『紙碑 中村丈夫 │ 共産党から新左翼への70年』刊行に寄せて
かけはし2008.11.10号 |
昨年四月、戦前・戦中から自覚的な共産主義者として闘ってきた中村丈夫さんが亡くなった。今年七月には中村さんの闘いの生涯を偲んで『紙碑
中村丈夫』が刊行された。中村丈夫さんと親交があり、同書にも一文を寄せた酒井与七同志が書いた、中村さんの業績をふり返る文章を掲載する。(編集部)
独立したマルクス主義思考
一九三〇年代後半から二〇〇〇年代にいたるまで共産主義者としての気概を堅持された中村丈夫さんを追悼する『紙碑 中村丈夫』が、今年七月、追悼集刊行会によって彩流社から出版されている。
中村丈夫さんは一九一九年に生れ、二〇〇七年四月に逝去されているが(享年87歳)、その思考と活動は旧制高校の時期(1936〜40年)から一九九七年に病いをえて倒れるまで約六十年間にわたっている。中村さんは、大学入学(1940年)前後から晩年にいたるまで独立思考のマルクス主義者で、自己の思想に忠実な行為の人であり、一九六六―六七年頃から国際スターリニズムのイデオロギー的枠組みから左翼共産主義者として抜け出し、既存の「社会主義」国家群を「前期社会主義」として批判し、新しい労働者革命による「前期社会主義」の克服をふくむ、プロレタリア社会主義世界革命を主張する独自の立場を一九七〇年代前半においてほぼまとめられている。
昨年七月に催された中村さんを偲ぶ会のうえで、弟さんの中村長哉さんと中村丈夫さんのもとで活動された方々による追悼集刊行会によって、『紙碑
中村丈夫』という一風かわったタイトルの書籍がまとめられたのである。「紙碑」としての本書は、(1)中村さんの生涯とその活動についての四人の方による詳述、(2)中村さんの関係者や友人・知人による同氏の業績について発言や人となりについての追想、そして
(3)経済学の領域と共産主義運動の諸分野にわたる多方面の理論的業績の紹介の三部構成になっていて、「共産党から新左翼への70年」という副題にみられるように中村さんの生涯の活動・業績とその人柄を偲べるようになっている。
なお『紙碑 中村丈夫』を読むとき、中村さん自身が執筆されている「日本共産主義運動の特質」という論文(1975年)と「私の「封建論争」(1983年)ならびに「私のなかの伊藤律」(1991年)という二つの文章とあわせて読むことによって、中村丈夫さんについての理解をいっそう深めることができるだろう。これらの論文と文章は、『紙碑
中村丈夫』とともにフェニックス社(東京都千代田区富士見 2―2―2、東京三和ビル3F、Fax: 03-3264-2735)から入手できる。
その足跡と時期区分
以下、本書その他にもとづいて、中村丈夫さんの共産主義者としての足跡をたどってみる。
中村さんの病に倒れるまでの約六十年間にわたる思考と活動の経過は国際スターリニズムのイデオロギーの枠内における共産主義者としての前半三十年とそれから抜け出した独自の左翼共産主義者としての後半三十年に大きくわかれるが、前半三十年をさらに三つの時期に区分し、以下の四つの時期に分けることができるだろう。
《1936〜45年〔16〜25歳〕 ― マルクス主義の受容と左翼共産主義者の原初的形成の時期》
一九三六年に旧制高校の東京府立高等学校高等科に進み、伯父小牧近江などの影響もあり「労農派」マルクス主義を受けいれ、在学中に「講座派」に転じる。一九四〇年に東大経済学部に入学し、「早速、合非のグループ活動に参加し」、「延べ三ケタのメンバーを小人数ずつの読書会に組織していた」「日本共産党再建準備委員会東大グループ」の活動に関与し、同年九月に逮捕され、十二月に起訴猶予(「私の『封建論争』」)。
