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ブッシュによる戦争の危険な拡大           かけはし2008.10.27号

パキスタン国内での米国
の越境軍事作戦を正当化

タリク・アリ



 九月二十五日、アフガニスタン東部とパキスタン北西部国境付近で米軍ヘリに対してパキスタン軍が警告射撃を行った。米国は、パキスタン北西部の「部族地域」を「テロリストの基地」と見なして越境攻撃を行うとしている。「テロとの戦い」で重要な同盟国であるパキスタンで反米感情が高まり緊張が続いている。(編集部)


オバマ上院議員
もこれを支持

 さる七月、パキスタン政府の承認ぬきでパキスタン国内で米軍が攻撃作戦を展開することを正当化する大統領命令の決定が公表され、ブッシュ政権内およびその周辺での長期にわたる論争に終止符が打たれた。ヒラリー・クリントンとの長いバトルの中でこの進行中の議論を意識していたバラク・オバマ上院議員は、パキスタンへの米国の軍事攻撃という政策を支持し、ヒラリーを出し抜こうとしていた。ジョン・マケイン上院議員と副大統領候補のサラ・ペイリンは、この意見を繰り返し、今やそれは合意によって米国の公式政策になった。
 その影響はパキスタンの軍内部そして国全体に深刻な危機を作りだし、破局的なものとなりうる。パキスタン人の圧倒的多数は、この地域での米軍のプレゼンスに反対しており、それが平和にとって最も深刻な脅威だと見ている。
 それならば、米国はなぜ決定的に重要な同盟関係を不安定化する決定を行ったのか。パキスタンの中では、一部のアナリストたちは、これこそアフガニスタンとの国境の不毛の地を越えて危機を作りだす道を拡大し、パキスタン国家をさらにいっそう弱体化させるための注意深く調整された動きである、と主張している。彼らの意見によれば、その究極の目的はパキスタン軍から核の牙を抜き取ることにある。もしそれが事実だったとすれば、ワシントンがパキスタン国家の分裂を本気に決意したことを意味する。パキスタンはこれほどの災難を、単に生き延びることすらできないからである。
 しかし私の意見では、戦争の拡大は、それよりもはるかに大きくブッシュ政権のアフガニスタンでの破滅的な占領と関連している。タリバンのゲリラがカブールに近づくほど、ハミド・カルザイ政権が日を追って孤立していることは秘密でも何でもない。
 疑問が生じた時には戦争を拡大するというのが、古い帝国のモットーである。パキスタンへの軍事攻撃は、カンボジアを爆撃し侵攻するというリチャード・ニクソン大統領と彼の国家安全保障顧問であるヘンリー・キッシンジャーの決定(それは結局のところポル・ポトとその極悪の体制の権力掌握を導いた)と同様に、決してうまくいかず今やますます悪化している戦争を救い出すための絶望的な試みなのである。

新生タリバンは
20の地域を支配

  NATOの占領に抵抗している勢力が、パキスタン―アフガン国境をいとも容易に越えているのは事実である。しかし米国は、彼らとの暗黙の取引にしばしば関わってきた。探りを入れた何人かの人びとがパキスタンでタリバンに突き出されてきたが、米国の諜報専門家はスワート(パキスタン北西辺境州北部の山岳地帯)のセリーナホテルに定期的にチェックインして、地方の親タリバン派指導者のムラー・ファズルッラーとの討論の可能性を追求してきた。
 事態はアフガニスタン国内でも同様である。二〇〇一年の米国のアフガニスタン侵攻以後、タリバンの中間レベルの指導部のあらゆる層が、再結集と今後の計画を練るために国境を越えてパキスタンに向かった。二〇〇三年までに、彼らのゲリラ部隊はアフガニスタンで占領軍への攪乱作戦を開始し、二〇〇四年には彼らは地域で新しい世代の獲得を開始した。獲得された人たちは決してジハーディスト(聖戦主義者)ではなく、彼らは占領自体によって急進化してきた人びとである。
 西側メディアの世界では、タリバンは完全にアルカイダと一体化されているが、実際にはタリバン支持者のほとんどはきわめて地域的な関心によって駆り立てられているのである。もしNATOと米国がアフガニスタンから去ることになったら、彼らの政治的変化はパキスタンの飼い馴らされたイスラム主義者ときわめて類似したものとなるだろう。
 今やアフガニスタンにおいて新生タリバンは、カンダハル、ヘルマンド、ウルズガンの各州の少なくとも二十の地域を支配している。こうした地域の当局の多くがゲリラ戦士の密接な支持者であることは、ほとんど秘密ではない。彼らはしばしば農民反乱派として性格づけられているが、南部の都市でも多くの支持を獲得してきたし、二〇〇六年にはカンダハルで「テト攻勢」型の攻撃さえ指導した。当初、カルザイ大統領の同盟者を支持してきたムッラー(イスラム教の宗教指導者)は、今やあらゆる所で外国人とカブールの政府に反対して結集している。初めて、非パシュトゥン人地域(パシュトゥン人はタリバンの基盤となっている民族)である北東部国境地帯のタカール州やバダクシャン州でさえ、ジハード(聖戦)の呼びかけが発せられている。

