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韓国はいま                       かけはし2008.2.25号

反資本主義の政治変革を導く労働者
階級の政党建設運動を全面化しよう(上)

労働者の力



1 民主労働党の危機=労働者民衆政治運動の危機ではない

1-1 民労党運動は政治的死亡宣告を受けた

  民主労働党が内部混乱に包まれている。非対委(非常対策委員会)の構成、再創党、分党、そして「従北主義」をめぐる論難が乱舞している。もちろん、このような混乱や論難の直接的な契機は第17代大選(大統領選挙)での惨敗のせいだ。だが根本的には発足以後、この10年間に累積された民主労働党運動全体の、全般的な矛盾や問題がはじけ出てきたのだ。
 民主労働党は民族民主政府を実現するよりも前に、社民主義政権を樹立するよりも前に、いや労働者の政治勢力化のための最小限の意味のある基礎をうち固めることさえできないまま政治的死亡宣告を受けた。
 民主労働党は自身の右側から「旧態の進歩」という嘲弄を受けており、党内部からは「従北主義」の攻勢に直面し、自身の左側からは「無為に老けこんだ進歩」との批判にぶちあたっている。このような問題提起がすべて正しいわけではないけれども民主労働党が示しているそれぞれの断面であることは事実であって、これは民主労働党自らが呼びよせたものだ。

 民主労働党が政治的死亡宣告を受けた、と判断する根拠は、こうだ。

 何よりも今回の大選の過程およびその結果、そしてそれに対する党内の反応自体が、その第1の理由だ。民主労働党は3・01%の得票率にとどまった原因や、その政治的意味について、またそれが以降の労働者民衆の政治運動に及ぼす影響や波及について、またそれに対する政治的責任をどうやりおおせるのかについて労働者民衆の政治運動の全体に向けて党レベルでの責任ある政治報告を出せずにいる。すでにそれを遂行したり、やりおおせる政治力が拡底した状態だ。難破船の喚き声だけが聞こえるばかりだ。

 第2に、民主労働党はすでに議会主義、合法主義の泥沼に余りにも広く深く陥っている。議会進出は、合法領域への拡張自体を問題視するのではない。議会や合法空間への進出・拡張は労働者民衆の政治運動が確保しなければならないひとつの手段であり、また経路でもある。だがそれ自体を目標としたり目的とみなすのは深刻な問題だ。それは労働者民衆の政治運動をブルジョア政治へと駆り立てていくだけだ。
 この点において民主労働党は、すでに後戻りできない橋を渡ってしまった。民主労働党が今日の混乱をどう収拾するのかはともかくとして、この点については1ミリたりとも抜け出せないだろうことは自明だ。民主労働党は今、この瞬間に至ってもブルジョア政治と全く同様に、ただただ党権と比例代表候補を念頭においた利銭争いを繰り広げているばかりだ。

 第3に、民主労働党が展開している反新自由主義闘争は反資本主義の闘争ではなく、よりよい資本主義のための闘争にとどまっているのであって、プロレタリア国際主義に基づいた反帝国主義闘争ではなく、狭小な民族主義にとらわれている。
 民主労働党は闘争を通じて労働者民衆を政治の主体としてうち立てるいうよりは、むしろ受動化させており、闘争の中で労働者民衆の変革の意志を育み、労働者民衆が変革へと踏み出すことのできる契機を形成するというよりは、むしろ組合主義または経済主義へと導いている。民主労働党が反資本主義の政治変革を中心にすえ、労働者民衆の闘争を組織し先導することを期待するのは、もはや不可能だ。
 民主労働党運動の挫折は単に民主労働党だけの問題にとどまりはしない。現実的に民主労働党は労働者民衆の政治運動の代表的性格を帯びているからだ。労働者民衆の政治運動が今日、直面している現状から、われわれもまた自由ではありえない。だからといって、民主労働党が担うべき責任までをこれ以上、やりぬくことはできない。
 したがって党内部での各政派間では宗派主義あるいは自派中心主義という政治攻防はありえるだろうが、労働者民衆の政治運動内の民主労働党批判勢力の問題提起を一切、宗派と断定づけるのは適切ではない。
 民主労働党は、言うならば政治全体、すべての階級関係の中では依然として少数にとどまっているのは事実だけれども、これがそのまま民主労働党に免罪符を与えるものではないし、変革を目指す勢力がいまだ規模が小さいという理由だけで民主労働党が引き続き労働者民衆の政治運動を代表すべきだということをひたすら前提としなければならない、というものでもない。