一九四一年十二月に太平洋戦争が始まり、一九四二年九月「繰上げ卒業」で海軍主計将校になり、一九四五年八月の終戦を福岡でむかえ、ただちに軍隊を離脱した(同上)。戦時中、中村さんは戦況を細かく追跡する日記をつけていたが、これは中村丈夫記『或る戦時日誌』として刊行されている(鹿砦社、1977年)。
《1945〜58年〔25〜38歳〕:共産党機構カードルとしての活動期》
一九四五年十一月、戦争直後の再建共産党に入党し、伊藤律のもとにあった党中央農民部の部員として活動がはじまり、翌年、栃木・茨城などで供出米をめぐる農民闘争に参画。一九四八年、東京都委員会オルグとして三多摩地区金属機械部門の労働運動を担当。一九四九年、北海道地方委員会常任委員。一九五〇年十一月に非合法活動にはいり、党分裂・非合法時代をつうじて徳田球一・伊藤律系「所感派」党機構カードルとして活動を継続。一九五五年七月、党第六回全国協議会(六全協)により合法活動に復帰するが、五八年九月の第七回大会を機に十三年間の党機構カードルの位置から離れ、共産党居住細胞所属になる。
一九四五年八月十五日時点の年齢についてみると、中村丈夫さんは二十五歳で、伊藤律三十二歳、宮本顕治三十六歳、志賀義雄四十四歳、徳田球一五十歳、野坂参三五十三歳だった。
中村さんは一九四七―四八年頃から個人的に`社会主義革命aの立場に転じ、一九五一年のモスクワによる日本共産党批判 ― 「コミンフォルム批判」
― を`社会主義革命の観点aから批判的にとらえ、一九五一年以降の党主流志田派体制とその「軍事方針」について批判的であった。
一九五五年の六全協はそれまでの党主流志田派と国際派の宮本グループによる官僚的妥協の産物で、この後、中村さんは社会主義革命路線の立場から新主流派になる宮本派に対抗してゆくが、社会主義革命の立場からの批判と対立は六全協前の志田派からその後の宮本派に対して継続されていった。
戦争直後期の共産党について、中村さんは、「無茶苦茶ではあったが戦闘的であり、革命的ですらあった頃の日共」ととらえ、「再建共産党指導部の歴史的無能」を指摘し、次のように述べている。「四〇年代後半―五〇年代前半の日共指導部は、戦前に自製の綱領をもてず、しかも弾圧、壊滅、再建の短期循環により人的な統一性、連続性も保障されなかった歴史を総括できないまま、敗戦後の占領、冷戦、熱戦の激動に対応できないレーム・ダック状況に苛まれていたのでしょう。事実、徳球さんの天成のリアリズムのほかは、人民戦線期にまで娑婆で活動していた大衆的カードルが……自然成長的運動に介入ないし便乗していたのです。その徳球さんも、抜擢された〔伊藤〕律さんなど新側近も、集合体帰属、家父長主義などの日本的組織伝統にどっぷり潰っていたのは、まさに悲劇的だと思います」(「私のなかの伊藤律」1991年)。
《1958〜66年〔38〜47歳〕:共産党機構から離れ、六全協後の宮本派党官僚機構に反対する「社会主義革命」派としての活動期》
一九五八年に党中央機構カードルを辞した中村さんは、六全協のうえで宮本派として再編される党官僚機構に反対する「反独占社会主義革命」派の運動に参加する。一九六〇年前後からグラムシの研究・翻訳・紹介に積極的に取り組み、一九六一年、第八回党大会に際して党籍更新を拒否して除名され、広義「反独占社会主義革命」・「構造改革」派による「社会主義革新運動」の結成に加わった。