永続的な軍事力
の配置が必要

 新生タリバンは、「外国人」が国を去るまではどのような政権にも参加しないと語ってきた。それは米国の戦略目標に問題を提起している。それが現実であれば、今年初めにブルッキングス研究所でNATOのシェファー事務局長が聴衆に提示したように、アフガニスタンでの戦争はアフガニスタンに「良き統治」を広げることやアルカイダの残党を壊滅させたりすることとはほとんど関係ないのではないか。それは、二〇〇五年冬の「NATOレビュー」で戦略家が概括したように、「二一世紀にはNATOは、その境界を越えてシステム的安定を構想するような……同盟とならなければならない」という理由で、NATOの焦点を欧州・大西洋地域から拡大するためのマスター・プランの一部ではなかったか。
 この戦略家は次のように続けている。
 「地球の権力の重心は、抑えがたい形で東方に移動している。それにつれて権力の性格自身が変化している。アジア太平洋地域はこの世界に多くのダイナミックで積極的なものをもたらすが、しかしそこでの急速な変化は安定的なものでもなければ、安定した制度を据えつけるものでもない。それが実現されるまで指導することが、欧州と北米、そしてそれらが設立した機関の戦略的責任である。……このような世界の戦略的有効性は、正統性や実行可能性ぬきでは不可能である」。
 こうした戦略は、中国とイランの双方の国境に永続的な軍事力を配置することを意味する。こうしたことがほとんどのパキスタン人やアフガン人にとって受け入れがたいものであることを考えれば、それはこの地域に永続的混乱状態を作りだすだけであり、いっそうの暴力とテロ、そして極端なジハード主義への支持の高まりをもたらし、それがはねかえって、すでに過剰なまでに広がった帝国をいっそう伸びきらせることになるだけである。

鍵を握っている
のはいつも軍部

 グローバリゼーションの支持者はしばしば、米国の覇権と資本主義の拡大は同じことであるかのように語ってきた。冷戦の期間ではそのように言えたが、かつての二つの目標は今やさかさまの関係になっている。幾つかの点では、資本主義の拡大自身が世界における米国の覇権を浸食しているのである。グルジアにおけるロシアのウラジミール・プーチン首相の凱歌は、この事実の劇的なシグナルだった。米国が進める大中東構想は、ユーラシア諸国全体へのアメリカの優位性を示すものとしてデザインされたものだったが、驚くほどの混沌に陥り、警告の対象と指定された当の国家からの支持を必要とするようになっている。
 間接選挙で選ばれたパキスタンの新大統領アシフ・ザルダリ――殺害されたベナジール・ブットの夫であり、上流社会の「ゴッドファーザー」――は、アフガニスタンのハミド・カルザイを唯一の外国代表として就任式に招待することで、米国の戦略への支持を示唆した。信用を失ったカブールの「太守」と彼を対にしたことは、ワシントンの一部の者を感動させたかもしれないが、彼自身の国でこの亡きブットの夫への支持をさらに低めるだけである。
 パキスタンで鍵を握っているのは、いつものように軍部である。すでに強化されている国内での米国の攻撃がエスカレートし続けるならば、軍最高司令部の団結の誇示は真の緊張状態に置かれるかもしれない。九月十二日にラワルピンジで行われた軍司令官の会合で、パキスタン軍参謀総長のアシュファク・カヤニは、最近のパキスタン国内での米国の攻撃への比較的穏健な調子の公式非難を述べ、満場一致での支持を得た。その中で彼は、国境と主権を「あらゆる代償を払っても」守る、と述べた。
 しかし、軍が国家主権を守ると述べることは、実際にそれを行うこととは別である。これが矛盾の核心である。おそらくこの米国への非難は十一月四日(米大統領選挙の投票日)には止まるだろう。おそらく米軍の攻撃にパキスタン軍が軍事的反撃をすることなどまさかないだろう」。
 この地域で真に求められているのは、アメリカとNATOによるアフガニスタンからの出口戦略である。それはパキスタン、イラン、インド、ロシアを含む地域的解決策を必要とする。この四カ国は、アフガニスタンでの全国政権と大規模な社会的再建の保障となりうる。たとえどうなろうとも、NATOとアメリカは底知れぬほどの失敗を被ったのである。

