| 民主党の安保・外交政策批判 かけはし2008.1.14号 |
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「国連中心主義」で9条改憲と海外での武力行使を正当化 |
はじめに
民主党の外交
安保政策を問う
昨年七月の参院選で民主党は圧勝し、参議院での与野党逆転状態をつくりだした。参院第一党となった民主党の小沢一郎代表は、テロ特措法の延長に反対する立場を繰り返し表明し、継続の措置が取られないままにテロ特措法は期限切れを迎え、自衛隊はインド洋から撤退を余儀なくされた。このことは、自衛隊の海外派兵と九条改憲を阻止しようという運動にとってきわめて大きな成果であった。
ところが、十月三十日、十一月二日の二回にわたって行われた福田康夫首相(自民党総裁)と民主党の小沢一郎代表との党首会談で、両党による「大連立」構想が急浮上するとともに、自衛隊の海外派兵を随時可能にするための「恒久法」を検討することで合意が成立してしまったのである。この背景には、グローバルに展開した日本企業の海外での権益を保障していくための体制を構築しなければならない、という支配層の意志からの圧力がはたらいたものと思われる。海外派兵を恒常化し改憲を実現するためには、二大政党の一方である民主党の協力が欠かせないのである。民主党内の反発で「大連立」構想が頓挫したため「恒久法」の構想は現時点では後景に退いてはいるが、支配層が海外派兵体制の構築をあきらめない以上、今後、繰り返し浮上してくる可能性が高い。
参議院での与野党の勢力が逆転し、参院第一党の民主党が新テロ特措法について反対の姿勢を示してきたこと自体は、自衛隊の海外派兵と改憲を阻止する運動にとっては大きな可能性を開いたといえる。海外派兵と改憲を阻止する運動にとって、自民党と民主党の対立関係は最大限に利用しなければならない。しかし、同時に、海外派兵と改憲という大きな方向では自民党と民主党は一致しているのであり、民主党の存在に依存して運動をすすめるわけにもいかないのである。海外派兵と改憲を阻止する運動を進めていく上で、民主党の外交・安全保障政策を問うことは、避けては通れない課題である。
海外派兵・改憲
問題を問う角度
そもそも憲法や法律は、諸階級・諸階層の意志が総合されて幻想上の「共同」意志として、すなわち国家の意志として表現され、文章として固定化されたものである。憲法や法律には、全体としてみれば支配階級の特殊利害が貫徹されている。しかし、そこには社会全体の共同利害からの反映もあるし、階級闘争における力関係に応じて被支配階級の要求の部分的な反映もある。憲法や法律は形式上、諸階級の上に立つ「第三権力」(エンゲルス)の意志として表現されるものであり、被支配階級のみならず支配階級をも拘束する。
憲法は抽象的なレベルで理念を表現し物事を規定しているから、現実に物事を決め実践していくためには、その時々の状況に応じて、法律へ政策へと具体化していかなければならない。この具体化の過程で支配層の特殊利害が露骨な形で現れてくることになり、ここにもまた被支配階級との間で闘争が生じる。また、憲法や法律は文章として固定されてしまっているから、状況の変化に応じて、支配階級の利害と憲法や法律に表現されている内容との食い違いが大きくなり、敵対的なものにすら変わってしまうこともある。こうなると、支配階級の側から法律や憲法そのものの改定を持ち出してくるし、かえって被支配階級の方が法律や憲法の擁護にまわるということにもなるのである。現在の日本国憲法第九条の改定をめぐる問題は、まさにその典型的な例といえる。日本の支配層は、現憲法の枠内で憲法を最大限都合よく解釈することによって海外派兵の具体化のための立法をはかるとともに、最終的には「国際平和への積極的な貢献」を旗印にした明文改憲によって海外派兵の最大の障害を取り除くことをめざしている。
こうした支配層の動きの中で、民主党の安保・外交政策はどのような位置を占めるものなのであろうか? 日米同盟重視の自民党に対して国連重視の民主党という対比がしばしばなされるが、民主党は国連憲章や日本国憲法との関連で海外派兵をどのような論理で実現しようとしているのだろうか? また、民主党はどのような明文改憲を狙っているのだろうか? 本稿では、岩波書店の月刊誌「世界」昨年十一月号に掲載されて話題を呼んだ小沢代表の文章を中心的な素材として、これらの点について検討しておきたい。
憲法と国連憲章の関係