一九六〇年代中頃になると青年労働者と学生運動の新たな急進化・戦闘化の傾向が端緒的に明らかになり、他方、共産党からソ連派として離脱した「日本の声」グループと統合しようとする動向が社会主義革新運動内においてあらわれ、中村さんはこの動きに反対し、東京における統合反対派を主導し、一九六七年には「新左翼」政治組織として「社会主義労働者同盟(社労同)」を結成した。
これをもって、国際スターリニズムのイデオロギー的枠組みのもとにおける中村丈夫さんの三十年にわたる前半期の活動が終わるが、一九五八〜六六年〔38〜47歳〕の時期は一九四五〜五八年〔25〜38歳〕の共産党機構カードルの時期から一九六七〜九七年〔47〜77歳〕におけるスターリニズムから脱出し左翼共産主義者として転進する時期への過渡期といえるだろう。
《1967〜97年〔47〜77歳〕:国際スターリニズムの枠組みからの脱出と左翼共産主義者としての転進》
一九六七年に社会主義革新運動内の中村さんを中心とする東京のグループによって結成された社会主義労働者同盟は、労働者を主とする政治組織だった。中村さんは社労同の中心として活動するが、この組織は一九七〇年に分裂する。また中村さんは、一九七〇年前後から大学の教職につかれ、一九七一年以降、所属する政治グループへの直接的な組織的関与は相対的に小さくなり、中村さん自身の独自的な理論活動・研究活動の比重が大きくなった。そして、一九七〇年前後から一九九〇年代にかけた中村さんの思考活動は百科全書的だった。
一九七〇年代から一九九〇年代の中村さんは、少数派労働運動、沖縄自決連帯、四・二七叛軍兵士裁判、ポーランド連帯などの大衆運動に積極的に関与し、またマルクス主義軍事論、クラウゼビッツ軍事論、初期第三インターナショナルと「評議会共産主義」、コンドラチェフ長期経済波動論を中心とする経済学などの分野で多彩な理論活動を展開された。
スターリニズムからの脱出
この時期の中村丈夫さんについて特筆しなければならないのは、一九六六〜六七年頃から国際スターリニズムのイデオロギー的枠組みから左翼共産主義者として抜け出し、`新左翼aと自己規定し、既存の「社会主義」国家群をそのものとして脱出不能な袋小路におちいった「前期社会主義」として批判し、一九七〇年代前半において、「評議会共産主義」構想を基軸にして、新しい労働者革命による「前期社会主義」の克服をふくむ、プロレタリア社会主義世界革命を主張する独自の政治的立場をまとめられていったことである。
中村さんが自己の新しい立場を`新左翼aと規定したとき、それは「新しいがゆえに革命的な、革命的なるがゆえに新しい左翼を」ということをいいあらわすものとされ、また「新しいけれども、改良主義」に陥ってしまった構造改革派と「革命的たらんとするけれども、今日の資本主義の構造に対応しえない」戦闘諸派(ブント、中核派など)への批判を含意していたそうである(『紙碑
中村丈夫』65頁)。しかし、中村さんによる`新左翼aという自己規定は、ほぼ三十年間にわたる自らの思考と行為のイデオロギー的枠組みであった国際スターリニズムから脱出し、左翼共産主義の新たな革命的立脚点を指向しようとする立場として理解されるべきものだろう。
一九三〇年代以来の国際スターリニズムのイデオロギー的枠組みから左翼の立場において抜け出ることは、ロシア十月革命を起点とする最初の「社会主義」国家ソ連邦と第二次世界戦争後の既存「社会主義」国家群に対するマルクス主義的共産主義の立場からする批判なしにはありえなかった。
中村さんは、一九六九年、既存の「社会主義」国家群を「前期社会主義」として批判的にとらえる立場を明らかにした。このことについて、『紙碑
