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韓国 IMF通貨危機以後のバランスシート       かけはし2008.1.28号

変革的階級政党建設のために
社会・民衆戦線を強化しよう



1 後退と敗北の中で色あせた「総労働」と「労働者政治」の旗印

 IMF通貨危機以後、10年の歳月が流れた。97年末、キム・デジュンの大統領当選と共に始まった通貨危機は、IMF(国際通貨基金)救済金融体制への編入を招来するとともに、国内を混乱と恐怖のるつぼと化した。キム・デジュン政権は大衆に向かって「共滅の意識」をあおりたて、「苦痛分担」の名において資本の危機を労働と民衆に押しつける新自由主義の構造調整政策を積極的に実施した。これは労働・市場の柔軟化を核心とした構造調整の過程を強制することとなったが、構造調整の費用として168兆ウォンを超える天文学的公的資金=国民の血税が大資本の口に注ぎ込まれた。
 そして資本は、このような特恵を受けるという状況の中で、苦痛の分担を名分として一方的な賃金の削減や整理解雇、非正規職雇用の拡大など各種の労働柔軟化の諸措置を押しつけ始めた。こうして政府・公企業から民間中小・大企業に至るまで、全分野にわたって進められた構造調整の攻勢の一方的な気勢に労働者大衆や労働運動が圧倒される状況が続いたのだ。
 一方、IMF危機以前の96年末に民主労総は、総資本の労働法改悪の攻勢に対抗し現場や地域的闘争力に基づいて全国的な政治ゼネストを展開するとともに、資本の新自由主義構造調整の攻勢に能動的な防御策を形成することができた。けれどもこのような闘争の成果にもかかわらず、IMF事態直後の国民派指導部による「苦痛分担の受け入れ」方針は、ゼネストを通じて資本の一方的な構造調整、雇用破壊攻勢に対決することのできる「総労働」の閂(かんぬき)を自ら開け放つという結果を招来した。そして指導部のこのような屈辱は、96年に現場と地域の力によってゼネストを断行していた総労働の階級的団結や闘争力を再び取り戻すことができず、「敗北感」へと帰着してしまった。
 このように総労働の阻止線があっけなく崩れる中で、民主労組運動全般の対応のあり方は守勢化・孤立化し、「被害の最小化」から個別的に防御することにきゅうきゅうとする状況へと反転したのだ。「嫌々ながらやむをえず」に資本に対して協力(黙従)や、防御闘争という受動的で限界のある対応方式に基本的に依存せざるをえなかった。結局、「苦痛分担の受け入れ」は資本の危機を労働に押しつけるのを認めるものだった。
 これは96・97年のゼネスト闘争の成果を一気に取り消し、資本による労働市場の分断化・柔軟化に能動的に対応することをできなくさせ、個別化した闘争の様相や条件は、「労働者はひとつ」という「総労働」の意味が次第に色あせる要因として働いた。
 もちろん初期の構造調整反対闘争に対して、「労働時間の短縮と働く場の共有」を中心として労働者階級の要求を統一させようとする努力が展開された。けれども個別的闘争の条件や対応力の限界によって、このような根拠や要求は次第に「力のない名分」としてのみ作用する一方、正規職を中心とした、当時の構造調整の攻勢に対する個別的対応は非正規職の量産という「犠牲の羊」を容認、随伴することとなったのだ。そしてこれは再び正規職の「わが身が第一」の保守化へと結びつき、非正規職をはじめとする不安定労働者層を社会的運動的に放置する結果を露呈し続けた。
 この10年の過程の中で民主労総と産別運動の現実的展開の様相は、「非正規職問題」に対して受動的かつ官僚的な視線や対応においても見られるように、総労働の求心としての役割を果たせず、官僚主義と無気力の温床へと変わることとなった。
 IMF危機は、一方では根本的な解決法や脱出口のない資本(主義)の危機状況に立ち向かう労働者・民衆に体制の対案、社会的運動的展望や地平を要求した。
 97年の大統領選挙と引き続く民主労働党の発足、労働者の力、社会党など左派政治運動の活性化などを契機として労働者政治の新たな転換点が用意されるようだった。また04年の17代総選挙での民主労働党の躍進を契機とした急速な外形的成長や労働者・民衆の期待と熱望にもかかわらず、議会進出に成功した民主労働党は階級大衆の闘争や階級政治の力を土台にして議会内外での反資本、反新自由主義の闘争を能動的に展開すべき課題を与えられ始めた。
 けれどもIMF通貨危機以降、10年の過程が流れた今、そして民主労働党が議会進出してから3年を超える今、労働者・民衆政治の希望的可能性は弱まり、進歩政党運動の限界性は一層、大きくなった。今回の第17代大選の過程の中でも現れているように、民主労働党に対する批判的支持かどうかをめぐってさえ不透明になっている状況がもたらされている。
 民主労働党と社会党のブルジョア現実政治への右傾化傾向の拡大と立脚する場の弱まり、そして一定の期待を持っていた労働者の力などの階級的左派陣営の政治的対応の失敗や変革的階級政党建設などのための政治的再組織化の難しさは、大選後の労働者民衆運動陣営の秩序再編の展望を暗くしている所だ。
 IMFの10年が過ぎた今、資本主義の危機状況は続いており、新自由主義の労働柔軟化を基盤として資本は雇用なき成長と不安定労働を基盤とした粗野で乱暴な社会を再生産している。広範な社会的剰余が発生している社会の中で、労働者民衆は自らが生産した諸財貨を、消費しながら生活を享有することができずにいる。「賃金奴隷」であることさえ社会的に保障されず、暮らしの危機の中で死へと追いやられている悲壮な現実は、これ以上、続けさせてはならない。

