| キャンドル闘争! どこへ行くのか? かけはし2008.7.21号 |
闘いは日々躍動的に変化
BSE(牛海綿状脳症)の牛肉交渉が30カ月以上の牛、BSEの危険物質を持つ内蔵部位の輸入を受け入れると伝えられた後、開始された学生たちのキャンドル集会は、今やひと月を超えて全国各地で全国民的抗争の様相へと発展進行している。
清渓広場で始まった、キャンドル少女に象徴される学生らの集会、政府の弾圧にもかかわらずすべての年齢層へと広がっていき、5月25日の街頭進出、5月31日の景福宮会議、6月5〜7日のリレー・デモ、6月10日の平和大行進に至るまで、キャンドルは巨大な怒りの海となって青瓦台(大統領府)に向かった。
戦警(戦闘警察、機動隊)と警察バスによってこれを阻止していた警察は6月10日、大規模集会を阻むために光化門交差点にコンテナ・ボックスを設置してデモ隊を阻止したが、古代国家的な発想のこの阻止線を人々はからかい口調で「ミョンバク山城」と名付けた。筆者は清渓広場から始まった街頭デモからミョンバク山城の上に旗がなびくときまで5、6回ほど徹夜をしながら参加したし、三清洞では警察車両からの放水攻撃を受け病院に担ぎ込まれるなど、それなりに熱心に現場にいた。この文章は、それらの経験の結果だ。しかし今回のデモにおいては「分析しようとはせず、ただ参加しながら感じろ」と話をされるほどに様々な現象が新たに生まれ、そのたびにそれぞれの主張が噴出したのであって、今も躍動的に変化しており、これを短い文章でまとめるには自ずと限界がある。
集会でのシュプレヒコールは、ごく自然に「交渉無効」、「考試撤回」、「イ・ミョンバクは引きさがれ(弾劾、退陣、独裁打倒、国民リコールなど、さまざまに表現された)」という3つに集約された。牛肉問題から医療および公共部門の民営化、韓半島大運河を中心とした現政権のすべての政策へと広がった。
反政府・反独裁闘争の様相
確かにBSE牛肉問題は単純な食材の問題を超えて韓米FTA(自由貿易協定)と直結した問題であり、韓米FTAはひいては資本の地球化と関連した問題だ。すなわち米国の畜産業界に進出した資本だけの問題ではなく米国の資本全体が、韓国の自動車、半導体産業だけではなく資本一般の利害関係がかかった問題だ。一方、新自由主義が資本の悪化した蓄積構造の中で資本の利潤を確保するために駆使できる支配戦略の一つだとすれば、民営化もまたその根本には資本の利害関係がわだかまっている。韓半島大運河もまた建設資本、土地投機資本の利害がかかっているとすれば、現政権のすべての政策はその根底では互いに連関していると見ることができる。
BSEの危険のある牛肉から自らを守っていくという素朴な要求は反新自由主義、反資本の性格を持っており、国民の意見を無視し資本の利害を代弁して何としてもBSEの危険がある牛肉を国民に食わせようとする大統領に対する問題提起は、それの政治的帰結だったのだ。政府や保守メディアは、BSE牛肉のゆえに出てきた市民たちを対策委などの指導部が政治化していると言うけれども、その実相は逆だ。対策委は牛肉問題にのみ限定させようとしているとして批判されており、市民たちが乗り出して課題の拡張、政治的争点化させているのが現実だ。
「失われた10年」と叫びつつ歴史を反転させようとしている勢力に対して独裁打倒を叫ぶことによって、民主主義の問題は再び提起され、民主主義は単純に選挙を通じて大統領を選ぶのを超え、国民の意思を無視する大統領に対する問題提起、すなわちすべての権力は国民から出てくるというシュプレヒコールに見られるように、形式ではなく内容の問題へと拡張された。民主主義とともにこの十数年間、進められていた新自由主義戦略の拡張:完成版である民営化政策に対して――今はそれなりになお社会安全網として存在してきていた健康保険などの各種の制度を民営化し、水などの公共財を私有化しようとするという点において拡張・完成版と見ることができる――ごく自然に問題が提起された。
