【福島】郡山市での働く者の権利を守る第79回メーデー集会は、「今だからこそユニオン!貧困と格差のない社会へ」をスローガンに五月一日の夕刻に開かれた。実行委員長の橋本守弘国労郡山工場支部委員長の主催者あいさつに続き、社民党古川正浩県議、共産党神山悦子県議、郡山の未来をつくる会蛇石郁子市議、郡山市職労川崎茂俊委員長が連帯の挨拶に立った。
各職場,争議団体からの報告として5団体が発言。
国労郡工支部の橋本光一書記長は、尼崎事故をはじめとする車両事故の多発が安全輸送・乗客労働者の生命よりもコスト削減を優先するJR各社の方針によってもたらされていることを指摘、労働組合が闘って安全輸送を守っていくと報告した。教育現場からは、今春現場復帰した木幡前書記長から、休憩をとる時間もなく給食も流し込むだけという、超多忙・長時間労働の実態が報告され、労働安全衛生法を活用しながらたたかっていくと話された。
全国一般ふくしま連帯ユニオン書記長の佐藤さんは「洋服の青山」が残業代十二億円を支払うと明らかにしたのは、県内の現役店長が組合に加入し「名ばかり管理職」の是正と未払い残業代支払いを求め団交を行い、福島地裁に提訴したことがきっかけであったこと、一人の勇気ある異議申し立てが会社を動かしたと報告、このような闘いを広げようと訴えた。国労仙台闘争団事務局長の佐藤正則さんは、鉄建公団訴訟一審敗訴の経緯を報告しながら勝利解決まで闘い続けると固い決意を語った。
昨年三月、地元の学園理事長・裏千家福島支部長・福島馬主協会会長を務める吾妻タクシー経営者下田穣一郎の策謀により偽装倒産、組合員二十五人不当解雇・組合つぶしの攻撃をかけられた全自交福島地本吾妻分会からは、下田らに対する心底からの怒りが表明されるとともに福島県労働委員会の早期救済命令を求める運動への結集と支援が呼びかけられた。
「名ばかり管理職
残業代」裁判報告
今集会のメインとして「名ばかり管理職・残業代裁判」で勝利したマクドナルド店長高野廣志さんと東京管理職ユニオンの安部副委員長から特別報告が行われた。高野さんは一九九九年から店長を務めてきたが「管理職」とは名ばかりでにもかかわらず、年間一千時間を超える残業代も支払われなかった。過労死寸前で、組合に加入し、二〇〇五年六月から日本マクドナルド社と団体交渉を開始。この結果、パート労働者と一般社員に対しては時間外割増賃金の不払い(総額34億円)を認めたが、店長職の労働者には、労基法四一条「管理監督者」条項をタテにして時間外賃金の支払いを拒否続けた。
二〇〇五年十二月に提訴。以来、家族、組合、弁護団、全国の仲間と共に闘いぬいてきた。東京地裁は本年一月、高野さんの主張を全面的に認め、残業代等、計あわせて七百五十三万円余を支払うよう日本マクドナルドに命じた。同時に「マック店長は労基法第四一条2号が規定する(管理監督者)に当たらない」と明確に判断。長時間労働で苦しむすべての労働者、労働組合の勝利であると同時に過労死、過労自殺者家族の思いに後押しされての勝利であった。
この裁判は単に残業代を支払えという性格にとどまるものではなく、労働者保護である労働時間規制(8時間労働制)を磐石なものにするためである。「法律を知らず、立ち上がらなければ殺されていた。これは自分だけのことではないと思った」との発言は今日の労働者が置かれている状況を端的に示すものだった。
集会は阿部真理教組青年部長が読み上げたメーデー宣言を採択し飯塚裕一県教組郡山支部長の音頭で団結ガンバロウを三唱して幕を閉じた。今集会には、報告した組合ばかりでなく、郵政、自治体、NTT、JR、地域、民間中小の最前線で闘う労働者百人が参加し、連帯を実感できる場となった。終了後の交流会にも三十人が集った。 (N)
全都野宿労働者メーデー
屋根と仕事を勝ちとるぞ!