1―2 新自由主義を克服する政治的展望の不在

 民主労働党は1987年の全国労働者大闘争と96〜97年の全国ゼネスト闘争の産物だ。そういった意味で、民主労働党が直面した危機は労働者民衆の政治運動の全体もまた自らの危機を招来するだろう、との心配も起こりえる。そのような憂慮が現実化する可能性は全くないとは言えないだろう。
 だが、そのような心配はいったん落ちつかせ、むしろ労働者民衆の政治運動を新たに構成し、新たな動力と活力を創出することのできる可能性も、それに劣らず大きい。

 歴史的に見るとき、1987年に大衆的労働運動が成立して以来、今日の時期は労働者民衆の政治運動においての第3番目の主要な局面を開き、めくるときだ。
 
 第1の局面は、大衆的労働運動がまさに台頭し労働者大衆が激しい怒りとエネルギーとが爆発したものの、まだ大衆自身の意志によって政治勢力化を試図するまでには至ることのできない条件の中で、一連の政派運動の各主体の間で政治的離合集散がなされていた時期だ。
 この時期の核心的特徴は労働者大衆の力が噴出することとは対照的に政派運動の各主体は、むしろ「現実社会主義」圏の崩壊に追われて、労働者大衆の政治運動が持たなければならない変革性を捨ててブルジョア政治の一部分へと投降した、という点だ。

 第2の局面は、世界的レベルで新自由主義が形成され、その余波が韓国に上陸する時点と重なって、民主労総を中心とした政治勢力化が、その以前に変革性を脱却した諸政派と結合して民主労働党を創党した時期だ。
 この時期での核心的特徴は、資本の地球化が全世界を強打している条件の中で、民主労働党の創党にはせ参じた諸政派は、これを克服することのできる新しい政治的展望をうち立てようとする努力よりは、とうに破綻した古い民族主義や社民主義の路線によって労働者・大衆闘争を導いた、という点だ。
 民主労働党が全体的に労働者民衆の政治運動を代表することができていたのは、その路線の正しさのゆえではなく、労働者民衆運動において多数を占める量的優位を確保することに成功したためであって、これはとりも直さず、変革的意志を持っていた他の政治的各主体の運動が停滞していたり、あるいは失敗した、ということを意味する。

 今や第3の局面が、まさに形成されている。いや3番目の局面が形成できるのかの岐路に立っている。第3の局面がいかなる核心的特徴を生み出すのかは、今日からの論争と運動とによって左右されるだろう。われわれはこの第3の局面の実践的帰結が労働者階級政党の建設だと判断する。
 したがって民主労働党の問題は民主労働党の水準での問題として制約されてはならない。論争と運動は政派レベルの範囲を脱却し核心的に民主労組運動全体へ、地域と現場のすみずみまで広く深く広がっていかなければならない。
 「従北主義」の攻防にとらわれることなく、反資本主義の政治運動を具体的、大衆的に形成することのできる路線と方案とをめぐる論争として拡張させなければならないし、ひいてはその連続の上で運動の再編がどのようになされなければならないのかを原点から再検討しなければならない。
 こう見通してみるならば、ブルジョア選挙での敗北をひたすら落胆するものでもない。むしろ民主労働党の危機を心配する制限された視野を超え、もっと全体的な労働者民衆の政治運動を跳躍させることのできる契機を形成する機会と見なすべきだ。
 このために今こそ民主労総は労働者大衆を政治の前面へと導き出せる方向で態度を定めるべきであり、民主労総内の活動家たちの間で活発な討論と論争が燃えあがらなければならない。
 同時に各政治勢力も暗中模索や落ち穂拾いに身を委ねるのではなく、満天下に自らの政治的立場と態度を掲げて踏み出し、自ら政治的審判台に喜んで立たなければならない。
 その際、いかなる既得権も既成事実化も認めてはならない。これはブルジョア政治においてもはや通用しない保守的かつ後進的なありようにすぎないからだ。
(つづく)
「労働者の力」第140号、08年2月1日付)

