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岩国市長選の敗北                   かけはし2008.2.25号

この試練を乗り越え米艦載機
移駐阻止運動の再構築を!


1782票―
僅差での敗北

 【広島】開票所で開票作業を見守った。午後十時半に一万票対一万票。午後十一時に四万票対四万票。その後、最後の局面。集計器械を出てきた票の束が篭に積まれているのだが、肉眼で見る限り井原氏が多い。勝ったと思った。
 ところがテーブルに並べられて、一部の票が福田氏の票だと言う。立会人も異議を言わない。携帯電話の向こう側で「NHKに当確が出た」という。一瞬の出来事だった。確定されていないのにマスコミ各社が流す。十一時二十五分、確定した。重大な敗北を喫した。
 二月三日告示、二月十日投開票の岩国市長選挙結果は、前市長の井原勝介さんが無念の涙を呑んだ。当日の有権者数は、十二万一千七百十七人。投票率七六・二六%で、九万二千八百二十六人が投票した。米空母艦載機移転容認派の福田良彦氏が四万七千八十一票、井原勝介氏が四万五千二百九十九票で、その差は千七百八十二票であった(無効票443票、不足票3票)。得票率で五一%対四九%、八百九十二人を奪い返すことができなかった。

米軍再編という
争点が外された

 昨年十二月一日の「国の仕打ちに怒りの一万人集会」大成功をバネに、市議会とこう着状態であった井原氏は攻勢的に動いた。補正予算案五度目の否決を受けて、辞職と引き換えに補正予算修正案の可決を引き出した。仮にこの局面を乗り切っても、二○○八年度予算案の攻防がしのげない、だったら今、市長選で勝利し、三度目の移転反対との民意を不動のものにしようとの展望であった。実際、容認派は、市議会で多数派を形成していたが、市長選の展望がなかった。
 そんな中、井原氏は、年初に市長選を「争点は米軍再編にあらず、岩国の民主主義と自治を守る戦い」と位置づけた。一万人集会の主催者、移転反対派の市議十一人と県議二人が「民主主義と自治を守る議員有志の会」を作った。つまり、国の米軍再編押し付けに対して、岩国の民主主義と自治を守る闘いとの位置づけをしたのだ。米軍再編反対を全面に出さないとの抑制が働いたのである。

「第2の夕張市」
というデマ宣伝

 一方、井原氏を追い詰めてきた米空母艦載機移転容認派は、井原氏の先手・辞職の攻勢に対して遅れを取った。
 前回郵政・衆院選で辛うじて民主党の平岡秀夫議員(当時)に競り勝ったラッキーボーイこと福田良彦氏を急きょ、担いだ。三十七歳と若く、岩国市議一期、山口県議一期(中途)、衆議員とトントン拍子で登ってきたが、議員らしい仕事は全くしていなかった。市議時代の質問回数はたった三回。
 主張は、米軍再編に極力ふれずに、財政問題に切り口を絞り、例の三十五億円補助金カットに胸を痛めていた岩国市民の漠然とした不安感に付け入り、財政破綻するとの大きな嘘の大キャンペーンをしかけたのである。いわく、「第二の夕張市になる、市営バスがなくなる、公共料金が上がる、税金があがる、保育園がなくなる、公園のトイレもなくなる」というデマのチラシを大量に浸透させた。
 選挙の前面には地元市民を押し出し、自民党大物は投入せずに、裏で自民・公明・企業のしっかりした組織選挙をやり抜いた。「米軍再編受け入れを岩国市発展のチャンスに切りかえよう。井原氏では国から何も取れない。国の言いなりにはならずに交渉する」とのトーンも押し出してきた。この財政問題が急速に浸透した。
 とりわけ、もともと基地問題に温度差がある旧郡部に浸透し、さらに女性よりも男性、二十代・三十代青年に大きく浸透した。また、生活苦の層に、基地に依存して、再編交付金をあてにしようという主張も浸透したと思われる。
 対する井原氏は、一月十九日の後援会総決起集会に千七百人を集め、ようやく「争点は米軍再編。どちらが勝つかで、移転問題は百八十度違う結果になる」と言い切った。財政問題についての反撃も始動した。「宇部市その他の同規模自治体と財政赤字規模は同じ、破綻しない」。「旧市の六百億円の赤字に合併部分の四百億円が上乗せされただけであり、岩国市ではむしろ赤字縮小に取り組んできた」。財政問題での土俵に乗らざるを得なかった。一月二十七日にはようやく全戸ビラ入れが行われた。
 そういうわけで、本来、米軍再編・移転受け入れの是非を問うべき、第二の住民投票の線に持っていくことができなかった。生活を破壊する艦載機移転問題を最大争点に打ち出せれば勝つことができるが、地域経済の活性化、財政問題が争点になれば、容認派が市議選で持っている票が多いのである。特に、二○○六年三月の住民投票や四月の前回市長選から寝返った公明党の存在が大きい。