小沢のこの文章は、決して民主党の方針とは無関係に小沢個人の意見を述べたものではなく、小沢自身が述べているように、民主党内での政策議論を踏まえたものである。民主党は、二〇〇六年十二月に「政権政策の基本方針(政策マグナカルタ)」を発表したが、「世界」に掲載された小沢の文章は、基本的にこの内容に沿いつつ、それをやや詳しく展開したものとなっているのである。
憲法の理念と
国連憲章の理念
小沢は「日本国憲法の理念の通り、それはとりもなおさず国連憲章の理念の通り、世界の平和は国際社会みんなで力を合わせて守っていく以外に、論理的にも現実的にも他に方法がありません」として、「日本国憲法は、世界の平和を希求し、国際社会で名誉ある地位を占めたいと、平和原則を高らかに謳っています。そのためには、国連を中心とした平和活動に積極的に参加しなければなりません。それが憲法の理念に適うものだ、と私は考えています」と述べている。日本国憲法の理念からして、国連の平和活動に積極的に参加することは当然だという主張である。
しかし、はたして小沢の言うように、日本国憲法の理念と国連憲章の理念とは同じものなのだろうか? 憲法の理念と国連憲章の理念の間には、なんらの食い違いも存在しないのだろうか? まずこの点を確かめておかなければならない。
国連憲章と日本国憲法は、いずれも第二次世界大戦の惨禍をふまえ、一九二八年の不戦条約以来の戦争違法化の流れを受け継いで制定されたものであり、武力行使の禁止という基本的な理念を共有してはいる。しかし、そこには無視できない違いがある。国連憲章は武力行使を原則として禁止しつつも例外的に認める規定を設けているのである。具体的には、第一に、侵略などを犯した国に対して国連として集団的な軍事制裁をする場合(国連憲章第四十二条)であり、第二に、国連が対処するまでの間に個別的または集団的自衛権を行使する場合(国連憲章第五十一条)である。一方、日本国憲法にはこのような武力行使を認める規定は存在しない。それどころか、第九条二項の戦力の不保持という、国連憲章にも他国の憲法にも例を見ない極めて特異な規定を持っているのである。つまり、日本国憲法は戦争放棄の原則を国連憲章以上に徹底させているといえるわけである。これは決して見過ごすことのできない重大な相違点である。
これまで、国連憲章の武力行使についての例外規定と日本国憲法第九条の規定とは、一般的に食い違うものと解されてきた。だからこそ、日本政府は、一九五二年に国連への加盟を申請した際に、「日本の自由に処置できるすべての手段をもって、その義務を遵守する」との宣言文を提出し、日本は軍事的協力・軍事的参加を必要とするような国連憲章の義務は負担しないことを明らかにしたのであった。このような経過をなかったことにしてしまうわけにはいかない。ところが、小沢は、このような問題には触れず、国連憲章も日本国憲法もごく大雑把に「世界の平和は国際社会みんなで力を合わせて守っていく」という抽象的なレベルにおいてのみ捉え、両者を簡単に同一視してしまっているのである。極めて乱暴なやり方というほかない。
国連軍事行動と
「国権の発動」
さて、小沢は日本国憲法と国連憲章の理念を完全に同一視した上で、日本が国連の平和活動に参加して武力の行使にいたっても憲法に抵触しないと主張する。小沢は次のように述べている。「個々の国家が行使する自衛権と、国際社会全体で平和、治安を守るための国連の活動とは、全く異質のものであり、次元が異なるのです。国連の平和活動は国家の主権である自衛権を超えたものです。したがって、国連の平和活動は、たとえそれが武力の行使を含むものであっても、日本国憲法に抵触しない、というのが私の憲法解釈です」「国連の決議でオーソライズされた国連の平和活動に日本が参加することは、ISAFであれ何であれ、何ら憲法に抵触しない」。国連の活動と国家の主権である自衛権がまったく異質であり次元が異なるというのは、国連の軍事行動に自衛隊が参加する場合、自衛隊は国連の指揮下に入ることにより日本の主権から解放されて国権の及ばない組織となるから、たとえ武力行使に至ることがあっても、それは憲法が禁じた「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」にはあたらない、という理屈であろう。
小沢の主張は、形式的には非常に明快であり、筋が通っているように思える。しかし、本当に、日本の自衛隊が日本の国権が及ばない組織になるということがありえるのだろうか? そもそも国連と主権国家とはいかなる関係にあるのだろうか?
