政府の「教育改革」に高校生
が歴史的な大量動員で対決 |
パリでデモに
5万人が参加
フランスの青年は、教育改革に反対する動員によって、かれらの潜在能力を示し続けている。今度は、それが高校生によって示されている。そして、かれらは連続して、高校の教員の仕事の抑制に反対して街頭に登場した。
すべては、来年までに一万千二百人の高校教員を削減するというサルコジ政権の発表から始まった。その際に政府は、教育の権利への正面からの攻撃と公共支出を減らす方針にさらに一歩踏み込んだ。その結果がもたらすものは、選択科目(芸術、ラテン語、外国語)の削減と教育実習生比率の削減、そして教員の労働時間強化を含むことになる。
最初に動員したのは、教員たちだった。三月十八日に、SNES、FO、SudとCGT(訳注―いずれも労組のナショナルセンターもしくはネットワーク)の共闘の呼びかけに応じて、何千もの教員はストライキをして、パリでおよそ二千人がデモを行った。そして、大規模な青年運動が再び高揚する最初の徴候を与えることになったのが、三千人の高校生の参加だった。
それ以来、教員の闘いの力は、学生のそれによって乗り越えられた。そして、高校生がかれら自身を組織して、イニシアティブをとり始めた。行動の方法は、最近のストライキの間にフランスの青年によって得られた経験を反映している。それは大規模なデモのための学内封鎖とストライキピケ、授業の合い間のスピーチと討論である。
他の運動とは対照的に、いまイニシアティブをとっているのは、大部分のデモ参加者同様に労働者階級の地域の高校生である。このように、フランスの学生の行動と組織力の巨大な動員力を実証し、パリ郊外からの闘志満々な青年たちのラディカル化によって集約され始めた。
この運動は瞬く間に、野火のように広がっていった。最初にパリで、何百もの高校が自発的にストライキに入った。そして、すべての政治団体と労働組合を圧倒した。しかし、高校だけではなく、運動は何十もの中学校(11〜15歳)にも広がった。そして、それは授業も放棄して、デモンストレーションのために大規模に動員された。これらのデモンストレーションは、週に二回パリで最高五万人を結集させた。
ストライキは
地方にも波及
しかし、運動はパリだけにとどまらない。トゥールーズ、ライアンとグルノーブルでは、動員は歴史的に先例のない規模となった。四月十八日にパリの学生は、二週間の「休学闘争」を始めた。それは、地方のハイスクールの転換をもたらした。(訳注 パリの学生による地方の学校のオルグ活動のこと)そして、現在かれらは休みから戻っている。そして、地方でも行動はすぐに始まった。四月二十二日には、一万五千人(トゥーロンの2500、リールの500とストラスブールの3000)の学生がデモを行った。
パリの「休み」が終わるとき、これらの地方の行動がまた、パリの運動を後押しした。
行動のレベルの活性化を成し遂げるために、運動がそれ自体を組織して、民主主義を構築していくことは重要なことだ。闘争を調整する初の全国会議が四月に行われ、次に五月三日に行われる。
五月六日は、重要な日となるだろう。教員組合はFOのもとでゼネストを指令する考えだ。それは産業部門を超えたストライキの呼びかけとなる可能性を含んでいる。
追記:教員の労組であるFERC―CGT、SGEN―CFDT、UNSA―EDUCATION、SUD EDUCATIONは五月が行動の一カ月であると約束した。そして五月十五日の大攻勢を呼びかけている。
b筆者は、パリ・ナンテールのJCR(革命的共産主義青年)のメンバーたちである。
投書
「ナクバ」を見て考えた
SM
「世界の人々はホロコーストには興味があり、証言を集め記録して本を出版している。しかしパレスチナ人の証言は嘘だと言われてしまう。なぜ? 彼らは人間で私たちは動物だとでも? それを聞きたい」(ムハンマド・タンジさん。『パレスチナ1948 NAKBA』、合同出版)。
四月にユーロスペース2(渋谷)で「パレスチナ1948・NAKBA(ナクバ)」というドキュメンタリー映画(広河隆一監督作品)を見た。
イスラエルがパレスチナ人にしたことは、アメリカが先住民にしたことと似ているのではないか。パレスチナ問題は三里塚の問題とも似ている所があるのではないか。この映画を見て、私はそう思った。
レーニンは『国家と革命』の中で、国家を絶対悪のように主張するアナーキストに反対して「国家は悪だが、国家を廃絶するためには過渡的国家としての労働者国家が必要なのだ」と主張した。だがスターリン主義者が作った歪められた労働者国家は、全然死滅へとは向かわない、肥大化する国家だった。「国家そのもの」だった。
国家は警察や軍隊や監獄その他を使って人びとを殺傷する。国家に雇われた人びとは、「国のためだから、法律だから」という理由で、人びとを殺傷する。人びとに暴力を振う。国家はマスコミを使って人びとを騙す。国家に騙された人びとは、国家の暴力を支持してしまう。
ユダヤ人はナチス・ドイツによる虐殺を体験した。だが自分たちが国家を作ったらパレスチナ人を虐殺するようになった。パレスチナ人が国家を作ったら又同じことが起きるのではないか。私は、それを心配する。民族主義や国家主義は人種差別主義を内包しているのではないか。パレスチナ問題は、パレスチナ人とユダヤ人が共生する国家、口先だけではなく本当に死滅へと向かう国家の実現によってしか解決し得ないのではないか。スターリン主義の克服を目指す民主的共産主義者は、国家が悪であるという点をもっと真剣に考えるべきではないか。民族主義や国家主義が悪であるという点をもっと真剣に考えるべきではないか。国家や民族についてのスターリン主義的に歪められた考えを根本的に見直すべきなのではないか。この映画を見て、私はそんなことを考えた。
ここで私は、旧約聖書の問題(旧約聖書の創世記では、「パレスチナの地は、神がイスラエルの民に与えることを約束した物だ」と説かれているという)については触れていない。私は宗教に甘過ぎるだろうか。宗教もまた人種差別主義を内包しているのだろうか。
この映画を見て、キファー・アフィフィさんの「収容所は完璧だったわ」という言葉が私には良く理解出来なかった。「人物などの説明の字幕」と「他の字幕」の両方を同時に読むのが大変だった。この映画の本(『パレスチナ1948 NAKBA』、合同出版)を読んで、「人々の側にたって人々のために報道することを、自分たちの役割と考える」(日本ビジュアル・ジャーナリスト協会の目的)という広河隆一さんの姿勢に共感を覚えた。
「パレスチナ1948・NAKBA(ナクバ)」/2008年/日本映画
(2008年4月8日)
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