井原氏を応援し
ない岩国市職組

 短期間のうちで、福田陣営は告示前にわずかにリードし本番に入った。それを追う井原陣営という構図になった。しかも、民主党が自主投票になった。四月の衆院補選を控え、日和ったのである。平岡秀夫さんは個人で応援はしたが組織的にしなければ意味はなかろう。岩国市職員組合は労使関係から問題を立て、井原氏応援を全くしなかった。自治労中央や自治労県本部からの応援要請をも拒否したのである。
 共産党市議団四人と共産党系の「住民投票を力にする会」は全体の底上げのために精力的に奮闘した。「住民投票の成果を活かす岩国市民の会」有志は、独自事務所を構え全力を尽くした。井原後援会には全国から人が応援に入ったが、逆に岩国市民が前面に見えるような、全面に出て行く選挙選にならなかった。議員有志の会も保守派からの執拗な切り崩しに直面した。
 二月二日の総決起集会には二千二百人が押しかけて熱気が最高潮に盛り上がった。座りきれない人が進行役の佐高信さんの呼びかけに応じてステージに上がったが、それでもそのステージを埋めることができずに、佐高さんは「お人よしじゃ勝てませんよ。この空いたスペースが気になるなぁ」とこぼしたのである。この集会での行動提起はなかった。
 三日の長山公園での出発式も熱気あふれるいい集会であった。井原氏は、「最大の争点は米軍再編。私の首をすげ替えるのが今回の彼らの選挙の目的。そのための刺客。この結果次第で、一八〇度艦載機問題の対応は変わる。正々堂々と論戦して欲しい。デマは許せない」と力強かった。このことを年末から方針化すべきだった。民主主義と自治の問題が争点という高度な抽象的レベルを設定した時間が惜しかった。
 また投票日前日には長山公園で午前十時と午後六時半の集会開催が急きょ決まったが、この設定にも疑問が残る。川田龍平参議院議員や上原公子さんが熱弁をふるった。街頭では、田村順玄市議が司会を務め、山内徳信参議院議員、保坂展人衆議院議員、辻元清美衆議院議員がマイクを握り大いに注目された。期日前投票は、一六%になった。福田陣営の組織選挙が浸透している感触であった。

民意は艦載機
移転に反対だ

 保守的基盤の強い岩国で、移転の是非をめぐる住民投票勝利を決定的な契機として、民意は、確実に米軍再編への疑問をふくらませてきた。民主主義、地方自治とは何か、沖合移設の問題点、「防衛は国の専管事項」という論への疑問。福田氏に入れた票の四割近くは艦載機移転反対である。民意は、極東最大の空爆の拠点基地を容認したわけではない。米軍基地そのものへの疑問をいだく市民を登場させていくだろう。
 そのための、そこへ向かうための避けて通ることのできない一時的な敗北である。この敗北をかみし締めて、米軍再編に抗する、日米戦争協力体制に抗する運動の再構築に向けて奮闘しよう。岩国市民の民意を信頼する。   

追記:
 二月七日、「岩国基地沖合移設事業埋立承認処分取消請求」の行政訴訟を山口地裁に提訴した。原告は岩国市民(うるささ指数75W値以上の住民と沖合移設事業と密接にかかわりのある愛宕山周辺住民)十八人。原告団長は、岩国市議の田村順玄さん。
 二〇〇八年一月八日に、中国四国防衛局が岩国基地の沖合移設事業の公有水面埋立法に基づく埋立事業の一部変更申請を山口県に提出した。これは、米軍再編最終報告が閣議決定してからはじめての変更申請であり、明らかな用途変更である。
 にもかかわらず、中国四国防衛局は、公有水面埋立法十三条の二に基づく用途変更手続きをとることなく、「添付図書の変更(差し替え)」としての変更申請しかしていない。それに対して、山口県知事は一月十八日の記者会見において、十三条の二に基づく住民の縦覧や市町村長に対する意見聴取などの手続きをとることなく、内部協議で、標準判断期間の三十二日以内に結論を出すと発表した。三十二日以内ということは、二月十日までに承認してしまう恐れがあるため、二月七日提訴となった。今後は岩国で初の爆音訴訟についても準備されている。重要な意味を持つであろう。
 また、「住民投票の成果を活かす岩国市民の会」は二月十三日に福田新市長に面会し、公開質問状を提出し、広く市民の声を聞き、市民の安心、安全を一番に市政を運営するよう要請行動をした。 (野田 久)

