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上坂喜美さんを偲ぶ会                かけはし2007.12.17号

私たちは新しい世の中のために今後も闘い続ける


 【大阪】十二月二日午後、大阪市の山西福祉記念会館で「上坂喜美さんを偲ぶ会」が開催された。上坂さんは毎年必ず出席していた「関西三里塚闘争と連帯する会」と「関西三里塚相談会」共催の旗開きに、ここ一、二年、出席していなかった。そのため、体調が不良ではないかと心配されてはいたのだが、それにしても、七月十七日の肺ガンと肺炎併発により亡くなったという訃報はあまりにも突然のものだった。遺体は献体され、葬儀も家族のみでという、上坂さんの生き方の潔さを髣髴(ほうふつ)させるような形だったので、偲ぶ会に出席した九十人にとって、この日の会は故人を悼み、故人の活動や考え方を語り合う初めての場になった。
 関西連帯する会の渡辺さんの主催者を代表してのあいさつの後、上坂さんの息子さんから提供された写真を中心にしたスライドの上映が行われた。その大きなスクリーンの中には空港反対闘争の先頭に立つ上坂さんだけではない、私たちが知らない様々な上坂さんがいた。大阪桜橋の逓信講習所に入所した当時の初々しい十代も前半の頃の上坂さん、逓信講習所の仲間と思われる少年たちと海水浴場でたわむれる上坂さん、堺市で市民運動に取り組む晩年の上坂さんなどである。
 もちろん、3・26闘争を始めとする、三里塚現地闘争の現場での厳しい表情のスライドもあったのだが、会場の人たちの胸に響いたのはそうした写真よりも、ボランティアガイドで堺の街を案内する上坂さんであり、大阪府の老人大学祭で合唱する上坂さんであり、堺の太鼓祭りで千利休やザビエルに扮した穏やかな笑顔の上坂さんだった。
 闘争現場や集会での上坂さんの姿は見慣れているということもあったろう。しかし、そうしたことよりも、いくつになっても積極的に地域に入り、様々な活動に真摯に取り組む上坂さんの姿が参加者の心を打ったのだと思う。今まで見たことのなかった上坂さんの姿に、会場からはしばしば驚きの声が上がった。

上坂さんから
教わったこと

 三里塚芝山連合空港反対同盟の柳川秀夫さんの発言は、そうした会場のみんなの気持ちを代弁するものだった。柳川さんは、「一九七四年から七六年頃の、三里塚を戦場として、倒れることも覚悟していた上坂さんの表情」と、笑顔で地域活動に取り組む晩年の上坂さんの表情を対比させて、「家族に見守られた、穏やかな死だったと思う」と、自分の安堵した気持ちを率直にまず述べた。そして、「三里塚闘争という、日本社会を左右する闘争の先頭で闘い、そして、われわれの今がある。権力と対等に、堂々と闘い、歴史を上坂さんと一緒に切り開いてきた」と熱い思いを語った。
 ついで、事業認定を取り下げさせ、強制収用を断念させた国との交渉の際に、上坂さんが終始相談に乗ってくれたことに触れた後で、こうした闘争を基礎にして、「上坂さんはもう一つの新しい世の中を目指していた。そのための問題をどう解決していくのかという課題を持って、上坂さんは地域で活動していた」と上坂さんの考えを紹介し、「上坂さんから教わったことは、新しい世の中のことを考えること、アメリカ型の民主主義ではない、新しい民主主義を模索することだった」と締めくくった。
 共産党時代の上坂さんを知る阪神連帯する会の杉本昭典さんからは、「上坂さんと最初に話したのは、レッドパージの後の関西の組織統一の話し合いの場だった。国際派の代表が私であり、上坂さんが所感派、主流派の代表だった。その後、六全協があり、上坂さんは追及される立場になった。政治的立場は違っていたが、その話し合いの時の信頼関係が連帯する会を創る時の基礎になった」と、戦後の共産党史にも触れる興味深い発言があった。

将来を見すえた
前向きな姿勢

 関西共同行動の中北竜太郎さんの「上坂さんは反骨の人、その反骨精神が闘争を支えてきた」という発言の後、龍谷大の杉村昌昭さんの発声で上坂さんへ献杯を捧げ、会は歓談へと移った。歓談の場でも、東大阪、高槻、阪神、京都、大阪中電の各連帯する会の仲間たち、三里塚の野菜を食べる会、全金港合同田中機械支部、労農合宿所の仲間たち、泉州沖に空港をつくらせない住民連絡会、石垣島・白保に空港をつくらせない大阪の会の仲間たち、その他多くの人たちが上坂さんへの思いを語った。とりわけ、関西三里塚闘争被告団の仲間が七人も出席し発言したことは、会場の人々を感激させた。
 発言は上坂さんの様々な面に及んだのだが、なによりも印象的だったのは、多くの人が常に将来をみすえて、前向きに活動にとりくんでいた上坂さんの姿に言及していたことだった。
 最後に閉会の挨拶に立った、阪神連帯する会の菊永望さんは、開港阻止闘争時の包囲・突入・占拠闘争をめぐっての上坂さんとの論争に触れた後で、「上坂さんは決断力のある、潔いよい人だった。現場主義をモットーにしていたが、それは単なる戦術ではなく、全国のネットに支えられたものとして構想していた」と上坂さんを評した後で、「現在は何もしないでいる状況ではないだろう。やるべきことはやる。八十歳になっても、九十歳になっても」と、自らの決意を述べて、追悼会を締めくくった。(O)



