| 寄 稿 9条世界会議関西集会成功の意義と今後の課題 かけはし2008.5.26号 |
5月4日〜6日、千葉・幕張をはじめ関西、広島、仙台で開催された9条世界会議は、全体で3万人を超える人々が結集し大きな成功をおさめた。関西集会の準備過程から「世界会議」の形成のために関わったATTAC関西グループの寺本勉さんに、その成果とこれからの課題について報告をお願いした。(編集部)
五月六日に大阪・舞洲アリーナで行われた9条世界会議関西集会は、予想を大きく上回る八千人の参加者を集め、成功のうちに幕を閉じた。この集会の実行委員会に当初から参加していた者として、9条世界会議関西集会成功の意義を改めて考えてみたい。
風の変化を
読み切れず
五月五日午前、舞洲アリーナで準備に入った集会事務局スタッフは、ある種の緊張と興奮の中にいた。それは、前日に行われた幕張メッセでの9条世界会議メイン集会が、会場の収容可能人員をはるかに上回る一万数千人の参加者であふれたとの報道をすでに知っていたからである。
私自身は、五日の午前中、ワークショップの英文レポートの訳出に格闘していたため、五日午前のミーティングに参加できなかったのだが、そこでは「もし、幕張のように集まったらどうするか」と議論百出し、「第二、第三会場設置の準備」が決められたという。幸いにして(と言えばいいのか)、用意された第2会場を使うまでには至らなかったのだが、参加者の出足の早さは、私たちの事前の予測を覆すものだった。
まず、午前中に設定されていた二つのワークショップは、それぞれ定員の二百人、百人を倍する数の参加者で会場があふれ、特にATTAC関西グループがコーディネートしたワークショップ「貧困、紛争、地球環境と9条」は、狭い会議室が立ち見であふれ、受付担当者の主な仕事が「もう一杯で入れません!申し訳ありません!」と謝り続けることとなってしまった。しかも、参加した人々は立ち見の人も含めて、きわめて集中してアフリカの二人のスピーカーの話に耳を傾けていたのであった。
そして、メイン集会が始まる十二時頃には、用意された六千部のプログラムは品切れとなってしまった。さらに、二千枚以上用意された当日券もすべて売りきれる事態となり、最後には集会チラシに実行委員会のスタンプを捺して、チケットのかわりにする有り様であった。最終的には、三百人以上のスタッフを含めて、八千人の参加人数を数えることとなり、海外ゲストのスピーチ時には、アリーナ席、二階席のすべてが埋まり、立ち見や床に座り込む人が大勢出る盛況となった。
この予兆は、後から考えてみれば、東京・日比谷公会堂での5・3集会が四千人以上を集め、会場に入りきらない人々が公会堂を取りまくという状況に実は表れてはいたのだった。しかし、その段階ではまだ誰も、五月四日の事態を予想できてはいなかった。それは関西集会の準備に当たったスタッフだけでなく、幕張メッセのスタッフも同じだったに違いない。もし予想できていたとしたら、第二会場を準備するなど対応策がとれていたはずだからである。ネット上で幕張のスタッフの一人がいみじくも語っていたように、私たちは「風が変わっていたことに気がつかなかった」のである。
ナイロビWSF
から始まった
昨年五月、関西集会の実行委員会を発足させたとき、こうした「風が変わ」ることを予兆させるものは、私たちの前には登場してきてはいなかった。安倍政権による教育基本法の改悪、国民投票法案の成立必至の情勢など、憲法改悪に向かう外堀が次々と埋められていく危機感があった。その中で、従来の憲法改悪阻止の運動の枠、「9条の会」の広がりをも超えた運動の結集によって、9条の意義を世界に発信していくという新たな発想に新鮮さを感じた多くの人々が9条世界会議の取り組みに結集してきた側面は否定できない。