【訂正】前号(2月18日号)3面「架橋」欄2段最左行「日本人妙法寺」を「日本山妙法寺」に、同7面パキスタン労働党大会記事9段右から4行目「弁護士のニサル」を「弁護士のニザール」に訂正します。



コラム
忘れられない「丹沢事件」

 一九七四年夏、学生インター、ILC(国際主義労働者委員会)、FIH(国際主義高校戦線)の三者を軸にして共青同準備会がつくられ、単一の青年組織の結成をめざしていた。しかし三者は多くの闘いを共にしてきたとはいっても、日常活動を共有していたわけではなかった。かろうじて七四年春から夏に三里塚の戸村一作委員長が立候補した参院選(全国区)を共に担った経験があるだけだった。おそらく誰も単一の青年組織とはどんなものか明確なイメージを持っていなかった。そんな時、後に考えると関東における共青同の出発点とも考えられるひとつの事件が起きた。
 ある秋晴れの昼過ぎ、A君が「失恋した。自殺したい。丹沢に行く」(文面は正確に記憶していない)という置き手紙を部屋に残して出て行ったので探すのに協力してほしいという連絡が新時代社に入った。彼は当時関東の拠点大学のメンバーであった。私たちは各地区の事務所や連絡の取れそうな仲間に次々と電話する一方、丹沢の地図を広げ、時刻表をめくった。さらに五十人分の水と携帯食料などの準備に入った。
 午後六時過ぎ、第一陣は十五人程で小田急線の新宿を出発した。一隊は秦野からヤビツ峠経由で塔ノ岳。一隊は渋沢から大倉尾根を通り鍋割山。それぞれの駅には丹沢山麓で生まれ育った神奈川の労働者仲間がみんなの到達を待ってガイドの役割を買って出てくれた。午後八時頃には仕事を終えた仲間がぞくぞくと集まり、五十人を超えた。
 電気会社に勤めていた仲間は、事情を話し会社からトランシーバー数台と段ボール箱一杯の懐中電灯を借りて駆けつけた。最もびっくりしたのは救援センターの代表で後に冬の剱岳で亡くなった水戸巌さんが顧問をしていた芝浦工業大学山岳部の人たちが装備を持参し、共に夜間登高に出掛けてくれたことであった。
 また山に行けない者は、印刷会社と交渉し写真入りの「ウォンテッドポスター」を作成し、小田急線や御殿場線の最寄り駅や「もしかして気が変わり、小田急線の江ノ島方面に向かったかもしれない」と湘南の海浜部までそれを貼りに出掛けた。
 置き手紙した当の本人は、数日後新宿の友人の所に居ることが分かった。あわてて田舎から出てきた親は涙を浮かべながら「バカ息子、手紙など置いて行くんじゃない」と叱っていたのが印象深く憶えている。
 この時一晩も二晩も眠らず百人を超す仲間が一人の仲間のために自主的に行動した。顔は知っていても話などしたこともない仲間のためにである。丹沢に向かった仲間は登高途中に道に迷った遭難者を救助するというエピソードもあった。
 この後フォード来日・訪韓阻止闘争での大量逮捕や大阪・京都の現地行動、大雪の中バスで兵庫の八鹿闘争への参加など経て、翌一九七五年の共青同結成に向かって突き進むのだが、この「丹沢事件」は青年運動のイメージはともかく新鮮な「団結・連帯」を実感させてくれたことは確かである。それとちょっぴりの「自信」と。
 それ以来私にとって丹沢は好きな山のひとつとなった。丹沢山塊は東京や横浜から見ると富士山の前山のように見えるが、今年は例年と違って丹沢も雪に覆われ、富士山とのコントラストが本当に美しい。   (武)

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