中村丈夫』では次のように説明されている ― 「『前期社会主義』という概念は、すべての既成社会主義国に対する中村さんの規定で、……[それは]『袋小路の社会主義』であり、先の発展はまったくなく、二様の突き破りしかありえないものとされた。つまり、資本主義への突破的転進か、「第二次社会主義革命」による突破的転轍かである」と(同上書、189〜90頁)。こうして、堕落し畸形化した過渡期労働者諸国家について、それらの国家が個別のブルジョア的民族主義の論理に完全におちいっていて、「第二次社会主義革命」
― 第四インターナショナル・トロツキズムの見地からすると、これは反官僚`政治革命aということになる ― かブルジョア的後退・解体のどちらかしかないという結論がみちびきだされ、また「前期社会主義」を克服して刷新の軌道にのせることを課題とする「第二次社会主義革命」は帝国主義と資本主義に対する社会主義革命のための国際的闘争の一環として展望されるのである。ただし、「前期社会主義」諸国家と帝国主義・資本主義が対立する場面に関しては、中村さんはその対立について「敗北主義」の態度―「前期社会主義」諸国家にとりわけコミットすることを否定する立場―を明らかにしており(「前期社会主義論序説」1979年執筆)、それはいわば「反帝反スタ」的であり、この点は第四インターナショナル・トロツキズムの方法と明白に異なっていた。
新しい労働者革命による「前期社会主義」の克服をふくむ、プロレタリア社会主義世界革命を主張する独自の政治的立場は、「評議会共産主義」構想を基軸にして組み立てられていた。一九七六年に中村さんがまとめられた評議会共産主義の構想は、(1)
労働者階級の自治的な権力組織としての労働者評議会(労働者ソビエト)によるプロレタリア独裁の実現といっさいの官僚的代行主義の排除、(2)
民族主義的「一国社会主義」の拒否とさまざまな国々の労働者評議会権力による民主主義的「国際共同体」の形成を展望する相互の提携協力、(3)
かくして「過渡的半国家」としての労働者評議会権力による「国家の死滅」を展望するプロセスの現在的実現などを内容としていたといえるだろう(『紙碑
中村丈夫』190〜2頁)。
評議会共産主義の理論
このような「評議会共産主義」構想の体系化は、一九六七―六八年頃に始まった中村さんの「人民戦線」路線批判とプロレタリア革命の立場の鮮明化を最後的に確定するものだったといえるようである。中村さんは一九七五年執筆の「日本共産主義運動の特質」という論文で「コミンテルンはディミトロフ・トリアッティの主導で脱社会主義的人民戦線戦術に転換、スターリンもソ連防衛の有効性をみてそれを承認する(1935年第7回大会)」と述べていて、また中村さんの「私の『封建論争』」(1983年)では「人民戦線は脱プロ革命次元での民主主義への拝脆でしかなかった」と指摘されている。
評議会共産主義の理論をまとめる重要なステップとなったのが、中村さんが『第三インターとヨーロッパ革命』(マルクス主義革命論争史第三巻、紀伊国屋書店)の解説論文として執筆された「レーニンと第三インターナショナル」(1975年)だった。この論文で、コミンテルン初期の立場が正当に評価され、コミンテルン第三回大会の統一戦線戦術を労働者統一戦線→労働者評議会(ソビエト)革命の立場としてとらえ、こうしてプロレタリア革命を主張する立場が明白に一貫していたのである。
ところで、「人民戦線は脱プロ革命次元での民主主義への拝脆でしかなかった」と主張するような旧世代の「反独占社会主義革命・構造改革」派は、中村さん以外にいただろうか?
