| 反資本主義政治変革を導く政党を語る(上) かけはし2008.3.17号 |
党は階級を代表するものだが
決して階級の代表体ではない |
いかなる党なのか?
今、韓国社会の労働者民衆陣営は運動の再編をめぐって実に久しぶりに意味のある論争の地平と構図を形成している。もちろん、それが本当に意味があるものになるためには論争の結末がどう帰結するのかと共に、この論争がどれほど厳密な過程を経るのか、大衆とどれほど意思の疎通がなされるのかの問題が、なお横たわっている。ただ、今はそのためにも論争をより根本的に、より具体的に率いていくべき必要がある。
論争は現在、辛うじてやっと始まりの段階を経過しているにすぎない。したがって性急に結論を下すだとか、早くケリをつけようとする思いや姿勢は最大限、自制しなければならない。我を主張し、それを貫徹させるに先立って、互いに疎通し学び浸透しようとする態度が必要だ。言葉を阻みさえぎるよりは、言葉を導き、言葉をつないでいけるように公論の場を守り育くもうとする努力を彼我を問わずやっていくことを基本的前提としなければならない。
この一文の主題は「いかなる党なのか」だ。ところで、いかなる党なのかを語るためには、その前に「なぜ党なのか」が解明されなければならないし、またそのためにも「なぜ党なのか」を語ろうとすればそれを包括している政治路線、つまり「変革の戦略」または「移行期の戦略」をそれに先行させなければならない。そればかりか、その「いかなる党」を「どのように建設するのか」や「なぜ今なのか」という問題も同時に考えなければならない。そうではあるが、ここでの主題は「いかなる党なのか」だ。したがってそれ以外のさまざまな質問に対して答えることは直接の対象とはしていない。
ただ「いかなる党」なのかを語るということは、党をすでに前提として踏み込んでいくということを意味するとともに、党を前提とするということは、とりもなおさず変革または移行戦略において党の存在が必要不可欠だということを、すでに含んでいるのだ。
「いかなる党」なのかを持ち出した途端、「どのように建設するのか」や「なぜ今なのか」についてある程度は輪かくを示すことになるだろう。ひとつだけ前もって話しておこうと思うのは、ここで語ろうとする「いかなる党」は組織路線よりは政治路線に近い説明になる、ということだ。なぜならば、組織路線の問題は「いかなる党なのか」よりは「なぜ党なのか」において主として取り扱われるべきだからだ。
「いかなる党」なのかの問題は、大きく言えば党のアイデンティティーを問うものであり、もっと具体的に言えば党の理念や路線、イメージや性格、任務や役割、運営・体系についての問題だ。だがこれらのことにストレートに踏み込む前に、何よりも党自体をどう規定するのか、つまり党のポジションをどう設定すべきなのかの問題を推し量り、それを踏み越えていかなければならない。
これは直ちに党と階級の関係についての問題だ。党と階級の関係において、その核心は党が階級の代表体なのか、それとも党は階級の一部なのか、という問いだ。これに答えるためにはその前に党それ自体が何なのかを若干、探ってみる必要がある。
党はブルジョア政党であれ労働者階級の政党であれ、いずれにせよひとつの社会の支配勢力となることを目的として集まった人々の結社体だ。つまり党は特定の目的を前提とした人々の存在形式であり活動様式だ。
そのような脈絡において党は経験的に政治組織の一形態であり、組織が到達しようとする最も発展した形態だ。すべての党は特定階級の利害を代弁するばかりではなく、その構成において特定階級の最も先進的な部位が優先的に結集した形態を帯びることとなる。
労働者大衆の意識の発展は一直線に進むものではなく、また同時に労働者大衆の意識の発展は不均等に実現される。ところで党をどのように規定、また定義しようとするとき、党を階級の代表体と認識するのか、それとも党を階級の一部とみるのかという地点で、ある状況が発生する。
党は階級を代表するものでなければならないということと、党は階級の代表体だと設定することと区別されなければならない。前者の意味するところが、党は階級の最も先進的な意識を表現しなければならないということを言っているのだとするならば、後者の表現は党が階級になりかわり、または代替することができることを意味することであるからだ。党は当然にも階級の最も先進的な意識を代表するために絶えざる努力をし尽くさなければならない。それにもかかわらず、党が階級になりかわるだとか代替することはできないということを明確にしておかなければならない。
