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                            かけはし2007.1.15号

リカービさんが完全勝訴

「週刊ポスト」の嘘は明白
自衛隊イラク派兵に反対する主張が確認された!

 十二月二十七日、東京地裁第705号法廷で、イラク民主化国民潮流のアブドゥルアミル・アル・リカービさん(以下リカービさん)が「週刊ポスト」の記事を名誉棄損として損害賠償を請求していた訴訟の判決が下った。「被告(小学館)は原告(リカービさん)に対し四百四十万円と利息を支払え。被告が管理するウェブサイトに掲載された当該記事を削除せよ」。リカービさんの全面的な勝訴である。ここで改めて、リカービさんの訴訟とは何だったかについて紹介したい。

小泉・リカービ
会談の歪曲報道

 リカービさんは二〇〇三年十一月にパリで開催された欧州社会フォーラムや、二〇〇四年一月にインドのムンバイで開催された第4回世界社会フォーラムにも参加し、反グローバリゼーション運動を担う世界の人びとに向かって、米軍のイラク侵略と占領に反対するよう訴えるとともに、イラクの平和と再建のためにさまざまな政党・宗派・民族の違いを超えた「憲法制定国民会議」準備委員会を開催することを呼びかけていた。
 リカービさんが二〇〇三年十二月に小泉首相(当時)の招待で来日し、小泉と会談してメソポタミア湿原の再生をふくむイラクの再建に向けた支援を訴えたのは、彼のこうした活動の一環として、イラクの平和的な経済復興に日本政府の協力を求めるためであった。しかし自衛隊のイラク派兵閣議決定を目前にしたこの会談は、日本政府の情報操作もふくめて、あたかも「イラクの現地部族の代表が、自衛隊のイラク派兵を歓迎し、協力を約束した」かのようなニュアンスで報道された。
 小泉―リカービ会談の翌日の二〇〇三年十二月四日、ATTACジャパンやWORLD PEACE NOWの仲間は、滞在先の赤坂プリンスホテルでリカービさんと直接会うことに成功し、自衛隊のイラク派兵に反対する日本の反戦運動の立場を伝えるとともに、リカービさんの主張が日本のメディアで歪曲されて報道していることを伝えた(本紙03年12月15日号「派兵に反対するイラク指導者を派兵に利用?」参照)。これを受けて、リカービさんは十二月八日に記者会見を開き、報道の誤りと、米軍の占領と自衛隊派兵に反対する自らの立場を明らかにした。

イラクと日本の
民衆的連帯へ

 しかしその後「週刊ポスト」04年2月6日号は、リカービさんが小泉首相と会談した際に「日本政府が百億円を拠出し、その資金を使ってイラク南部の部族を動員し、派遣される自衛隊の安全を確保することをリカービ氏が約束した」などとする百%デマ記事を掲載したのである。この情報が首相官邸筋からのものであることは明らかである。しかも「週刊ポスト」の英語版サイトにも掲載されたこの記事は、カタール国営通信のアラビア語ニュースで中東全域に配信され、リカービさんの信用は決定的に傷つけられ、生命の危険すら感じられる脅迫が家族のもとに届くようになった。さらにイラク内務省スポークスパースンは、この「週刊ポスト」のデマ記事を根拠に、リカービさんを中傷したのである。
 リカービさんが二〇〇四年四月に起こった高遠菜穂子さん、郡山総一郎さん、今井紀明さんの「人質」事件にあたって、日本の反戦運動・反グローバリゼーション運動との連携の下に、三人の釈放に尽力したことは多くの人びとに知られている(一連の経過についてはグローバル・ウォッチ編『日本政府よ!嘘をつくな!』作品社刊を参照)。
 WORLD PEACE NOWは、二〇〇四年七月にリカービさんを招待して「『人質』解放、そしてイラク抵抗運動の今」と題する集会を開催した。この訪日に合わせて、リカービさんは「週刊ポスト」のデマ記事に関して小学館を名誉棄損で告訴し、損害賠償を求める裁判を起こした。この公判にはパリ在住でリカービさん夫妻とも親交のあるコリン・コバヤシさんも証言に立った。そして今回の原告の主張を完全に認めた勝訴が勝ち取られた。
 判決文では二〇〇三年十一月に行われた欧州社会フォーラムでのリカービさんの発言や、二〇〇三年十二月八日の記者会見も援用しながら、リカービさんの政治的主張がいかに「週刊ポスト」の報道とは異なったものであるかも認められている。
 リカービさんは判決後に東京地裁内の司法記者会で行われた記者会見で、勝利判決を喜び、弁護団と支援の人びとに謝意を表明するとともに、今回の勝利をイラクと日本の民衆間のイラク平和と再建に向けた連帯を広げる契機にしたい、と語っている。われわれはこの真実をさらに多くの人びとに伝える必要がある。(K)