また、五月二十一日に行われた関西集会第一回実行委員会で、この世界会議の発案者の一人でもあるピースボートの川崎哲さんが語ったように、「ナイロビ世界社会フォーラムなどでのグローバル9条キャンペーンが、大きな反響を生んだ」ことも、9条世界会議を推進する大きな原動力となっていた。実際、二〇〇七年一月のナイロビWSFでは、ピースボートと大阪・東京の弁護士グループが、グローバル9条キャンペーンのブースを出展し、参加した世界の活動家に憲法9条の意義を訴えた。今回の関西集会の中心的組織者の一人であった梅田章二さん(弁護士、日本国際法律家協会関西支部)も、このWSFナイロビに参加した一人だった。私自身も、WSFナイロビに参加して、彼らの精力的なキャンペーンに触れ、さらに特にアフリカからの参加者の好反応を見て、9条のもつ国際的な影響力の大きさとそれが過小評価されている状況を痛感したものだった。
川崎さんは、その実行委員会で「9条世界会議は、9条守れの運動ではなく、その世界的意義を確認するとりくみである」ことを強調し、「護憲運動の単なる結集ではない、さらに広い結集をはかる」ことの重要性を訴えておられた。そのことの先見性は、とりわけ幕張メッセへの青年層の結集によって立証されたと思う。関西においても、確かに参加者の多数は、従来の「9条の会」ベースの中高齢者ではあったが、これまでには見られなかった青年層や家族連れの参加が目立ったことは確かであった。
解放感と開放
的空間の構築
9条世界会議を前にして、9条をめぐる二つの大きなニュースがマスコミに流された。その一つは、四月十七日の名古屋高裁判決であり、もう一つは四月八日付読売新聞で明らかになった世論調査の結果だった。
前者は、周知のように、イラクでの自衛隊の活動差し止めを求める訴訟において、米兵などを輸送する「航空自衛隊の空輸活動は憲法違反」「平和的生存権は、憲法上の法的権利」としたものであった。また、後者では、改憲論の立場をとる読売新聞の世論調査において、十五年ぶりに「改正反対」が「改正賛成」を上回り、「9条改正反対」が「9条改正賛成」を倍する支持を得たというものであった。
この二つのニュースは、声高な「憲法改正」の主張に押されがちであった状況を覆し、9条改憲反対が決して少数者ではなく、多数を形成している、あるいは多数を形成することができるのだという自信を多くの人々に植え付けたと思われる。押し込まれた状況の中で、なんとか9条を守らなければならないという一種の閉塞感から、開放的な気分で、憲法9条の意義を訴えることができる状況への変化があった。9条世界会議関西集会が、かつてない解放感の中で、きわめて開放的な空間を作り出したことは、この状況の変化を反映したものであったとも言えよう。
もちろん、この背景には、小泉政権、安倍政権と続く中で、いわゆる「格差社会」の顕在化によって、憲法に保障されているはずの「生存権」が脅かされていることへの怒りが、参議院選挙での自民党の大敗を招いたこともあったのは間違いない。
新しい交流と
信頼関係形成
しかし、このような状況の変化があったとしても、それを運動の中に具体化する主体的な努力抜きには、実際の集会の成功にはつながらなかったこともまた明らかであろう。その意味では、関西集会の成功は、そこに結集した多様な団体、個人のかつてない共同の営みの成果であることは疑いない。
9条世界会議のとりくみは、日本実行委員会による幕張メッセでの三日間の集会と分科会、および大阪、広島、仙台における集会によって構成されていた。それぞれの集会は独立して組織されており、その実行委員会の構成も各地域によって異なっていた。したがって、私は、日本実行委員会については、わずかにマスコミで流される情報や全国会議の報告などから側聞するしかなく、また広島、仙台の実行委員会についてはほとんど知らないのが実際のところである。
しかし、少なくとも私がかかわった関西集会実行委員会については、これまでにはない広範囲な団体、個人の結集と相互の立場を尊重しながら全員一致の原則を貫く作風によって、従来の運動を超える質と量を実現させることができた。
実行委員会には、さまざまなレベルの「9条の会」、ふぇみん婦人民主クラブ、新日本婦人の会、I女性会議などの女性団体、生協連、共産党系の労働組合や諸運動団体、関西共同行動や「とめよう改憲ネット」などの市民団体と個人で参加してきた人々が参加し、それぞれがこれまで運動してきた領域外の団体や個人との出会いの中で相互の交流も深めながら、お互いの信頼関係を作りだす作業を続けた。ほぼ一年間にわたるこの過程抜きには、関西集会の成功はあり得なかった。その意味では、参加した団体、個人にとって、得難い経験となったことは間違いない。
