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5000人以上を逮捕・拘束               かけはし2007.11.26号

まもなく軍事独裁を打ち倒す

地下生活も7日目に突入
その家からは一切電話をかけずいつも友人と逃亡プランを相談

ファルーク・タリク


 十一月三日の、ムシャラフによる「非常事態」宣言以後、パキスタン労働党のファルーク・タリク書記長は、巧みに警察の追跡を逃れながら「地下」活動に移行した。ニザール・シャー議長をはじめ多くの党員が逮捕される中で、ファルーク・タリク同志は広範な抵抗の組織化と共同戦線形成のために活動している。

ニザール・シャ
ー弁護士の逮捕

 警察による何回かの試みにもかかわらず、逮捕を免れて七日目が過ぎた。
 最近三日間で、パキスタン労働党の指導的メンバーの会議を持つことができた。また、民放テレビへのインタビューやCNNの取材チームとのインタビューも行われた。パキスタンの新聞のほとんどに対して毎日のニュースをファックスすることもできた。
 不幸なことに、パキスタン労働党議長のニザール・シャー弁護士は十一月七日、イスラマバードで逮捕された。彼は、警察による恫喝にもかかわらず、弁護士らのデモを指揮したあと、何人かの党活動家とともに逮捕されたのだ。
 ニザール・シャーは高裁弁護士で、十年間カラチで活動してきたのだが、二〇〇五年の大地震のあと、二年間カシミールに移った。彼はもともとカシミール出身であり、彼の村は地震によって深刻な打撃を受け、彼の親戚も何人か亡くなった。彼は、「労働者救援キャンペーン」から、救援と復興の事業の面倒を見るためにカシミールに戻るよう要請を受けた。彼は、地震後三カ月以内に百棟の家を建てることに成功した。それは、アクション・エイド・インターナショナル(注:国際的なNGOの一つ)およびパキスタンの急進的な女性NGOであるシャーカット・ガーの援助でなし遂げられた最初の事業だった。彼は、パニオラに最初のカシミール労働センターを建設しようとしており、そこにはカシミールで最初の労働センターを作るために、地元の人々が寄付した土地があるのだ。
 彼は最近、LPP(パキスタン労働党)から社会的、政治的運動を作り上げるため、ラワルピンディとイスラマバードに来るよう要請された。そして、より密接に運動の中で弁護士たちと結びつくために、イスラマバードで弁護士として活動し始めていた。何日かの大衆的な反乱のあとに、ここで彼は逮捕された。

変装していたが
警察の車と遭遇

 十一月七日から十日朝までの三日間の地下生活の間、最大限の安全対策をとりながら、ある友人の家に滞在することができた。その家からは一切電話もかけなかったし、その家にいる間にはどの携帯からも一切電話連絡を取らなかった。私は一キロほど先まで歩き回って、電話をかけ、メールを開いた。
 十一月六日の警察による最初の襲撃のあとすぐに、私は電話を使うときの名前を変えた。この数日間、ごく親しい同志と友人にのみ、それも違う携帯から電話するようにしていた。当分の間は、そうすることで私は安全でいられた。
 十一月八日、私が帽子をかぶり、髭をたくわえて、自分が泊まっている場所まで歩いて戻っているとき、突然一台の警察車両が私の横に止まった。ちょうど信号が赤だった。警官が私の方を数秒間じろっと見た。この警官はどこかで見たかも知れない私の顔を確認しようとしているのだと思った。今にも警官が車から出て来るのではないかと心配した。もし出てくれば、走って逃げようと思った。私の顔は無表情で、彼に対して、恐れているとか、知り合いであるとかの印象は一切与えなかった。私は、彼を全く知らないと自信たっぷりに振る舞っていた。
 このドラマは二十秒で終わり、何事もなかったかのように、普段通りに私は歩いていった。警官が去ってから、私はすぐに道順を変え、別の通りに行くために走り始めた。
 私が滞在していた地域は、多くの理由で警察のパトロールが多かった。しかし私がその家を出て、ネットカフェでメールチェックや書き込みをしに行ったのは二回だけだった。友人の家にはマルティメディア機器は揃っていたのだが、そこからは絶対にアクセスしないことにしていた。私たちはまた、警察が家にきた時の逃亡プランも相談していた。裏口から逃げる道がいくつかあることを友人は教えてくれた。しかし、私はもし警察が裏口からやってくれば、抵抗しないで逮捕されることを提案した。私たちは、裏口から逃げる間に、部屋には誰もいなかったようにしておくことも相談した。私はカバンや服は持ち運ばず、どこへいってもそこで服を借りて、翌朝に着れるよう自分の服を洗濯しておくようにしている。
 私の友人は、多くの場合、警察がやってきて、逮捕しようとした人物を見つけられなかったとき、その家の主人やメイド、そして家にいた男性の大人を連行していくことを知っていた。彼は危険を冒していたのだが、何か特別なことをしていると私に気付かせることは全くなかった。