追 悼
三里塚闘争への共感を組織化した上坂さん
菊永 望(阪神三里塚闘争に連帯する会)

農民運動の要
三里塚の闘い

 上坂喜美さんが肺癌の療養中、併発した肺炎のために亡くなられてから四カ月がたちました。
 上坂さんは一九七四年の戸村選挙以来、三里塚空港反対闘争に連帯して闘う「関西連帯する会」と「全国連帯する会」の代表として、三十年近くも活躍されました。関西では他の大衆運動でもその要となって、幅広い運動のリーダーでした。
 戸村選挙戦が終わったあと、選挙をともに闘った参加者は連帯の運動をさらに強め発展させることを決めたが、上坂さんは「私は五十歳を超えたが皆さんが賛成なら引き続いて専従をやる」と決意を述べ、三里塚闘争への御自分の考えと態度を明らかにされました。それは、「闘う三里塚の農民を孤立させてはならない。いま政府の手で農民の切り捨てと農業・農村の破壊がすさまじい勢いで進められている。八郎潟の入植農民は稲作が軌道に乗ったとたん畑作への切り換えを強制され生活を断たれてしまった。高価な農機具を買わされた多くの農民は代金を払えず田畑を手放す羽目になっている。過疎農村が全国に広がっている。そしていま、ようやく農民の抵抗がはじまっている。この頂点をなしているのが三里塚である。三里塚の闘いはその要であり、前衛の位置にある」。
 「反公害住民運動は、川崎をはじめとする首都圏、四日市を代表にした東海、西淀や尼崎43号線を中心とした関西、本四架橋に反対して闘う岡山の漁民、九州では水俣公害患者の闘いをはじめ、北九州工業地帯、南九州のコンビナートや新開発計画への反対運動などなど、日本列島全体が国と大企業へNOをつきつけている」。
 「私たちはこれらの人々のところへ直接出向いていって交流し、三里塚闘争との連帯運動をつくらねばなりません。そうすることが三里塚闘争の勝利への道でもあると思います」と物静かに話しをされたのが、ほんのこの間のことのようです。

全国大行進と
開港阻止闘争

 このとき以来、三里塚で行動があるたびに上坂さんの姿が現地にあったのはよく知られているとおりです。同時に、上坂さんは全国の農民の動きに注目していて、単身、集会や運動の現場を訪ね、三里塚の現状を伝え、さらにそれぞれの運動を反対同盟に連絡していました。
 一九七七年の初夏、激しい闘いのなかで東山薫さんが機動隊に虐殺されました。同年真夏、全国大行進が行われたが、関西では関空反対住民運動団体の要請で行進団の出発地を、この現地にきめておりました。ところが、中核の強い反対意見が出され、これとの調整に二十四時間ぶっ通しで上坂さんがあたりました。
 翌七八年二月、反対同盟は横堀要塞攻防戦を闘い抜き、三月二十六日の開港阻止闘争へと上りつめていきました。連帯する会は他の支援とともにその一翼を担い、この3・26の開港を阻止することができました。上坂さんはこの連続する闘いの中にあって、その節々で連絡者会議や代表者会議を召集して、全体の動きをつかみ方針の徹底をはかっていました。
 反対同盟代表団に随行したフランス・ラルザック訪問から、上坂さんは深い感銘と新しい意欲を得たのではないでしょうか。報告集会や個人的な話の中でもそれを感じました。`六十の手習いでフランス語を始めるaとはりきっておられたのもこの頃でした。

一坪再共有化と
反対同盟の分裂

 八三年、政府・公団の二期工事着手に反対同盟はより積極的で攻撃的方針として、二期用地内外に自主耕作、闘う農業村建設、その一つとして一坪再共有化方針を打ち出した。一部党派がこれに反対し、組織的介入を伴ったために、同盟が闘争以来はじめて内部から三分裂する重大な局面を迎えることになった。動揺した一部知識人も共有化運動を批判した。上坂さんは、これに真正面から反論し同盟の方針を支持しました。その論文が「積極攻勢の『再共有化』運動│高島喜久男氏の『再共有化批判』を批判する」でした。
 以前にもまして、上坂さんは三里塚現地を訪ねるとともに、関西をはじめ他の地域でも二期工事に反対する同盟の闘いを支持する活動を強めてきました。しかしながら、特定党派による同盟内農民どうしの対話や交流を遮断する囲い込みや、支援活動家への陰惨なテロ行為が続発する事態は、上坂さんから当該党派だけでなく新左翼全体への期待感やシンパシーを奪っていったようにみうけられた時期もありました。

