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韓国シチズン精密労組、応援する会            かけはし2008.8.4号

シチズン本社は交渉に応じろ

協約違反の謝罪と早期解決を
求めて連日の本社門前行動


当該・支援が怒りの訴え
申し入れの受け取りも
拒否する強圧的な対応

 七月二十三日、午後二時過ぎから二時間余にわたって、韓国シチズン精密労組を応援する会と精密労組は田無にあるシチズン本社を訪れ、交渉を申し入れた。しかし、シチズン本社は二十数人のガードマンを配置し、鉄柵を道路ギリギリまで寄せて、門前行動を制限する行動に出た。真夏の暑さがアスファルトで照り返り、汗が吹き出る。最悪の状態ながら、韓国シチズン精密労組九人の断固たる意志のもと抗議要請行動を行った。
 応援する会の渡辺共同代表は「韓国シチズン精密労組九人の代表が話し合いを求めてきている。シチズンは誠実な対応をすべきだ。韓国シチズン精密の仲間は二十年にわたって、シチズンの仲間として韓国で働いてきた。五年前に、韓国シチズン倒産の時は話し合いで解決した。今回は協約があり事前協議をするとなっている。責任者は出てきなさい。われわれはシチズン本社が交渉に応じるまで活動をやめない」と訴えた。
 次に、全統一の田宮共同代表が「もうけを求めて資本が世界各国に移動する。グローバリゼーションは人間の心を破壊している。門を開け、交渉のテーブルを用意しろ」と追及した。働く女性の全国ネット伊藤みどりさんは「人の命よりも、企業の利益を優先することを許せない。労働者は貧国に追いやられている。シチズン本社の社員の皆さんも明日はわが身の問題だ」と語った。全造船関東地協・フィリピントヨタ労組を支援する会の仲間は「シチズンは世界中でものを作っている多国籍・グローバル企業だ。そうした企業はそれにふさわしいあり方を示さなければならない。にもかかわらず、シチズンは今回まったく反対のことをやっている。労働協約を一方的に破ることは世界の国々では通じない。人間性を無視したことは決して許されない」と語った。
 東京東部労組、鉄建公団訴訟原告団、女性ユニオン東京、韓統連がそれぞれ連帯のあいさつを行った。
 韓国全国金属労組の仲間は「シチズン本社は私たちの話し合いの場に出てこないばかりか、解決の動きを示していない。一カ月を超える闘いが続いているが、話し合いができるまでがんばる。シチズン本社は労組との話し合いに応じて正式に解決に向かわなければならない。協約違反を一方的に行った。シチズン本社は謝罪しろ。雇用の不安について、保障しなければならない。本社は株売却をしたからといって関係ないとは言えない。あくまで今回の紛争の当事者だ。本社の責任を最後まで問うていく。知らんぷりをしている場合ではない。最後の最後まで問題の解決のために闘う」と決意表明した。
 シチズンは「市民に愛され、市民に貢献する」と社是にうたっている。韓国シチズンを切り捨てることは社是にも反する。さらに、かつて総評全国金属の大拠点であったシチズン労組は現在、連合傘下である。労組に対しても「いつしょに働く仲間ではないか。職場で声をあげてください。日韓労働者はともに闘おう」と訴えた。
 行動の最中に韓国シチズン精密の高木前社長が会社構内を通ったが韓国労働者へ一言も言葉をかけることなく無視していった。
 結局、この日の行動に対して、シチズン本社はガードマンの配置と労務担当によるビデオ撮影をするのみで、申し入れの受け取りも拒否した。何度でも来ると決意表明して一日行動を終えた。