アル・リカービさんを招いたシンポ
作られたイラク内戦に反対し国民的和解を実現するために

 十二月二十三日、東京・御茶の水の明治大学リバティータワー1011教室でイラク民主化国民潮流のアル・リカービさんを招いて「イラクに平和を!私たちの描くイラク平和の道」と題したシンポジウムが開催された(主催:明治大学軍縮平和研究所、呼びかけ:リカービさん来日を支える実行委員会、協賛:WORLD PEACE NOW、作品社)。
 このシンポジウムは、米軍を圧倒的中心とした多国籍軍のイラク占領支配が完全に失敗し、一日につき百人を超える死者が出るほどの泥沼的「内戦」状況が深まる中で、イラク民衆自身の平和と再建の道を見いだし、その主体的努力とつながる国際的支援・連帯の可能性をさぐるために設定されたものである。
 最初に毎日新聞の布施弘さんが、湾岸戦争や「9・11」をサウジアラビアと米国の現場で体験した感覚にふまえて、米国の判断の決定的誤りと価値観の押しつけを是正し、イラク復興の一日も早い達成と、それに対する日本の平和的協力の必要性について語った。
 続いてNGO「ピースオン」を設立し、イラクの障がい者支援の活動を続けてきた相沢恭行さんが写真を紹介しながらイラクの現在をレポートした。
 「いまやイラク人のヨルダンやシリアへの大量の国外脱出が続き、その数は百万人を超えている。産油国にもかかわらずガソリン代も高騰し、かつての1リットル二〜三円から、いまや六〇〜七〇円になってしまった。シーア派・スンニ派の宗派対立と言われているが、実際は武力による政治権力闘争になったというべきだろう。いまや就職口といっても自警団やスパイしかないほどだ。イラク民衆の生きる力が奪われてしまっていることを恐れている」。
 アル・リカービさんは会場からの質問に答える形で次のように語った。
 「私たちはイラク民主化国民潮流として、二〇〇三年以来、占領を終わらせ国民間の融和を実現するための準備活動を継続してきた。アルジャジーラ放送を通じて私たちの立場を広め、アラブ連盟諸国や欧州諸国に対しても働きかけをしてきた。二〇〇四年にレバノンで行われた会議では、三百五十人のイラク人が参加したが、その九八%はイラク国内からであり、ほとんどすべての地域、氏族・部族を網羅していた。しかしそこで出発した憲法制定会議準備委員会のメンバーも、拘束されたり殺害されたりしている」。
 「現在の状況が非常に困難であることは事実だ。しかし私たちが打ち出している国民和解のための構想以外に方法はない。現在のイラクのどの勢力も国民和解の構想を持っていないし、イラクを一つにまとめることはできない。サドル師は経験不足であり、彼には自らに課せられた重責を果たすことはできないだろう」。
 「今の内戦は作られたものだ。人類に例を見ない悲惨な状況がもたらされている。すでに外国に脱出した人たちは二百万人に達するとされており、国内でも暴力から逃れて他の地域に移った人が百五十万人に上るといわれる。国民的和解の構想実現のためには、国際的サポートも必要だ。医療、人道支援も必要なのはもちろんだが、政治的自由と国土を取り戻すための政治的サポートが必要だということを強調したい」。
 占領を終わらせ、すべての外国軍を撤退させるための運動を強めるとともに、和解と復興のための「政治的支援」をどのように作りだすかを問いかけるリカービさんの発言だった。(K)                                   


コラム

「年賀タオル」

 昨年の十一月三十日、私の住むアパートを管理している不動産屋から「十二月八日から十二月二十日まで屋根、外壁などのペンキを塗り直すので協力をお願いします」という通知が届いた。友人にそのことを話すと「それは建物を大事にする大家」であるという。しかし、この時抱いた大家に対する「勝手」な像がその後の不満といらいらの始まりであった。
 作業は十二月八日が過ぎても一向に始まらず、道具や材料が運ばれて来たのは通知から一週間が経った十二月十五日、その上「明日から作業を開始しますので、外に洗濯物を干すのは控えてください」という通告がドアに挟まれていた。この日から洗濯物を持ってコインラドリーに通う生活が始まった。最初は乾燥させるだけであったが、そのうち洗濯までコインランドリーを使用するようになり、時には洗剤を持って行くのを忘れ、一袋五十円の洗剤を自販機で買う仕末。自転車で十分もかかるので決して近いわけではない。待っている時間は寒いので、二回に一回はコインランドリーの二階にある銭湯に浸って時間をつぶした。時々行っていた銭湯とは違って当然にも顔見知りはいないし、風呂あがりの一杯もない。
 十二月十九日に三度目の通知が届く。「ペンキを塗る前に建物を水洗いしますので、窓だけではなく雨戸も完全に締めてください」。この日から十二月二十九日までの十日間、わが部屋には一日中光が入らず真っ暗な生活が強制された。年の瀬である。
 不便なのは朝。私は日常窓のカーテンの透き間から差し込む光でおおよその時間を計っていたことに気付いた。電気をつけて時計を見ると午前四時であったり、五時であったりといつも起きる六時から六時半を一回もあてることができなかった。正月元旦の夜明けは東京で午後六時五十分前後であるから、六時半には薄明るくなっている。その光に身体が反応していたのだが、暗闇では全く反応できない。慣習とは恐ろしい。
 十二月三十日窓から光は入るようになったが、ビニールシートがはずされただけで仮設のポールはそのまま残され、依然として洗濯物は外には干せない。一月四日、○○建設と書かれた「年賀のタオル」と「四日と五日ですべての作業を終了します。」という最後の通知がドアに入っていた。
 「洗濯物を外に干す」という期待を込めた一月六日、東京は爆弾低気圧で大雨、大風。洗濯物を外に干す作業は一月七日まで持ち越しになった。
 物を大事にする人=良い人ではなく、大家は自分の資産の有効管理をしただけで、店子の正月などどうでもよかったのだ。自分の主観主義にあきれた年末年始であった。(武)


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