▼タリク・アリはパキスタンで生まれ育ち、現在はロンドンに住んでいる社会主義者で作家・放送キャスター。彼はとりわけベトナム戦争からイラク戦争にいたるまで反帝国主義キャンペーンで活動してきた。
(「インターナショナルビューポイント」08年10月号)


コラム
「ご迷惑」なので「お詫び」

 「国民のみなさまに多大なご迷惑をかけ、心よりお詫び申しあげます」――不正や腐敗が明らかになるたび、カメラの前で力なくうなだれ、会見する責任者たち。だが当人の反省や謝罪が、実感として伝わらず、違和感すら覚えのるはなぜか。ひょっとするとその「言葉」に、問題があるのではないか。
 「迷惑」とは、たとえば電車内で座席を独占するような座りかた、近隣に聞こえるようなテレビの大音響など、主に自己中心的な行動やマナーの悪さで、他人が受ける不快感や不利益をさす。「汚染米事件」に象徴される食品偽装、いじめ・特訓殺人などは、そもそも迷惑とかマナーといった概念とは別の、やってはならない脱法行為、犯罪である。
 それが「迷惑」で済む人物がいるとすれば、おそらく当事者と同じ立場の者で、自分たちにまで嫌疑の目が向けられ、困る場合である。となると当人の「お詫び」は、被害を受けた圧倒的多数の国民ではなく、同僚や同業者に向けられていることになる。あり得ることだ。
 また「お詫び」は「謝罪の行為」をさす言葉で、行為そのものではない。したがって「お詫びします」の後には、「ごめんなさい」とか、「申し訳ありませんでした」という、明確な「謝罪本体の言葉」がなければならない。「お詫びします」といって頭を下げるだけでは、詫びたことにはならない。加害者に罪の意識がないか、あっても薄い場合は、この「あいまいさ」は実に都合がいい。心からの反省や悔恨の念があれば、ふさわしい言葉が自然と口に出るはずである。
 最近若者のあいだで大流行しているのが、接続助詞「なので」を文頭に置く話し方だ。「なので、明日の会議には出られそうもありません」などと職場だけでなく、活動家らも多用しているから、その定着ぶりがうかがえる。もっともアナウンサーやキャスターなど、会話のプロが無自覚に使っているのだから、受信者だけを責めるわけにはいかない。
 「だから」や「なのに」も、接続助詞から接続詞へと独立、進化した。「なので始まり」には、発言者が「自分の本意ではない」といった「あきらめ」や、相手を傷つけまいとするソフトな響きがある。流行は、どんなに仕掛けられても、理解されなければ広がらない。「なので」は、センシィティブな今どきの若者の感性に合致しているのかもしれない。
 表現はその人の個性でもある。が、話し言葉では許せても、文字や文章になると問題もある。読点「、」の打ち所ひとつで、意味が大きく変わってくる。現代の「名文」とは、難解な文章ではもちろんない。正確で読みやすく、誰にでも理解できる文章なのだ。それが読者への思いやりというものだ。     (隆)


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