公開シンポジウム
支持へ説得活動

 九〇年前後に「社会主義懇談会」という集まりがつくられました。上坂さんはこの集まりの発起人の一人としてほぼすべての会議に出席されたが、ここでは市民運動、住民運動、労働運動など草の根勢力が共有できる大衆情報新聞の発行の必要を強く主張されました。
 これと同じ頃、現地で反対同盟と政府・運輸省の三者による公開シンポジウムの開催が提起され、この動きは支援勢力の間にある種のとまどいや反対意見を生んだ。上坂さんは「一坪再共有化運動」のときと同じく、動ずることなくこの方針を支持して、反対同盟の直面しているあらゆる情況と条件を考えるなら、これを連帯する会は支持すべきであると説いてまわりました。
 上坂さんは二十数年にわたって、その行動と言葉と文章で、三里塚農民と同盟の闘いを民衆の間へ伝え、共感を連帯する会に組織して、運動の先頭にたたれました。長い間御苦労様でした。ありがとうございました。




法務大臣鳩山邦夫殿          2007年12月7日
死刑執行に強く抗議する
死刑廃止を推進する議員連盟(会長 亀井静香 事務局長 保坂展人)


 12月7日、鳩山邦夫法相は、初めて氏名を公表して三人の死刑を執行した。ちょうど衆院法務委員会で死刑執行制度についての論議を行っていた最中だった。国連でも死刑の廃止・執行停止が強く求められている中で、死刑執行にこだわる政府の姿勢に抗議する。以下は死刑廃止議員連盟の声明。


 私たち「死刑廃止を推進する議員連盟」は、鳩山法務大臣が本日、3名の死刑囚に死刑を執行したことに強い怒りと無念の気持ちを表明する。鳩山氏が法務大臣に就任してから、死刑制度に関する発言を積極的に展開し、その発言主旨は別にしても、硬直化していた死刑制度の是非について議論が喚起されたことに評価するものである。
 実際に、衆参法務委員会で多くの議員が死刑制度に関して質疑を行い、衆参法務委員会が東京拘置所の刑場視察を実施し、さらに11月9日には、法務省内の死刑制度勉強会に死刑廃止を求める市民団体を呼び、大臣自ら直接、廃止側の意見を聞く場を設け、今後も廃止団体との勉強会を継続していく予定になっていた。マスコミも含めて世論も意見を出し合うなど、活発な議論がようやく始まったばかりである。 
 鳩山法務大臣が、こうした死刑制度についての勉強を開始し、検討している姿勢は大いに歓迎するところであった。また、死刑囚の名前を公表すると決定したことも、これまで秘密裏に行われてきた死刑を少しでも公開していこうとする意欲は、官僚的な法務省の姿勢を変えようとする大臣の決意のあらわれとして評価できる。
 しかしながら、死刑制度の議論がこれから本格的に活発になろうという時に、本日死刑を執行したことは、一方的に意見交換の扉を閉ざす行為であり、強く抗議するものである。
 私たち「死刑廃止を推進する議員連盟」は、国連総会で今月中旬に死刑の執行停止を求める決議が採択される予定であることを受け、勉強会を開催したばかりである。この国連決議の内容は、死刑を存置している国に対して「死刑の適用を制限し、死刑を科すことのできる犯罪の数を削減し、死刑の廃止を視野に入れて、執行の停止を確立すること」を求めている。日本はこの決議に反対との立場を取っているが、国際社会の一員である日本は決議の主旨を真摯に受け止め、死刑制度の改革に着手するべきである。
 「死刑廃止を推進する議員連盟」は、「終身刑の創設」と「衆参に死刑制度調査会」を設置するという案を2003年、与野党全会派で検討した。この案をたたき台にし、今こそ、鳩山法務大臣のもと、死刑制度のあり方を根本的に見直す時期であることを強く申し入れ、本日の執行に抗議するものである。
 (追記) 以上の声明を発表して記者会見した。「氏名公表を評価するのかどうか」という質問に対して、「従来から議員連盟では、死刑の密行性を批判し公表を求めてきたが、鳩山法相の読み上げた犯罪事実の概要は事件の残虐性を語っているが、死刑確定後に拘置所でどのように過ごしていたか、また執行前に何を言ったのかなどをまったく語っていない。情報公開も、情報操作になってはいけない」と答えた。記者会見には、金田誠一副会長(民主)、井上哲士(幹事・共産)の各党議員の他、アムネスティ、フォーラム90、宗教者ネットワークなどが参加し、発言した。(保坂展人議員のブログより)


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