このことを確かめるために、国連憲章を検討してみよう。国連憲章の第二条第一項は「この機構は、そのすべての加盟国の主権平等の原則に基礎をおいている」とし、同第七項は「この憲章のいかなる規定も、本質上いずれかの国の国内管轄権内にある事項に干渉する権限を国際連合に与えるものではない」としている。つまり、現在の国連は、決して、全世界を管理する「世界政府」や「世界連邦」のごとき存在ではなく、独立した主権国家どうしの寄り合い所帯にすぎないのである。いずれの加盟国も、独立国家としての主権の一部を譲り渡してはおらず、連邦国家の州政府にとっての連邦政府やヨーロッパ諸国にとってのEUとは根本的に性格が異なる。したがって、国連が軍事行動を行うといっても、それは加盟国の主権の一部を譲り受けて独立の法主体として国際警察権を発動するというようなものではありえない。現在の世界においては、主権国家の軍事行動は、たとえ国連の旗の下で行われたとしても、その国の主権や憲法を離れることはありえないのである。実際、国連の平和維持軍や停戦監視団は、各国があくまでも各自の指揮下で派遣しているものである。
民主党のねらう明文改憲
民主党「憲法
提言」の中身
小沢は、国連の平和活動へ参加している場合ならば自衛隊が武力行使をしても憲法には抵触しないと強弁したうえで、「日本国憲法の理念と第9条の考え方は、変える必要がない、むしろ忠実に実現すべきだと思っています」と述べている。しかし、だからといって、民主党が九条の明文改憲はしないという立場なのかといえば、決してそうではないのである。
民主党憲法調査会が二〇〇五年一〇月に発表した「憲法提言」は、「国連憲章上の『制約された自衛権』を明確にする」としている。「制約された自衛権」とは、国連憲章第五十一条に記された「自衛権」のことであり、「国連の集団安全保障活動が作動するまでの間の、緊急避難的な活動に限定されているものである」としている。その上で、「国連の集団安全保障活動を明確に位置づける」として、「国連多国籍軍の活動や国連平和維持活動(PKO)への参加を可能にする」としているのである。民主党もまた自民党と同じく明文改憲によって海外での武力行使を可能にすることをめざしているといって間違いない。自民党が日米軍事同盟のもとで自衛隊の海外展開を図る路線であるのにたいして、民主党はあくまでも国連を前面に立ててそれを実現しようとしている点に独自性があるに過ぎないのである。
民主党改憲論が
担う役割とは
現在の改憲論高揚の直接の起点となったのは、一九九九年の周辺事態法の成立である。このとき、それまで明文改憲を避けて進行してきた日米軍事同盟下での日本の海外派兵国家化が、集団的自衛権の行使を否定した憲法九条を改定しなければこれ以上前へは進めないという壁にぶつかったのである。そのことを踏まえるならば、集団的自衛権ならぬ集団的安全保障によって海外での武力行使を正当化しようという民主党の路線は、現在の九条改憲論の本流とは少し外れたところにある。にもかかわらず、この路線はそれなりの存在意義を持っており、決して無視することはできないものである。
この路線が意味を持つのは、この間のブッシュ政権によるイラク戦争の強行などを通じて、アメリカの露骨な単独行動主義に対する批判が、資本のグローバル化と軍事のグローバル化を進める勢力――先進国を中心とした多国籍資本とその強い影響を受ける各国政府――の間においても高まってきているからである。国連決議を錦の御旗に掲げたほうが、海外での武力行使に対して世論の支持を得やすいという打算もあるであろう。これらの点からして、日本の支配層にとって、「日米同盟路線」一本槍で行くよりも、「国連中心主義」の旗もあわせて持っておいたほうが、改憲論の幅が広がり、より柔軟な形で状況の変化に対応しつつ、改憲をすすめていくことができる、といった事情があるものと思われる。
平和で公正な世界をつくる力
国連の活動なら
平和を作れるか