ビラ受け取る本社社員も
厳しい状況で闘い続
ける韓国の仲間たち

 七月二十五日、午前十一時五十分から午後一時半まで、シチズン本社前で、韓国シチズン精密労組は申し入れ抗議行動を行った。連日の猛暑が続く中の行動であった。本社工場と食堂が道路を隔てて横断歩道を渡って食堂に行くので、宣伝部隊を否が応でも見ることになる。社員に対して、訴え、ビラを配布した。無視する人は多くいたが、それでもビラを受け取る人もいた。
 今回の支援に、重工業産業労組が加わった。この労組は地元に組合事務所があるということで、前回の行動を知り、今回二人で参加した。「シチズンがグローバル企業となる前は何の問題も起こさなかった。五年前に韓国シチズンの倒産にかかわった。そして今回は株を売り払って切り捨てだ。これを見逃すようでは地域の恥だ。連帯して闘っていきたい」。電通労組、鉄建公団訴訟団、応援する会が支援にかけつけた。
 「関係者以外は出入禁止」の会社側の立て看に対して、「私たちは関係者だ」という立て看を作って、それを隠してしまうなど、ユーモアに満ちたパフォーマンスを繰り返して訴える韓国シチズン精密労組は今日も元気だ。
 韓国では七月三日に、三千人が支援集会を開いた。韓国シチズン精密労組は職場を占拠して籠城して闘っている。
 そんな彼女・彼らだが、三カ月の観光ビザの期限で交替して遠征闘争を続けるという。上野の光輪モータースの仲間たちの提供した所に居住しながら闘争を行っている。夫婦で同じ職場で働いていた人や子どもなど家族を抱えている労働者たちは六月から給料がストップしている。遠征団の維持にも多額の費用がかかる。節約するために自炊をしている。日本で行って見たい所もあるが、闘争のために来ている、また何しろカネがないので、どこにも行けないと言っていた。
 何としても早期に解決するために支援を強化していこう。       (M)



マッカーサー書簡から60年
公務員労働者の労働基本権
を取り戻すための闘いを


占領軍最高司
令官の命令で

 七月二十二日、日本労働弁護団が主催して東京・御茶の水の総評会館で「公務員労働者の労働基本権を考える集会」が開催された。この日は一九四八年七月二十二日に、スト権をはじめとする国家公務員の基本的権利の剥奪を主張する当時の占領軍最高司令官マッカーサーの「書簡」が出されてから六十年目にあたる。
 「マッカーサー書簡」こそ、新憲法が保障した労働基本権と言論表現の自由にもとづいて同年七月一日に施行されたばかりの「第一次国公法」(争議行為禁止規定なし)を一カ月も経たないうちに全面的に否定するものであった。
 この「書簡」を受けて十日も経ずに七月三十一日には「政令201号」が公布・施行された。政令201号(昭和二十三年七月二十二日附内閣総理大臣宛連合国最高司令官書簡に基く臨時措置に関する政令)は「公務員は、何人といえども、同盟罷業又は怠業的行為をなし、その他国又は地方公共団体の業務の運営能率を阻害する争議手段をとってはならない」(第二条一項)、「第二条第一項の規定に違反した者は、これを一年以下の懲役又は五千円以下の罰金に処する」とした。そして同年十二月三日には国公法が「改正」され、争議、政治的行為の全面一律禁止と刑事罰が明記されることになったのである。
 この日の集会では、山本博弁護士、竹澤哲夫弁護士がこうした戦後の労働法制の推移と公務員の労働基本権をめぐる闘いの歴史を、一九六六年の全逓東京中郵10・26判決から一九七七年の名古屋中郵5・4判決に至る司法反動との関連で説明した。
 全逓東京中郵事件とは、一九五八年春闘に際しての「勤務時間内食い込み職場大会」に参加するよう説得し、職場離脱をさせたとした全逓労組の役員が郵便法七九条一項(「郵便の業務に従事する者が殊更に郵便の取り扱いをせず、又はこれを遅延させたときは、これを一年以下の懲役又は三十万円以下の罰金に処する」)に違反するとして起訴されたものである。
 一九六六年の全逓東京中郵事件10・26最高裁大法廷判決は、「憲法二八条の労働基本権は、憲法二五条の生存権の保障を基本理念とするものであり、公共企業体の職員、国家公務員、地方公務員も原則的に保障される」とした上で「公労法一七条は三公社五現業の職員について争議行為を禁止しているが、違反に対する刑事制裁を科していない。正当な争議行為である限りは、労組法一条二項が適用されず、郵便法七九条一項は適用されない」として無罪を言い渡したのである。
 しかし一九七七年五月四日の全逓名古屋中郵事件・大法廷判決は、全逓東京中郵事件と同じ日に行われたストライキに対する郵便法違反事件について、一九六九年十月の名古屋高裁での無罪判決を逆転し、全農林警職法事件大法廷有罪判決を引用しながら、同判決の論旨は三公社五現業の職員にも該当するとして有罪判決を下したのである。