実際、実行委員会が発足した当初は、開催期日と会場だけが決まっている状況で、すべてを一から始めていかなければならなかった。その中で、事務局スタッフ会議、企画・広報・組織財政などの各委員会、学生らの新世代部会、全体の実行委員会などの会議を積み重ねて、プログラムから会場への輸送手段の確保にいたるまで、膨大な準備作業をこなしていった。その一方で、チラシ作成と配布、HPの立ち上げ、各種集会でのアピールなどの宣伝活動、集会の成功を保障するための巨額の賛同金(団体・個人)集めなどにもとりくんだ。昨年十月からは、実行委員会の事務所確保と専従体制をとって、集会準備を加速させた。
私にとっても、五千人規模(結果としては8000人規模となったが)の集会を組織するという作業に参加したのは初めての経験でもあり、こんなことも必要なんだ、という驚きの連続だった。また、所属した企画委員会では、憲法9条の意義を海外ゲストから発信してもらい、それを若者、子どもたちに引き継いでいくというコンセプトは決まったものの、プログラムの確定まで、ああでもない、こうでもない、という試行錯誤を続けた。しかし、今まで交流のなかった多くの人々(その多くは、いわゆる共産党系と言われる人々だったが)との共同のとりくみを通じて、なんとか形にしていくことができたのは、本当にうれしい経験だった。関西集会の成功は、まさにこうした1年間の営為の結果でもあったことを改めて感じている。
ATTACが
はたした役割
その中で、私たちATTAC関西グループは、梅田さんらが呼びかけたWSFおおさか連絡会とともに、WSFナイロビに向けた共同の学習会や報告会、昨年五月のADB対抗フォーラムでの「9条とアジア」ワークショップ開催といった経緯もあり、最初の段階から実行委員会に参加して、微力ながら集会の準備にとりくんだ。
そして、メイン集会に先立った行われたワークショップのうちの一つ、「貧困、紛争、地球環境と9条」のコーディネートを引き受けることとなり、スピーカーとの調整、レポートの訳出、当日の準備、受付、司会など、APWSL(アジア太平洋労働者連帯会議)関西委員会の皆さんの協力を得て、何とかこなすことができた。また、アリーナの2階にATTACのブースを設け、パンフレットの販売、G8サミットに向けた諸行動・企画の宣伝にもとりくんだ。こうした活動は、正直、ATTAC関西グループの力量を超えるものではあったが、集会に参加してくれた人々にアピールできたことは確かであった。
この9条世界会議関西集会で経験した運動の広がりと開放的な空間の実現は、決して一過性のものにしてはならないと思う。その思いは、実行委員会に参加した人々の共通の思いでもある。七月のG8洞爺湖サミットは目前に迫っている。また、来年一月には、ブラジルのアマゾン河口の都市ベレンで、世界社会フォーラムが二年ぶりに開かれる。しかし、性急に結果を求めるのではなく、さまざまな課題での共同闘争、とりわけATTAC的にはグローバリゼーションとの闘いでの共同のとりくみを、時には着実に、時には大胆にすすめていくことで、次の局面を準備していくことが大事だと思う。
セイブ・チベット・ネットワークが大集会
中国の民主化とチベット解放は切り離せない問題
胡錦濤主席の
来日に合わせ
五月六日、この日に来日した中国国家主席・胡錦濤の来日にあわせて、この四月に結成されたばかりのセイブ・チベット・ネットワークの主催の「チベット問題の平和的解決を求める大集会」が、日本青年館で行なわれた。
最初に、在日チベット人数十人が登壇し、この三月のチベットにおける蜂起に対する中国政府の武力弾圧によって、死者が三百人以上、負傷者が千人以上にのぼり、いまなお「暴動に参加した容疑」で人々が拘束されていることが伝えられた。集会では犠牲者を追悼するために、起立して一分間の黙祷を行なった。
セイブ・チベット・ネットワークの呼びかけ人である牧野聖修さん(前国会議員)は主催者を代表してあいさつを行った。
「三月の蜂起以降、様々な方法で、日本でもチベット支援の動きが広がっている。4・26聖火リレーに対する"Free