党が階級になりかわり、また代替できると想定するのは、「労働者階級の解放は労働者階級自らの力によってのみ可能だ」という思想を否定するもので、これは代理主義またはエリート主義の党活動を生む原因となる。以下に述べる「いかなる党なのか」は、まさにこのような区別を大前提としている。
民主労働党の理念と路線
資本主義社会またはブルジョア政治体制において、すべての党は特定階級の利害を代弁する。党が政党である理由は、それは政派の党であるからだ。政派は階級の別の名前だ。逆に言えば、すべての階級は自らの階級的利害を貫徹するためのひとつの手段であり、かつ有力な方案として政党を構成する。
まだ政党を持つことができなかった場合には不可避的に、自らの利害を最もよく代弁できると考えられる政党を通じて間接的に自身の利害を確保せざるをえない。韓国の労働者民衆運動陣営は87年以後、「労働者階級の政治勢力化」または「労働者階級の独自的政治勢力化」を実現しようとする熱望を抱いてきた。
民主労働党は、まさに「労働者階級の政治勢力化」を実現しようとしていた熱望のひとつの結果だ。少なくとも民主労働党は、その成立または構成の時点では明らかにそうだった。民主労働党を発足させることのできた決定的動力が、まさに民主労組運動だったからだ。
だが、それにもかかわらず民主労働党はその成立の初期に労働者民衆運動陣営全体を包括できないまま出発した。代表的に、今日の民主労働党内で多数派を形成している民族主義勢力と、民主労働党の外に布陣していながらも労働者階級の政党建設を主張している勢力は、初期の段階で結合しなかった。
当時、民族主義勢力は労働者階級中心の党運動よりは、いわゆる民族民主勢力中心の戦線運動をより上位の組織路線として設定していた。労働運動を中心に活動していた諸政派は民主労働党が労働者階級の政党ではなく、改良主義の政党化となることを憂慮することと同時に、その中に入っていって制御することはできない、と判断していたからだ。
その後、民族主義勢力は民主労働党に大挙入党する戦術を駆使し、今日の多数派を形成するところとなり、民主労働党の外の諸政派は独自的に党を建設するところまでは、まだ到達できてはいない。
民主労働党は1997年の「国民勝利21」から始まって満10年の歴史を歩んできた。その結果として民主労働党がいかなる党なのかが初めて明らかにされたのであり、シム・サンジョン非対委(非常対策委員会)が提起した「第2創党のための評価と革新案承認の件」を見ると、民主労働党が今後いかなる党になろうとしているのかということを十分に予告している。
民主労働党はこの10年の結果として、党の理念と路線が民族主義と社民主義がそれぞれ併立していることをさらけだした。民族主義勢力は民主労働党を民族民主政党化へと仕立てようとしているのに反して、社民主義勢力は民主労働党を文字通り社民主義政党に作りあげようとしている。
仮にも非対委案が承認されれば民主労働党は、曲がりなりにも綱領の上では存在していた社会主義的価値や指向は、党の理念や路線から完全に消え去るであろうし、現在よりもはるかにもっと右傾化するだろうことは自明だ。
大選(大統領選挙)以後、民主労働党が繰り広げている内紛・混乱は基本的にブルジョア勢力または改良主義勢力からの圧力、つまり「従北、親北党」、「民主労総党」、「デモ党」に基づいているだけで、労働者階級からの批判、すなわち「改良主義政党」、「合法主義政党」などの批判については全く耳を貸そうとしていないことに、それは充分に表れている。「新党推進勢力」もこの点では何ひとつ変わるところがない。もちろん否決されたからと言って、理念や路線においての、いかなる前進も変化もなされることはない。
ここでひとつ、考えてみたい。今、民主労働党において最大の問題となっている「従北、親北」と関連して、筆者は民族主義の理念と路線に対する批判を超え、同時にそれに対する運動的論争を超え、それを「従北、親北」のような烙印づけのやり方に対しては、全く同意することも共感することもできないという点を明確にしておこうと考える。