民主党は、テロ特措法に対しても、米英のイラク攻撃やイラクへの自衛隊派兵に対しても、それが国連決議の承認を得ていないという一点に依拠して反対論を展開してきた。「世界」での小沢の文章でも、同じように、問題はまったく形式的にしかとらえられていない。つまり、どのような形であれ「国連決議」によって「オーソライズ」された戦争であるならば、自衛隊の海外派兵は憲法には抵触しない、というわけである。
しかし、現在の国連は、アメリカをはじめとする北側大国の特殊な利害を幻想上の「共同」意志として成立させる機関としての要素を色濃くもっている。もちろん、北側大国の特殊利害が「共同」意志として成立する過程における闘争如何によっては、途上国政府の意志や世界の労働者・人民の意志も一定の範囲において反映するし、「共同」意志が一度規範として成立すれば、それは逆に北側大国をも拘束する。そうであるからこそ、アメリカはいざというときには自国の利害を貫徹するために国連を無視することも辞さないのである。しかし、だからといって、現在の国連が、全体として見れば、北側大国の利害を貫徹するための機関であることに変わりはない。アメリカの単独行動は悪いが国連の平和活動ならよいなどという単純な二分法は、現実には通用しない。
実際、小沢が参加を主張するアフガニスタンでのISAFの活動ひとつをとってもみても、それは、アメリカの自衛権の発動として国連をも無視して開始された「報復戦争」によるタリバン政権の打倒とカルザイ傀儡政権の樹立を追認したものにすぎず、アフガニスタンにおける貧困や飢餓、住民の離散と難民化、テロなどをもたらしているのである。「国連決議」の有無という形式によって、よい戦争と悪い戦争が区別されるなど、およそアフガニスタンの住民の生活にとっては無縁の議論である。「政治とは生活である」と主張する小沢であれば、国連の平和活動について、単に形式の面からではなく、その内容を、それが展開している住民の生活の視点から考えてみるべきであろう。
反戦・反グロー
バリズムこそ
小沢は「世界」掲載の文章の末尾に、「紛争やテロの根本にあるのは貧困という人類の根本問題だ」と語り、「どんなに困難であっても、どんなに時間がかかろうとも、貧困を克服し、生活を安定させることこそが、テロとの闘いの最も有効な方法であると、私は確信しています。銃剣をもって人を治めることはできません。それが歴史の教訓であり、幾多の戦争の末にたどり着いた人類の知恵なのです」と結んでいる。われわれは、この言葉に賛同する。しかし、この言葉と国連の平和活動への参加の主張との間には、絶対に埋めることのできない断絶があることを厳しく指摘しなければならない。
小沢は、「米国は自分自身の孤立主義と過度の自負心が常に、国連はじめ国際社会の調和を乱していることに気が付いていません」という。しかし、現在の世界情勢を規定する基本的な対立軸は、アメリカの「単独行動主義」と、とりわけヨーロッパの支配層が掲げるような「国連中心主義」との間にあるのではない。アメリカの「単独行動主義」と「国連中心主義」との間に存在する違いは、資本のグローバル化と軍事のグローバル化をすすめるという戦略を共有した上での、その具体的なすすめ方のレベルにおける相違にすぎない。そして、資本のグローバル化と軍事のグローバル化という戦略こそが、世界中に貧困を生み出し、生活を不安定化させ、テロの根源となっているのである。世界情勢を規定する基本的な対立軸は、資本のグローバル化と軍事のグローバル化を進める勢力――先進国を中心とした多国籍資本とその強い影響を受ける各国政府――と、反戦・反グローバリズム運動に象徴されるような、公正で民主的な「もうひとつの世界」をめざす労働者・人民の国境を超えた闘いとの間にこそある。貧困もテロもない平和で公正な世界への希望は、この運動のなかにこそ存在しているのである。 (堀川峻弘)
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