TIBET!"の三時間に渡る『本物の自由』を訴える長い長いシュプレヒコールは中国サポーターを圧倒していた。真実と正義の訴えが最後に勝利するだろうことを長野で実感した。今日は、胡錦濤に訴え五十年に渡る圧制を終わらせるために、デモを企画した。胡錦濤は、一九八七年のチベット弾圧の指揮を執って政府中枢で出世した人物だが、彼が国運を賭けたオリンピックにチベット問題が立ちはだかっているのは歴史の皮肉だ。一日も早く平和的に解決するために、胡錦濤に声を届けよう。また、敵は『中国全体』あるいは人民ではなく、一握りの政府だ。そこを理解して、チベットそしてウイグル、内モンゴルの人々、そして中国の土地を奪われている農民、搾取されている労働者とも連帯しよう。中国の民主化とチベットの真の解放は、一体の問題であることを踏まえて運動を広げよう」。
チベットへの
ジェノサイド
北インドから来日した亡命チベット代表者議会のカルマ・チョペル議長は、現在のチベット民衆の置かれている状況について語った。
「中国政府がチベットで行なったのは人間へのジェノサイドであり、文化・宗教へのジェノサイドだ。チベット人は二流民族扱いされ、自分の土地でマイノリティ扱いされている。三月蜂起の原因は、中国政府の虐待にある。中国政府が幸福をもたらさなかったからこそ蜂起が起こった。チベット人が求めているのは『完全な自治』と『ダライ・ラマの復帰』そして『チベットはチベット人に』ということであり『奪った土地を返せ』ということだ。中国政府が対話を拒むなら、その要求は『独立』となっていくだろう。厳しい状況だがチベット人の決意は高まっている。世界の人々の支援に心から感謝する」。
次に、チベットが中国に侵攻され、植民地化されていく過程についての五分ほどのビデオ上映が行なわれた。ダライ・ラマを「慈悲の化身の生き神」とする宗教教義そのままの内容には私たちとしては思うところもあるが、中国政府の圧制と虐待こそがダライ・ラマに「民族のアイデンティティー」を体現させることになっていく過程を描いたものと考えれば興味深い内容ではあった。
壇上には、内モンゴル独立党、世界ウイグル会議、台湾独立運動の活動家が次々と登壇して、人権と自治、あるいは独立のために連携して、中国内部の民主化の動きとつなかって闘うことをアピールした。
最後に在日チベット人がアピール。
「十年以上日本にいるが、こんなにチベットのために日本の人々が集まる日が来るとは思わなかった。三月の僧侶たちの命を賭けたデモが世界の人々の心を動かした。中国政府は、鉄道を敷き産業を導入してチベットを近代化したなどと言うが、それがチベット人のためのものでないから抵抗が起き、ダライ・ラマが支持されているのだ。われわれとの『対話』を北京オリンピックのためのパフォーマンスで終わらせてはならない。聖火リレーのチベット通過は、挑発であり屈辱を与えようとするものだ。即刻中止して、チベット人の尊厳に配慮しろ。ほんの少しの慈悲の心と思いやりさえあれば、分かることだ。日本の人々には、いけないことはいけないと言い続けてほしい。これからも力を貸してほしい」と訴えた。
4千人がフリー
チベットの訴え
集会は、再び在日チベット人たちが登壇して、チベットの闘争歌『ロンショー』(起ちあがれ!の意)を合唱して閉幕し、デモ行進にうつった。デモは、千人を収容する日本青年館に入場できなかった参加者たちが続々集まり、その数は最終的に四千人を超えた。表参道を通って代々木公園までのデモは"Free
TIBET!" `チベット・ウイグル・内モンゴルに自由をa `中国に人権と民主主義をaを元気に訴え、沿道や通過する車から熱烈な支持の声が数多く寄せられた。観光の外国人が、スピーカーの"Free
TIBET!"のコールに唱和する。デモは長い長い列となり、最初の列が解散地点に到着してから最後の列が到着するまで、一時間近くかかったのではないだろうか。解散地での四千人を超える人々の"Free
TIBET!"の大コールは、ほんとうに圧巻だった。(F)
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