾等の交付を求めたとき、当時十五歳の宮平秀幸氏は本部付き伝令として隊長の傍でそのやりとりを聞いた。その後、村幹部の後に付いて忠魂碑前に行き、午後十一時頃村長が村民に「隊長から自決するな、避難させなさいと命令されたので解散する」と告げるのを家族と共に聞いた、というものである。この証言は、一審終了後梅沢命令説を否定する新証言が明らかになったとして、鴨野守氏(「世界日報」編集委員)執筆で『諸君』08年4月号に掲載されたものである。
 この件では宮城晴美さんには大変お世話になった。この証言内容は、当日家族全員を引き連れて避難していた宮平貞子さん(秀幸さんの母)の証言と大幅に食い違う。
 貞子さんたち一家は三月二十六日の朝まで行動を共にし、忠魂碑前には行っていない。宮平秀幸証言は、本人が行ったビデオ証言(1992年記録社制作)の内容とも矛盾している。当時村の助役をしていた宮里盛秀さんの妹宮平春子さんの証言では、二十五日の夜助役一家は忠魂碑に向かったが照明弾のため進めず、引き返していると、途中で村長と収入役の一家に遭遇、忠魂碑前に行くのを止めて全員産業組合の壕に向かったとある。
 宮城初枝証言では、二十五日夜隊長に会いに行った幹部の中には村長はいなかった。また、当時本部付きの伝令であった中村尚弘さんの証言では、宮平秀幸さんは伝令ではなかった。このように宮平秀幸証言はことごとく矛盾し、座間味村史とは正反対の主張であり、なぜか梅沢元隊長の証言よりも詳しい証言である。
 ビデオ証言(1992年)の時、自分(宮平秀幸)が本当のことを言えなかったのは、田中村長に忠魂碑前のことは言うなと脅されていたからだと、宮平秀幸氏は述べていた。今回の証言が正しい事実だと言うことだが、実は田中村長は一九九〇年末に死去していることが宮城晴美さんの調査で判明し、昨日沖縄タイムスから死亡記事を取り寄せ今日裁判所に送った。決定的なことが証明された。

書物の発禁を
求める原告側

法的な判断枠に当てはめて、名誉毀損とか家族の敬愛追慕の情の方向になったらこちらは勝負にならない。今回はそのことにも焦点を合わせて論述した。
 向こうは冤罪訴訟だと言っている。原告側の徳永弁護士は、個人の冤罪のみならず別の目的もあるといったが、かわいそうな市民が冤罪をはらすために訴訟しているということを強調した。しかし、この訴訟はそんな個人的なものではない。軍が住民を死に追いやったということが立証されなければ、本を発禁にせよということだ。国民がいろいろな情報を得て発言し議論することは民主主義の原則だが、この訴訟はそれを止めろという訴訟だ。裁判は、裁判官の考えひとつで判断が変わる。個人が命令したという事実はどこにもないのだ、裁判所がきちんと判断してくれることを期待し、判決を迎えたい。(以上要旨)

「過去を理解
する手助け」

 報告会では岩高澄さん(支援連絡会代表世話人)が、「若者の夢の実現を手助けをする義務はないが、過去を充分に理解する手助けの責務がある」というヴァイツゼッカーの言葉を引用してあいさつ。そして岡本厚さんが岩波書店を代表してあいさつをした。
 岡本さんは、「宮平秀幸証言は墓穴を掘った。藤岡正勝さんはこの証言についての意見書を出したが、自由勝手史観としかいいようのないものだ。謙虚さのなさをまざまざと示してくれた。この証言は完膚なきまでに打ち砕かれたと思う。徳永弁護士は、藤岡意見書で十分だとして宮平秀幸証言にはふれなかった。沖縄戦の主力は中国戦線経験の兵士たちであり、この戦争は侵略と防衛の交差した戦争であり、兵士でも動けないものは殺された。総玉砕戦だった。牛島司令官は自決するとき、悠久の大義のために一人になっても戦えと命令した。十月ぐらいまで戦争をしていたものもいる。この事実を想像力を全開して受け止めたい」と述べた。
この後、山口さん(沖縄・平和教育をすすめる会)と俵さん(首都圏の会)からあいさつが続いた。九月二十九日一周年の集会が準備されているとの報告があった。

オーラル・ヒ
ストリーの力

 続いて、「オーラル・ヒストリーの力――住民証言から見える沖縄戦」と題して中村政規さん(一橋大名誉教授)が講演した。
 中村さんは、文科省による「軍の強制」削除命令により、現代史研究者としての社会的使命を感じ、同時に大江・岩波裁判における右翼修正主義派の非学問的で乱暴な言説に怒りを掻きたてられた、と以下のような講演をした。 
 オーラル・ヒストリーというのは、個人から戦争体験・生活体験などを聞き、文字資料からでは知ることのできない体験の個別性・歴史の細部を記録に残す作業である。
 一九八〇代の家永訴訟で、国側の弁護人は「オーラル・ヒストリーには市民権はない」として、「沖縄県史10 沖縄戦記録」(1974年)の信憑性を否定したが、それから二十年、オーラル・ヒストーは世界的にも日本でも急速に発展し拡大した。「従軍慰安婦」問題、満州「死の逃避行」、広島・長崎の被爆体験 、沖縄戦などの証言が歴史のリアリティを浮き彫りにした。沖縄戦体験者の証言がピークに達したのは二〇〇六年〜〇七年で、私が沖縄戦研究に本格的にとり組んだ時期と重なる。最近歴史家が社会的な発言をしなくなった。秦郁彦などはウソが多すぎる、これで歴史家と言えるのか。
中村さんは、沖縄で会って聞いた人たちの証言を一つひとつ紹介しながら次のように述べた。
 「証言者の当時の年齢、場所、社会的な位置などによりその内容が違う。そのことをきちんと見ないといけない。また、その証言をどの立場で聞くかということも大きい。曾野綾子などは軍の立場だ。宮平秀幸は村では確信犯だ。藤岡正勝が彼に言わせたのだと思う。伝令の経路は軍の統治構造と見合っている。隊長・村長・兵事主任・村民という経路で、命令は口頭で伝えられた。秦郁彦が、『正式な命令は文書で行われる』と言っているが、それはウソだ。林博史の『沖縄戦と民衆』はいい本だが、文書中心の本で、3カ所に軍命令はなかったと書いてある。隊長命令は口頭だから文書などはない。本人にも伝えたが、この本が敵に塩を送ったことになるのは否定できない」。
大江・岩波裁判の地裁判決は、具体性と迫真性と信用性をもった証言中心の初めての判決だった。オーラル・ヒストリーは現実に接近する手段であると同時に、闘いの武器でもある。中村さんはこのように述べて講演を終えた。
事務局から、この度高裁に提出された署名は二万三千六十四筆で、一審の時より短期間であったにもかかわらず、一万筆も多かったとの報告があった。(T・T)


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