野宿の仲間が都庁にデモ
四月三十日、新宿で今年で十三回目の全都野宿労働者メーデーが闘われ、都内各地から野宿の仲間と支援者約二百二十人が参加した。
会場の新宿西口、柏木公園では十一時半より共同炊事で腹ごしらえ、山谷で炊いてきた竹の子ご飯をパックにもってみんな一斉に「いただきます」。
司会をつとめる実行委員会の仲間の発言によって集会がスタート。「この間、国は自立支援と称する政策を行って来たが野宿の仲間を巡る状況は何ら変わることはなかった」「むしろネットカフェ難民などに見られるように野宿の仲間だけではなく社会の隅々まで貧困と排除が広まっている」「全都の仲間たち共に声を上げていこう」。
続いて「メーデー宣言」が読み上げられ、ATTACジャパンやたんぽぽ舎、釜ヶ崎医療連絡会議、大阪の高齢者特別就労組合、沖縄の佐敷教会、ルポライターの鎌田慧さん、西村仁美さんなどから寄せられたアピールが紹介された。
次に参加した各地の仲間の発言。インクルーシブ杉並「東京都の三千円アパート事業(地域生活移行支援事業)で野宿者が姿としては見えにくくなったが、うまくいかずに戻ってくる仲間もいて問題は何にも解決していない」。
中野夜まわりの会「三千円アパート事業で人が減ったがまた新たな人が野宿している。アパートに入ってもフォローが何にもないので厳しい、アパートで孤独死した人も出ている。格差社会、生きづらい世の中を変えていかなくてはならない」。
渋谷「今日のメーデーではおれたちはここにいる!と言う事を合い言葉に大きく声を上げていきたい」。
上野からは二人「野宿から生保を取り、仕事をしている。働いても生保から引かれてしまうのでなかなか生活が安定しない。最近ようやく落ち着いてきた」。
「上野の不忍池で段ボールを敷いて寝ようとしたらガードマンに追い出された。古くからいて登録されている人は寝られる。これは差別じゃないか!」。
竪川河川敷公園「今回始めて参加しました。竪川での工事を名目とした追い出しに対する闘いへのご支援に感謝します」。
隅田川「今日は三十人で来ました。隅田川では昨年末から居住権を掲げて生活保護の集団申請を行っている。スリーエスやさくらハウスなどの二種施設では仲間を施設に入れて生保を獲らせ、月に十三万円ほどもピンハネして膨大な利益を上げている。一方、悪質な飯場でタダ働きをしいられている仲間も多い。力を合わせて闘っていこう」。
続いて市部の仲間からの発言。三多摩野宿者人権ネットワーク「スリーエスやさくらハウスなどの生活保護を食い物にする輩を野放しにしていてはいけない」。
立川「初めて来ました。立川では毎月二回炊き出しをやっていて私も手伝っています」。
夜廻り三鷹「三鷹からは六人で来ました。生保を申請しても寮に入れられてしまうんだけど、今回始めて寮を使わずにカプセルホテルを経てアパートでの生保を勝ち取りました。私たちにも生きる権利、住む権利があると思う、共にがんばっていきましょう」。
次に連帯アピールにうつる。APFS労働組合の仲間は「移住労働者も生きるためには闘わなくてはならない状態にあると言う意味で皆さんと同じです。共に闘いましょう」と発言。
フリーター全般労組の仲間は、五月三日に行われる「自由と生存のメーデー」ヘの参加を呼びかけた。
全体でシュプレヒコールを行い、都庁に向けたデモに出発。猫の形の巨大パペットも登場し、都庁前では「屋根と仕事を勝ち取るぞ!」「石原出てこい!俺たちの声を聞け!」と元気にシュプレヒコールを上げた。
解散地の中央公園では争議団連絡会議、持たざる者の国際連帯行動、さくらハウス事件から貧困と生活保護を考える会の発言を受けて解散した。 (板)
コラム
引っ越しで見つけた写植手帳
事務所を移転することになった。三度目の引っ越しである。建物が老朽化し、在庫やらパソコンなどの重さに床が耐えられそうもなくなったことが主たる理由。入居してから十七年、たぶん築五十年は経つに違いない。
神田の裏通りにありそうな、昭和の風情漂うモルタル二階建ての建物だったので火災の心配もあった。夜、消防車のサイレンが聞こえると、「よもや我が事務所であるまいか」と目が冴えてしまうこともしばしば。家賃の安さは魅力だが、防火、耐震面を考えると、誰が考えても限界だった。
どのくらいの老朽ぶりかというと、長年の酷使から建物全体が傾き、特にひどいところは腰掛けていると後ろに引っ張られるような錯覚に陥る場所もあった。そのため、鉄骨が入っていると大家から聞かされても、心配は募るばかり。地震でもこようものなら、いつ床が抜け下に落ちるかとヒヤヒヤのしどおしである。階下がアパートだったので、「うるさい」「ドアが開かなくなった」などの苦情もあった。本当にごめんなさい。ということで引っ越しを決断したのが四月初めのこと。大家にその旨を伝えると、「実は相談したいことがあった」というから、この申し出に満更じゃない様子。たぶん自宅を改築する話しを聞いていたので、これを機に取り壊しを考えていたらしい。後日談だが、なんと敷金も返してくれたからうれしいかぎりである。
引っ越しとなると、その準備が大変なのはどこも同じ。いる物いらない物の選別だけでも大仕事である。まして、事務所となれば書類の山また山。まして、個人情報保護法やら分別回収やらで、紙切れ一枚もいい加減に始末はできない。棚を整理し、放置してあった箱を開け、机の中をかき回す。そうしているうちに、昔の写真や手紙、手帳を発見し、思わず読み始めてしまい片づけが中断することも。また、紛失していたものが見つかるのもこの時ならではのことである。まさにお宝発見の毎日だった。
ボクのお宝発見は、一九八五年の写植手帳と数枚の写真。机の引き出しの奥深くに眠っていたものだ。ぱらぱらと頁をめくってみると、思わず「ボクも活動家の端くれだったんだなあ」という変な感慨に耽ること。一月八日のJCY旗開きに始まり、二月十日の第九回全国労働者討論集会。三月三十日は牛込公会堂で全国青年共闘結成集会、翌日は三里塚現地集会。そして六月十六日の反安保集会と続く。七月には反戦サマーキャンプ、九月十五日は日比谷公会堂で東峰十字路東京集会と枚挙に暇がない。労農合宿所近くの畑でジャガイモを収穫している写真もあった。
手帳を発見した夜のこと、布団に寝ころび再び頁をめくって考えた。そこにいたのは間違いなく二十七歳だったボク自身。そして、それから今日まで何をしていたのかと、手帳の文字が問いかける。
「あれから二十三年たった現在、よくなったことは一つもない。政治、経済のすべてが逆行している。海外派兵、ビラ撒き有罪、盗聴法、そして経済格差などなど。新たなる戦前そのものだ。これら悪政を阻止できなかった責任の一億分の一はオマエ自身にある。仕事にかまけて、傍観者的な評論家に終始していたのではなかったか」。
確かにその通り。昔を思い出して感慨に耽っている場合ではないのだ。ボク自身の戦線を再構築し、行動しなければ自分の首を絞めるだけ。これを機に自分自身の引っ越し先を改めて考えてみたいと思う。 (雨)
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