さらに進んで貨物連帯の生計型ストライキは非組合員や国民の支持を受けている。今や「取り戻した10年」と語られる国民の政府、参与政府の限界(形式的民主主義、新自由主義の構造調整そして最小限の社会安全網の設置)を「超えて」歴史を進展させることのできる契機が作られたと見ることができる。
「行こう、青瓦台へ」
この数十年間、新自由主義の構造調整や韓米FTAに対する反対闘争が運動圏を中心にして進められ、失敗へと帰結したにもかかわらず、今や初(小)・中・高の学生たち、一般市民たちがこれに対して問題を提起しているとすれば、ある面においては運動圏は敗北したが運動は生きており、逆説的にすべてが運動圏になったと見ることができる。
過ぎ去った10年に戻ることが問題なのではなくて、その時期の歴史が残した諸限界を完成させる課題が提起されるとともに、全国民が踏み出すようにしたのだ。70年代の「アチミスル(朝露)」(キム・ミンギの曲で禁止歌とされ、抵抗歌としてひそかに愛唱された)、80年の光州、87年6月抗争のイ・ハニョル、パク・ジョンチョルが再び復活し、最新のIT装備で武装した「アゴラ」(ネット)の戦士たちと結合した。一般市民らは自分たちが直接製作したピケットをかざし、すべての市民団体は自分たちの旗をかかげて出てきた。年若い学生、一般市民たちはいかなる拒否感もなしにこれを受けいれた。あたかもすべてのものを溶かしてしまう巨大な溶鉱炉のようだった。
「愛国歌」(韓国国歌)と「ニムのための行進曲」(抵抗歌として歌い継がれている)が順番に歌われ、太極旗(国旗)と赤旗が並び混じってうち振られ、2002年のW杯の合い言葉である「テーハンミングッ(大韓民国)」のような愛国主義的シュプレヒコールはかつての運動圏でもかかげられているが、負担となりそうな「イ・ミョンバク退陣」という過激な政治的シュプレヒコールとが同じ手拍子の中で叫ばれた。
「行こう、青瓦台へ」は一貫した流れであり、光化門と青瓦台は集会の終着駅として大衆的エネルギーが伸びゆく方向だった。デモ隊を新村や退渓路、東大門など、青瓦台からかけ離れた方向へ導こうとする一切の試みは、逆に進軍する隊伍によって事あるごとに現場で拒否された。すべての行進の帰結点は光化門、西小門、安国洞など、青瓦台に続く道へと向かった。
青瓦台に向かう行進を阻んでいる戦警、放水車、警察バス、コンテナ、ボックスは無力化し、闘争の対象どころか、嘲りの対象となった。戦警が阻んでいる所は5月31日の三清洞、孝子洞への進出によって無力化されるとともに、遂には強力な放水車攻撃が登場し、世論の十字の砲火を浴びて放水攻撃は無力化され、戦警の前に警察バスが配置された。しかし6月6日、7日の2日間、警察のバス4台が引き倒されることによって10日にはコンテナ・ボックスが登場することになったのだ。世にいうミョンバク山城はデモ隊や世界の世論の物笑いの種となった。
青瓦台に向かうのは不可能なばかりでなく、行ったからとてやることもないとの主張は、一貫して青瓦台に向かう大衆行動によって拒否された。6月7日、光化門では大衆闘争を放棄して歌に切り換えていた対策委の車両が大衆の抗議によって放送を打ち切った。
また、青瓦台に向かうことは何の意味もないし、大統領退陣の要求は憲政の秩序を危うくするものだとする、今は金海のポンファ村にお住まいの方(一時は青瓦台務めをなさった方)の一言も、何の効き目もなかった。6月10日、まさに光化門へと行進したし、コンテナの前での発泡スチロールで囲まれた5時間に及ぶ大討論は白眉だった。対策委の一部、韓総連、アゴラの一部が叫んでいた非暴力/下りてこい/回し者などというシュプレヒコールは、上に並べ/上がっていけ、という大衆の声や市民たちの相次ぐ自由発言によってかき消され、圧倒された。結局は象徴的にそれぞれの旗が登壇することによって終結された。大衆は青瓦台を圧迫することが最も効果的だということを直感していたのだ。
労働者のストライキも合流