社会運動の実践様相の多変化と「認定闘争」の時代

 80年代の変革/戦略/階級制(集団性)中心から90年代初盤以降(運動の)日常/戦術/個人性(個性)などによって運動のキー・ワードあるいは談論体制が変わり始めた。多様な運動のさまざまな課題が運動の内外的に提起され実践される様相は、一方では反ファシズム闘争を中心としていた80年代の時代的限界を新しく乗り越えるための実践として位置づけられる得るという点において肯定的であるとも言える。

分かれ道に立った労働者運動

 87年大闘争以降、90年代初盤まで労働者階級を初めとする基層大衆闘争がわが社会の前面に乗り出し始め、全国的流れ―ナショナルセンターの建設によって急速な運動の成長と組織化につながった。だがこのような「速度戦」の様相は91年の烈士政局闘争の失敗と現実社会主義の没落などと相まって急速に冷却されるとともに、92年の大選や93年の民間政府の発足などを契機に制度化される様相へと結びつき始めた。
 すでに87年以降、社会的に民主主義をめぐる理念的分化が拡大し始めるとともに進歩的な知識人層内部の理念的実践的分化が拡大し始め、90年代初盤、特に民間政府の登場と軌を一にして日常化した生存権闘争や組織力を基盤として「制度的枠」を中心にした運動的対応が普遍化され始めた。政府の労働者・民衆運動陣営と市民運動に対する分割的支配と排除戦略の限界は、94年の全地協闘争、96〜97年のゼネスト闘争に見られるように下から突き上げる階級的大衆闘争と運動の再成長を抑えつけることができなかった。
 一方、90年代初盤を経由しつつ、現実社会主義の没落などとともに変革運動の理念的混乱や政派運動の急速な退潮の中で、大衆運動および闘争を中心として運動の重心が移動した。
 変革的政治運動のイデオロギー的、実践的求心の不在・弱さの中で、大衆運動と相まった労働・社会運動の「専門化」が進展し、部門的団体運動の活性化が続いた。民衆運動の内部的に90年代の中・後盤を経由しつつ、部門運動の活性化とともにテーマ中心の実践運動が活性化し、次第に「社会運動化」の様相へと発展した。ここにおいて「専門化」の場合、階級的大衆運動に対する結合、介入力を高めてくるとともに大衆運動の地平を拡大した側面はあるものの、大衆運動のサイクルに従属した政治運動の活動方式の狭小さを露呈した。
 そして「社会運動」の場合、テーマ中心(貧困、反世界化など)によって労働者民衆運動の実践的根拠や地平を拡大するための「認定闘争」を繰り広げながら、これに伴った運動の内外的な肯定的効果を発揮したりもしたが、階級的大衆運動との能動的な相互浸透がされがたい限界を露呈したりもした。