ブットの転換と
PPPへの弾圧

 この三日間での良いニュースは、ベナジール・ブットが現軍事政権への態度を変えたことだった。彼女は亡命中に、軍事政権と政権を共有する取引をしようとしていた。しかし、パキスタンに帰国すると、彼女の行進に自爆テロがあり、二百人以上が死亡した。そのとき、ベナジール・ブットに対して、パンジャブ州首相が大規模なネガティブ・キャンペーンを繰り広げた。そしてムシャラフは、どうやら彼女の同意なしに非常事態宣言を十一月三日に布告した。逮捕された弁護士の多くは、パキスタン人民党のメンバーである。それは実に大きなことだった。最初の三日間、PPP活動家は逮捕されていなかったが、ベナジールが軍事政権の非常事態宣言に公然と反対するようになって事態は変わった。
 彼女が態度を変えたことは、私たちの新聞発表でも歓迎された。私はメディアに対して、PPPが十三日に計画しているラホールからイスラマバードまでの長距離デモに参加すると発表した。われわれは、彼女のここ数カ月の政策に対して厳しい批判を持っていた。それは現政権への柔軟姿勢のためだった。私たちは、ベナジールとムシャラフは友人同士だが、ベナジールが人気指導者としての尊敬といかなる場合にも民主主義のために闘う人物であるという尊敬をもう一度集めるために、偽善的にお互いに対立しているといういわゆる謀略理論を支持していた。
 ベナジールの政権に対する反対声明は、数百人のPPP活動家の逮捕や家宅捜査を意味しているし、ムシャラフが友人を失い、反対勢力が成長していくことも意味している。

テレビ局など
がインタビュー

 十一月九日は、第四回党大会が開かれる予定だった日だが、私たち七人は当面の戦略を定めるために、安全な場所での会合を開くため何時間か旅行した。プレス・リリースをファックスで送り、CNNを含むいくつかのテレビ局の撮影チームを招待した。それは、私たちのインタビューおよび私たちの地下活動の様子を撮影するためだった。
 彼らは、地下活動をしている活動家の映像を撮るために、友人とコンタクトをとってきていたのだった。彼らは、ラホール中心部にある、人はいないが機能している事務所を撮影してから、私たちのところにやって来た。私たちは、彼らを安全に自分たちのところまで連れてくるために、特別な安全手段をとらなければならなかった。撮影が終わるとすぐに不愉快な事件を避けるために、すぐにその場を離れることを決めていた。
 その日早く、私は十五分だけ自宅に立ち寄った。パートナーのシャナズが息子のアブドラが私がいなくて寂しがっていると伝えてきたからだった。制服、私服の警官が近くにいないことを確かめてのことだった。同じラホール市内にいたにもかかわらず、七日ぶりだった。みんな喜んでいて、気分が高揚していた。不平も厳しい話もなかった。七歳の息子は家にいてほしいと頼み、私が何が起こったのか説明しても、まだ「いいよ」とは言ってくれなかった。しかし、娘のマシャールは「わかった」と言ってくれた。七日間、一日に一回はパートナーと電話で短時間話していた。私は着替えをして、幸せな気分で家を出た。

日刊紙がLPP
の記事を掲載

 十一月八日午後、BBCとCNNがパキスタンで見ることができるようになったのは朗報だった。BBC放送のルーシー・ドーセットがイスラマバードから実況しているのを見た。私は、LPP議長がイスラマバードで、逮捕される前にスローガンを叫んでいるのを見て喜んだ。彼らは、アスマ・ジャハンガーとのインタビューを彼女が拘束されている場所で試み、警察によって追い出される前に少し話すことができた。私は昨日アスマからメッセージを受け取っていて、それには地下活動に入って運動を組織するように、とあった。
 今日の新聞には、LPPがPPPのデモを歓迎し、すべての逮捕を非難するとともに逮捕者の即時解放とストライキ中のマスコミ労働者との連帯を表明しているとの記事が掲載されていて嬉しかった。今日の日刊紙ワカットに掲載されたLPPの記事は、すべての労働組合、労働者階級、農民に弁護士の運動に加わるよう呼びかけたものだった。こうしたアピールがメディアで報道されるのは、非常事態宣言のあと初めてのことだ。私たちの考えを宣伝する上では、電子媒体よりも印刷されたメディアの方を信頼しなければならない。
 私はまた、キャンペーンに参加させるために、何人かの主要な労働組合の指導者とも連絡をとった。おそらく積極的な反応が返ってくることだろう。カラチの労働組合指導者の何人かは既に逮捕されている。カラチの労働組合、左翼政党、急進的な社会運動は十一月七日、非常事態宣言の公布を非難し、運動への参加を決めたとの声明を出した。

左翼連合が大
衆動員で一致

 十一月九日、左翼連合である人民民主連合(AJT)の会議がラホールで開かれ、行動日については合意できなかったが、大衆動員をはかることで一致した。私たちの指導的同志が会議に出席し、パキスタン全土での統一行動日という考えを提案した。AJT中央委員会の指導的同志のうち二人がすでに逮捕されている。ユーサフ・マスティ・カーン(国民労働者党)とニザール・シャー(パキスタン労働党)の二人である。警察は多くのAJT指導者の家宅捜査をしている。ビラル・ミント(国民労働者党委員長でAJT議長のアビド・ハッサン・ミントの息子)は、他の七十人の社会運動活動家と一緒に釈放されるまで、三日間拘束されていた。彼は、エリート大学であるラホール経営科学大学の教員である。彼ともに、三人の急進的な教員が逮捕されたことは、その大学での学生の運動を爆発させた。
 ある報道レポートによれば、五千人以上がいままでに運動の中で逮捕されたとのことだ。すべての政治犯を収容できるスペースは刑務所にはない。一時的な収容キャンプが刑務所の中に設置された。多くの個人宅が囚人を収容する刑務所に準じるものとされている。囚人たちは、親戚の訪問も許されてはいない。これらの囚人には、個人的な食べ物の差し入れもない。過去三カ月に、私は刑務所に入れられていた経験があるので、逮捕された人々の状況がよくわかる。私たちの心は彼らとともにある。民主主義と社会主義のための犠牲は決して無駄ではない。私たちは、軍事独裁をまもなく打ち倒すだろうと、私は最近の進展によって確信している。どのようにして? 今はわからないが、大衆運動と大衆的な犠牲の上に立って、私たちはそれを成し遂げるだろう。(「インターナショナルビューポイント」07年11月号)


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