特にそれが、内部の批判や説得、同意や受容という過程を通じて解決するやり方ではなく、結果的に国家保安法を受容することにまで至る点については、一層深刻な問題提起をしないわけにはいかない。これは単に民主労働党の内部に限っての問題にとどまらず、労働者民衆運動陣営全体にまで、その波及力が及ぶことは火を見るよりも明らかなことだ。
運動の大原則は政治意思の自由を擁護し、拡張しなければならないことだ。特定勢力、または特定人の政治形態を問題視することと、これを区別しないことこそは典型的な小貧大失(小さな利益にとらわれて大きな損害を被ること)だという点を真剣に振り返ってみることを勧告する。覇権主義の問題に限っただけでも、それは民主労働党全体を丸ごと問題視すべき性格のものだ。
後で再び述べることになるが、覇権主義は特定分派の特定の政治行為であることに先立って、民主労働党全体がブルジョア政党のような運営の原理、つまり多数決自体を絶対化していることから生じているのだ。
3つの政治性格とその限界
民主労働党は党のアイデンティティーに関連して大きく3つに規定することができる。
第1に、民主労働党は何よりも階級連合政党だ。よしんば民主労働党が民主労組運動を動力として出発し、民主労総から排他的支援を得ており、民主労総に割り当て制を実施しているとは言うものの、階級連合政党だという事実には変わりがない。階級連合政党は労働者階級の中心性を否定または歪曲することによって民衆主義(ポピュリズム)を党の根幹とせざるをえない。ところで階級連合政党と多政派連合は区別しなければならない。労働者階級の政党においても多政派連合は可能でありうるからだ。
第2に、民主労働党は選挙、議会主義を中心において活動するブルジョア政治体制内の合法主義政党だ。民主労働党が(政党)登録をしたこと自体がイコール合法主義だと言っているのではないが、民主労働党が合法主義を選択、採択することにしたその結果として登録が実現した、ということは明らかだ。
もちろん選挙、議会戦術の駆使は当然にも必要だ。だがそれが選挙、議会活動を党活動の中心とみなしたり、選挙を通じた執権戦略を言うこととは厳然として異なる。もちろんこのような戦略は民主労働党の、主として社民主義勢力が採択している戦略であり、民族主義勢力は、いわゆる「全民抗争」路線を維持していると見られるが、これまた歴史的に破産した人民戦線に基づいているという点で、その限界は極めて明らかだ。
第3に、民主労働党は自らを進歩政党だと語っていることからも分かるように、改良主義の政党だ。特に新自由主義の地球化が全面化した今日の世界にあって、進歩政党はブルジョア政治体制内部で保守の相対的概念となるほかはない。
仮に韓国の現実において、進歩が反新自由主義を指す特定の意味を含んでいるものだとしても、反資本主義とは程遠い距離を持っているのだ。民主労働党は綱領においてはどうであれ、改良主義の政党だ。たとえそうだとしても、西欧の社民主義政党のように、まだ大衆的検証が執権を通してまで明らかにされたわけではない、というだけのことだ。
「新党推進勢力」が新たに建設しようとする進歩政党も同じことだ。彼らが非対委案を歓迎していることからも分かるように、「新党推進勢力」が想定している党は、ほかならぬ非対委が提示している党であり、これは今日の民主労働党よりもさらに右傾化する党だ、という点だ。
彼らが「緑」を語り、社会運動的諸課題を呼び込み、これがあたかも赤い色を強化するかのように話すのは、事実を完全に歪曲している。非対委案や「新党推進勢力」の側から労働者階級の中心性を強化するという発言や、その具体的な内容を求めることはできないし、むしろこれを何としてでも弱めようとするか、あるいは洗い流そうとする努力を競い合って繰り広げているのだけだ。
例えば、百貨店式の羅列を通して、まるで世の中のありとあらゆる良いものを集めておいたかのように見せるが、そしてこれらを称して新しいと語っているけれども、それは新しいものではなく、すでに西欧でその政治的生命力を失って久しい古いパラダイムにすぎない。
「緑」や「社会運動的諸課題」は当然にも労働者階級の政党が受けとめなければならないし、自らの課題として設定しなければならないことは明らかだ。けれども、これが労働者階級の中心性を否定したり弱化させる方向からなされることは、全く別個の問題だ。(「労働者の力」第140号、08年2月1日付、コ・ミンテク/中央執行委員)
(つづく)
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