3 IMF以後の労働者・民衆陣営の実践の主要な様相

 IMF以後の労働者・民衆運動を初めとするいわゆる進歩陣営の実践の様相はどうなのか、一度探ってみよう。
 この20余年間、世の中はわれわれが考えていたよりもはるかに多くの変化をもたらし、大衆の日常的暮らしの様式やパターンにも多くの変化が伴った。90年代初盤以後、すでに巨大な恐竜のように大きくなってしまった資本の社会的権力は大衆の日常的暮らしを規定する不可抗力的、自然的条件として認識されている。また民間政府の登場および地方自治制15年の変化の中で韓国の社会変革運動や進歩運動陣営は、階級と大衆と対面し、呼吸することに次第に手強い状況に直面することとなった。
 IMFの以前と以後の様相の特徴は、労働市場の柔軟化に対する根本的対応の失敗、制度化の進展の中での改良主義化、保守化に大別される。IMFの危機を経つつ、社会的2極化、正規職・非正規職に大別される労働市場の分断化が一層拡大した中で、労働者階級と民衆の暮らしの形態も相当に後退している。
 けれどもこのような2極化の中の暮らしの危機にもかかわらず、2極化拡大の断面の中には87年以後、大衆の暮らしの質は以前の時期よりも絶えず進展した様相を示しもした。20余年の闘争の「結果」として生じた「改良」の基盤が社会的2極化の中でない混じり、階級大衆内部の分化(分割)と間隙(葛藤)が急速に拡大しているということだ。政治運動的にもこのような階級的分化はIMF以前の時期と大きく異なりはしないが、多様な方式によって運動の内外に投影されている。

社民主義と民族主義への歪曲

 IMF以後、最も大きな変化は労働者・民衆の独自的政治勢力化が87年以後10年にして本格的な軌道に上り始めた、という点だ。過去ずっと「民主大連合」を根拠にブルジョア野党との連合に重きをおいていた「民族主義左派勢力(NL)」が民衆の独自的政治勢力化に同意、「ククスン21」に結集し、再び民主労働党の運動に合流することによって民衆政治の新しい転換点が形成され始めたのだ。けれども労働者・民衆の独自的な政治勢力化(いわゆる民独政)の承認をめぐる運動内部の状況の変化は、87年以後10年の歳月の中で、台頭した社民主義的改良化と民族主義的右傾化傾向が密接に触れ合っている。
 96年末のゼネストの過程から表面化した民主労総・国民派執行部の「労働者大統領・クォン・ヨンギル」のスローガンは、97年の大選の過程において民族主義陣営が独自候補を中心とした大選過程に結合し始め、2006年の民主労働党の発足と16代大選および17代総選挙を前後して「民族主義左派勢力(NL)」たちが大挙、引き入れられるとともに、民主労働党の運動の性格はより改良主義化、右傾化する様相へと結びついた。
 議会外の大衆闘争を積極的に擁護しつつ議会内外の政治的闘争を展開していくどころか、06年末の非正規職立法改悪案の通過の過程や07年11月の国会で労災保険法や産安法改悪などに同意する過程などでの反労働者的政治行動があらわになりもした。

改良主義と官僚主義への深化

 IMF以後、総労働の求心としての役割が次第に弱まり始めた民主労総は04年の第4期イ・スホ執行部以降、より官僚化し右傾化した状況へと突き進むこととなった。彼らは支配権力の社会的合意主義攻勢や上層中心の労使政のテーブルに露骨に対応し、これを中心とした実践活動に重きを置き始め、現場や地域、進歩陣営内部の多くの心配や批判的問題提起を、また主要な手続きを無視してまで政権と資本に対する「協調主義」をあらわにした。
 あげくのはてに、このような状況は大々的な物理的衝突の様相にまで至るとともに、自主的民主労組運動、総労働の求心としての民主労総に対する運動的期待はついえ去り始めた。そのうえカン・スギュ首席副委員長の衝動的な不正収賄などが暴露されるとともに、民主労総はすすぐことのできない欠陥と過ちを引き起こして執行部総辞職の状況が作り出されもした。
 ところで、さらに深刻なのは、国民派に代表される改良主義的かつ官僚主義的な集団やその勢力が、総辞職後もなお引き続き上層の指導力を確保している、ということにある。同じ国民派の流れのチョ・ジュノ候補が補欠指導部として選出されるだとか、第4期事務総長を担い、不正によって辞職していたイ・ソッケンが候補として出てくることにとどまらず、第5期委員長として選出される現象が発生したのだ。
 このような過程は、すでに民主労総の代議員を初めとする民主労総の上層全般が、官僚化し改良主義で一貫した集団や勢力によって掌握されており、彼らによって、改革や革新の要求の下で提起されている民主労総の直選制などの要求が無視され続け放置され続けている。