この点について、トロツキー研究所の湯川順夫さんは社会主義理論学会スピーチ(2007年12月)で次のように述べている― 「石堂氏は、……
コミンテルン第三回大会の立場を否定し、一九三六年以降の人民戦線路線のよりいっそうの推進という立場に立っている。…… 古い世代のグラムシ研究者は、私の知るかぎりでは、中村丈夫氏を除いて、ほぼ全員がコミンテルン第三回大会の立場ではなくて人民戦線派である」。
こうして、一九五〇年代末近くから一九六〇年代前半にかけて広義「反独占社会主義革命・構造改革」派のあいだにあったが、「人民戦線」路線から左翼的に抜け出し、プロレタリア革命の立場を貫徹するにいたった元共産党員として、中村丈夫さんはまさに稀有の人だったのであり、そして中村さんが左翼共産主義者として脱出したのは国際スターリニズムのイデオロギー的枠組みそのものだったのである。
こうして、中村丈夫さんは日本共産主義運動におけるわれわれの先人であり、そのような人としてわれわれの運動において記憶されねばならないのである。
「ジャコビニズムの思想構造」
最後に、中村さんの「日本共産主義運動の特質」(1975年)の「ジャコビニズムの思想構造」という節から以下の文章を引用して、この『紙碑
中村丈夫』紹介の結びとしよう。
「周知のように、日本のプロレタリア革命運動は、最初から労働運動と社会主義との不結合を特徴としていた。明治社会主義の二大巨星、幸徳秋水と片山潜の場合、前者の民権左派→社会民主主義(第ニインター左派)→直接行動主義は、その革命性において、後者の職能別組合主義→社会民主主義(第ニインター中央派)→議会万能主義を圧倒していた。幸徳の反国家思想は、明治一〇年代の自由民権運動が群馬・秩父・飯田事件などのジャコバン的困民民権蜂起を見殺しに帝国憲法体制下に国権論に吸収統合されたのを超えて、民権左派の革命的民主主義を反戦→反帝を媒介に発展させたものであった。民権左派イデオロギーの頂点とされる植木枝盛の革命権・抵抗権論(『政府威力ヲ以テ擅恣暴逆ヲ逞フスルトキハ日本人民ハ兵器ヲ以テ之ニ抗スルコトヲ得』)はなお「国権輦固ならざればすなわち民権もまた安きこと能わざるなり」という情勢認識に制約され、『無上政法』(国際公法)・『万国共議政府』(世界連邦)のもとで『国家の解廃を速かならしむる』夢想にとどまらざるをえなかったが、幸徳はマルクス主義に触発されて、労働運動との結合の機会を得なかったとしても、いわば絶対自由主義・絶対平和主義を鋭い社会変革の思想に仕上げることができた。その反天皇制―反立憲制の視座は、労働組合期成会から東京市電ストにいたるまで明治期労働運動に密着していた片山がついに改良主義・合法主義を脱することができず、第一次大戦にいたるまでは天皇制のもとでの議会をつうじての社会主義実現をめざす(『我が帝国憲法は議会政策の実行に向っては完全無欠である』)立場にあったのと対照的である。在米の片山がレーニン主義者となるのはロシア革命後、一九一九年といわれる」。
「プロレタリア革命思想が労働運動の大衆的基盤との接点を欠いたこの不幸なくいちがいを、後年、片山は『インテレクチュアリズム』(インテリ的偏向の意)と批判し、幸徳が『無政府共産主義』に偏したことから、『社会革命の理解の点では片山が数等上である』との評価がこんにちでも支配的なようだ。だが、レーニン主義は、政治的には、『二〇世紀のジャコビニズム』の労働者権力の形成を軸とする貫徹を原点としていることを考えれば、そのような次元での継承は非歴史主義的であろう」。
「むしろ、このくいちがいは、第一次大戦を契機とする労働運動の本格的高揚のなかでもくりかえされたことが重視されなくてはならない。労働組合期成会の再版である友愛会以降の運動の自然成長的発展に革命的階級意識を外注したのは、まさに幸徳系である。さらに言えば、そのうち運動により密着したのは、ロシア革命をプロレタリアート独裁とうけとめ、大衆的政治行動をめざして『ボルシェヴィズム』を知的に主導した山川均よりも、独特なアナルコサンジカリズムに依って労働者階級内部での『革命の日常化』につとめた大杉栄であった。『アナ・ボル論争』は、日本的=年功序列的労資関係・企業組合への生産関係の独占資本主義的再編成につれて『ボル』の勝利(労働組合同盟にたいする総同盟の勝利)に帰してゆくが、その『ボル』たる総同盟内部では改良主義的右派が優越した。総同盟第一次分裂以降、左派―評議会―全協の革命性は、共同印刷、日本楽器など大工場ストを指導しえた初期を別として、少数精鋭、直接行動などサンジカリズム的ラジカリズムにつらぬかれたことを思うと、勝利したのはじつは本質的には『アナ』であったかもしれない」。(青年共産主義者委員会教宣パンフ2『日本の共産主義運動―その歴史的特質』より)
(2008年10月6日)
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