民主労働党の事態と変革的左派の選択

 第17代大選(大統領選挙)での民主労働党の惨敗を契機として党内分派のひとつである「前進」を中心としたいわゆる「平等派」陣営が、党のヘゲモニーを行使しているいわゆる「自主派」(民族主義)陣営に対する政治的責任を提起するとともに、自主派のアキレス腱とも言うべき「従北主義」の問題を正面に掲げて乗り出した。脱党派(新党派)と自主派の対立が激化して危機に直面した党の事態を収拾するために再構成された非対委(非常対策委員会、刷新派)の三角対立の構図の中で、われわれはこの8年間、進歩政党の名によって展開されてきた「労働者政治」の悲しい終末を見ている。
 民族主義と社民主義の同居と彼らによる主導の下で展開されてきた民主労働党運動の8年は、先般の大選を契機に政治的破産を迎えた。この破産の原因や責任の問題を従北主義や覇権主義などとして考えるのは事件の一面にすぎない。根本的に「階級政治」をストレートに具現できず、ブルジョアの現実の政治や改良主義に傾倒してきていた絶えざる右傾化が民主労働党の危機の根本的原因中のひとつなのだ。
 こういった側面において、前進を初めとする「平等派」や「刷新派」のいずれもが党の改良主義を拡散させてきた主要な主体(主犯)であることを否定することはできない。労働者階級の立場から見るとき、民主労働党内の民族主義や社民主義の傾向、あるいは中央主義的社会主義運動勢力のいずれもが、この「改良主義」の巨大な温床に自らの身と未来とをあずけていたのだ。
 今回の民主労働党の事態を正しく解決することのできる対案的主体勢力はと言えば、改良主義の「甘い汁」にどっぷり漬かった自主派、新党派、刷新派のいずれもが、むしろ清算の対象とならなければならない勢力だということが悲劇だ。
 一方、今回の民主労働党運動の破産局面を迎え、対案的階級政治についての論議やさまざまな構想が新たに提起されている。96〜97年のゼネスト以後、新たに形成された階級的左派運動の政治的模索は「政治連帯」を通じて進められるかのごとくだったが、民主労働党運動の出現などを契機に党内の分派化、社会党、労働者の力の運動などへと四分五裂する様相を経つつ、分化した。そして10年近い歳月が流れ、先般の大選以後、変革的な階級政党運動の新たな転換点、「三角の波」が形成されている。労働者の力と現場左派、社会運動左派、それに民主労働党脱党運動などの異なった波が互いにぶつかり合って新たな階級政治の広場が形成され始まっている。
 新たな状況は新たな危機を招き、その状況に備えられなければ運動は必然的に分解する。新たに形成される三角波に捕らわれて波の力で沈没する古ぼけた船となるのか、それとも自らが波となり古くなった船や腐った水をひっくりかえし新たな水路を切り拓く力となるのかは、変革を熱望している階級的左派活動家たちの双肩にかかっている。
 もはや「だれそれのゆえにできない、何々のせいでできない」というような卑劣な言い訳は示すまい。集団にまぎれて回避する活動家、手をこまぬいたまま革命的言辞のみを振りかざす中央主義者たち、左旋回することのない平等主義者、主体の状態だけを口実にする人間は、もはや擁護することはできない。現在の、与えられた左派運動の秩序とその限界を踏み越え、新たな10年の変革運動を設計し実現することのできる変革政党、階級政党の新たな波濤に合流する能動的な自願者(ボランティア)が必要だ。さあ、集まろう! 新たな解放の広場へ!(「労働者の力」第140号、08年2月1日付、コラム「ヒムイヤギ」より)


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