何よりも、最も特徴的なことの一つは大衆の自発性と直接行動だった。すべての市民、自発的諸団体が(キャンドル行動には背後で操縦している勢力がいる、との政府や御用メディアの非難に対して)、「私が背後だ」と宣言した。飲食物を提供するギャラリー、キンパプ(のりまき)部隊などは、それらを提供することによって自ら背後だとのレッテルをはって飲食物を配り、交渉の代表を要求する警察に対しては市民らがみな立って「私が背後だ」と叫ぶことにより、交渉は実現できなくなった。暴力デモ/フラクチ(スパイ、回し者)の論難、祝祭なのか闘争なのかなどの争点は、自分をさらけ出して主張する一般市民らの現場での討論、それぞれの旗の動き、大衆の直接行動によって整理された。だれもが隠さず自らの意見を述べることにちゅうちょしなかった。
現場の行動は「非暴力」と「車をどかせ」との間で、また「下りろ」と「上がれ」の間で、より大きな声によって直ちに方向が決められ、だれもがあらかじめ決められた脚本にしたがってはいなかった。だがこのような自発性は、解体され散らばり脱走する自発性ではなく、集まって方向性を持って前に進んでいく自発性だった。討論、そして現場の声によって整理される大衆の直接行動を通じて代理主義を拒否し、直接踏み出す姿を見ながら、現場で動く大衆の「集合的理性」が、むしろこれまでのいかなる理論家、運動団体、政党よりも優位に立っている、との思いがした。
これらの人々を疎通が不足で正しい知識を持てなかったがゆえに出てきた人々、または自分たちが考えていたよりも目線がやや高くなった人々、はたまた一定のラインで統制しなければ暴徒のように突発行動でもしかねない人々と見なすのは、もともと考え違いをしているのだ。たくさんの情報を持っており、民主的であり、運動圏よりもはるかに積極的に徹夜デモに乗り出す新たな主体たち、これらの人々こそが今日の矛盾を突き破っていくことのできる最も重要な動力のうちの一つではなかろうかと思う。今日、大衆の動きを見れば、「私が背後」という主体宣言は、背後は誰なのかというイ・ミョンバク大統領の質問に対する愚問賢答以上の意味として受け入れられる。すなわち、何らかの他の背後によって動員され、調律され、統制されているのではなく、自ら乗り出しているということが、それなのだ。
今後、貨物連帯、建設労組を皮切りに労働者たちがストライキ闘争に乗り出すとともに、BSEという全国民的事案に労働者の事案が加わることになるだろう。また労働者部隊がキャンドル部隊に合流しつつ、街頭の政治に工場の政治が添加されるだろう。俗に古い社会運動と称される労働者運動が既存の「言語」にとらわれない、今日の新たな運動にいかなる形態で結合するのか、また今日の運動が示している大衆の創意力や自発性を抑さえつけるのではなく、一層発展させることのできる指導力をどのように作っていくのかが今後の課題となるだろう。
3・1運動の時、マンセー(万歳)運動を繰り広げて虐殺された民衆たちと警察に自主した民族代表の33人、80年代の青瓦台に進出しようとする市民や学生たちを代表者会議が解散したソウル駅回軍、光州で武器を返納した対策委と道庁死守に踏み込んで皆殺しされた市民軍、87年6月の時に身を投げうって抗争した市民たちと、選挙に踏み切ろうとして分かれた両キム氏や運動指導部に至るまで、われわれの運動史には革命的進出をする大衆と機会主義・代理主義の問題を示す指導部間の間隙が繰り返し現れている。
5月と6月を経つつ、われわれの運動史においてしつこい持病のような指導部と大衆の間の問題を超え、また旧社会運動/新社会運動、民族主義/民衆主義、市民運動/労働者運動、街頭の政治/工場の政治/議会政治など、既存の区分を飛び越えて今日の矛盾を解決し、新たな地平を切り開いていけることを期待する。(ナム・グヒョン/会員、韓神大教授)(「労働者の力」第146号、08年6月24日付)
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