公務員制度改革
をどう捉えるか

 この日の集会では、今年六月六日に与野党の修正協議によって成立した「国家公務員制度改革基本法」の下での今後の闘いについて国公労連の岡部書記長と自治労の金田書記長から提起があった。
 国公労連の岡部書記長は、今回の「基本法」について「官民の人材交流の推進によって公務員が『全体の奉仕者』から変質させられる危険性」「政治任用の拡大や特権キャリアの人事運用が制度化」「内閣の人事統制・一元管理によって公務員の政治的中立性を損なう懸念」「政官財癒着の温床である『天下り』規制には手つかず」「労働基本権は、ILO勧告はもとより専門調査会の審議経過すら反映していない」と批判した。
 自治労の金田書記長は成立した「基本法」について、当初の政府原案では「協約締結権を付与するか否か」も判然とせず、ただ単に「検討」すればよいものとされていたが、成立した条文は「公務労使関係のあり方を改革することをより明確にしており、『前進』と評価する」と述べた。
 その上で労働基本権に関する対応については「労使関係制度検討委員会」に連合・公務労協・自治労として積極的に参加し、意見を反映させたい、とした。(K)



コラム

甲子園をめざして

 連日三十度を超す酷暑の中、甲子園をめざす県・地区予選が大詰めを向かえている。今年は九十回の記念大会で東京以外でも千葉、埼玉、神奈川、愛知、大阪、兵庫などで二校が出場できる。主催者の朝日新聞社はスポーツ欄とは別に二ページもの紙面を割いて特集を組んでいる。最後の出場校が決まる七月二十七日には甲子園の放映権を持つNHKが総合テレビで東東京の決勝戦、教育テレビは北神奈川大会の決勝戦を放映し盛り上げに必死であった。
 今から数十年前、かくいう私も甲子園をめざす球児であった。球場はどこもすり鉢状の形をしており、底にあたるグランドは熱が溜まってとにかく暑い。その上土埃を防ぐため水を撒くから熱湯のような水蒸気が選手の周りを取り囲み、しばしば四十度を超える。試合の時はベンチに飲料水が用意されているからいいが、練習の時には水が飲めない。バックネットの横に十リットルも入る大きな薬缶が置かれていたが、それは飲み水ではなくノックで倒れた選手に頭から浴びせる「気付け薬」の水。
 私がボールを追いかけていた時代と比較して正反対なのが「水問題」。当時は「練習中は絶対に水を飲むな! 汗を流した量だけ早くバテる」と教えられた。水を飲まず炎天下のもとで三〜四時間も走りまわっていた。それが練習であった。考えるとゾーッとする。当時スポーツをした人間は一回や二回は練習中に倒れて木陰に運ばれたり、頭から水を掛けられた経験があると思う。だから練習が終わると何よりも先に水道の蛇口に走った。今から考えるとそれは「熱中症」かその寸前であったといえる。現在は「定期的に水分を補給せよ」が指導方針である。体内の水分が不足すると運動量が後退し、瞬発力が落ち最終的には熱中症で倒れるという考えが一般的である。
 さらにもう一つの違いは、水泳についてである。かつては「野球選手は絶対に泳いではいけない」という暗黙の決まりごとがあった。指導者も学校の教師も「泳ぐと肩を冷やし、肩を壊す」と真剣に教えていた。私は海の近くで育ったので夏休みになると毎日のように海で遊び、小学校の高学年になるとそこそこ泳ぐことができた。だが中学校で野球部に入部すると、高校三年の夏が終わるまでの六年間、この「規則」のために一回も泳げなかった。中学校二年の時私が通った学校にプールが完成し、夏の体育の授業は水泳の時間となったが野球部員ということで、教室で自習させられた。また夏の大会が終わり、新しいチームでの練習が始まるまで三〜四日の休みがあり、友人たちと海に行ったがいつも一人「淋しく」魚釣りで時間をつぶすのが恒例であった。今日プロ野球選手の多くはシーズンオフに水泳をトレーニングに取り入れているし、身体のバランスを鍛える方法として広く採用されている。
 「水分補給」といい「水泳」問題といい、今になって考えると隔世の感がある。弁解するわけではないがその後野球を離れバットを棒に、ボールを石に持ち替えて新たな人生を選んだのは「水」も「水泳」も全く関係がない。純粋に生き方の問題である。しかし今でも高校野球を見ると当時が蘇る。      (武)


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