理念・路線の分化と分節化

 一方、90年代中盤以後の10余年、「産別労組建設運動」がさまざまな方式によって民主労総の内部的に推進されてきた。けれども時期的にもIMFの事態と重なって展開された産別組織化の全般的過程は、組織の外形的成長以上の質的な運動の発展を伴うことができず、共に急激に官僚化する様相を踏んできた。
 IMF以後、広範な非正規職が量産されているという状況の中で、労働者の連帯と闘争により明確な共同連帯戦線を形成し、いわゆる「産別精神」に立脚した統一的な闘争を展開することができない状況なのだ。全労協精神を継承した、としている金属労組でさえも大工場・正規職中心に保守化した限界を露呈しており、非正規職労働者たちは依然として「構造弁」の対象とされたまま民主労総や産別労組運動の内部、あるいは外部へと放置されている。
 一方、IMF10年の対応の過程は労働運動の内部的に実践に対する理念的、路線的分化を拡大させている。90年代後半、国民派、中央派、現場派に大別されていた既存の人脈や実践的傾向中心の区分による民主労総内部の流れは、2000年代の初盤を経由するとともに社会的組合主義・国民派(NL)の内部の分裂によって、民主労働党の運動とも相まって中央派傾向の前進としての拡大再編、現場派の労働戦線とセフルム(新しい流れ)への分化などへと続き、いわゆる革社陣営と称される一群の現場左派たちもまた非正規職運動などを中心に、より攻勢的な様相へと自らの活動を展開している。そして社会進歩連帯、利潤より人間を、などのいわゆる各「社会運動左派」は労働運動の懸案に直接介入するやり方よりは「社会的(連帯)の課題」を中心として自らの運動を展開している。
 そしてIMF以後、資本の新自由主義による構造調整やイラク派兵への反対・反戦闘争、最近の反FTA闘争に至るまで立ち向かった労働者連帯闘争、社会的連帯や民衆闘争は続けられている。けれどもこの10余年間、共通の敵に立ち向かった反新自由主義共同闘争の戦線は時期別に樹立され続けているものの、このような過程を通じて労働者・民衆運動内部の資源と力量がたゆみなく拡張されているというよりは、持続的に消耗している様相を示している。

4.社会変革と体制の対案を先導する階級的政治運動を

 社会変革運動の主たる特徴は、一方で支配体制に立ち向かう対抗(抵抗)運動であるとともに、同時に対案運動として自己を位置づけなければならない、という点だ。かつての87年以降、90年代初盤に至る過程での民衆運動と市民運動の分化の中で、われわれが注目しなければならない点は、労働者民衆運動内部の対抗の機構と対案の機能(労働者・民衆政治)の相互分節、そして断絶されてきたという点だ。
 われわれが90年代初めに民衆運動と市民運動の分化において注目しなければならないのは理念的な側面ばかりではなく、このような実践的運動基盤の変化などに対する問題点を振り返って見なければならない。労働者・民衆運動内部の社会的対案―代替的機能が啓発されることなくしては決して社会変革を推し進めることはできない。
 歴史的に存在したコミューン、ソビエト、評議会は一方では革命的時期に自らの蜂起の機関であるとともに代替権力として機能したし、労働者・民衆の自治のシンボルだった。わが社会においてもこのような経験は甲午農民戦争の時期の執綱所(農民の手による自治機関、一種の二重権力)や解放政局や韓国(朝鮮)戦争の時期の「人民委員会」などとして試みられた経過がある。
 このような運動の諸様式は大部分は革命的時期に出現したのであり、日常的時期には活性化できなかった限界がある。
 だがわれわれが歴史的に注目すべき点は、この組織形式の現存の有無ではなく、社会的変革を推し進めていくことのできる勢力的、運動的基盤を運動の過程の中で持続的に維持、蓄積し拡張できるのか、だ。
 また歴史的にこのような階級大衆の先進的運動は労働者・民衆の前衛としての「革命政党」と相まって歴史的に実現されてきたという点もまた重要だ。もちろん過ぐる20世紀、歴史的に党運動はその運動過程において多くの限界と過去とを侵しもしたが、社会変革を試図した政治的けん引車であることには間違いない。
 労働運動、民衆運動、社会運動と結合している先進的活動家たちは今こそ、もはや自らに与えられた運動条件に安住したり、社会変革の新たな課題を回避してはならない。変革的階級政党を建設するために、そしてこれと相まった社会変革的労働運動と階級的社会運動の推進のために、互いが互いを刺激し励ましつつコミューン、解放の共同体を目指して踏み出さなければならない。(「労働者の力」第138号、07年12月18日付、チョン・ヘグォン/機関誌編集委員長)


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