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                           かけはし2007.10.29号

12・9三里塚・東峰現地行動



 成田国際空港株式会社は暫定滑走路の北側延伸に伴う新誘導路建設のためとして「東峰の森」を破壊し、工事を進めている。「東峰の森」は東峰地区の農業・生活環境を守ってきた。水源涵養林、防風林として、また堆肥用の落ち葉を始め四季折々に自然の恵みをもたらしてきた。
 東峰地区は戦後開拓地として農民が入植し、竹林、松林を切り開いて築き上げてきた村である。住民は県有地であった「東峰の森」に入会の権利を得て森に自由に入り、利用してきた。空港公団(当時)が空港用地として県から取得した後も住民は利用し続けてきた。元々空港施設が作られる予定ではなかった「東峰の森」は公団も緑の保全地区として残すとし、管理については住民と相談しながら進め、一方的な対処はしないと確約していた。
 ところが暫定滑走路の北伸が決まり、新たな誘導路が必要となり、そのコースに「東峰の森」がかかると住民の反対を完全に踏みにじって森の伐採、破壊を強行してきたのだ。
 東峰住民は森の破壊を止めようと千葉地裁に現状変更禁止の仮処分を提訴したが、千葉地裁は不当にも住民の訴えを退ける決定を下した。その論拠は、「当初の建設計画から空港施設の建設予定地に含まれていた」という重大な事実誤認に基づくものであった。また、入会権については、県が利用を容認していただけで入会権というものではなかったと切り捨てた。そして、森の破壊によってもたらされる住民の損害は、「許容限度内」のものであると勝手に決めつけた。
 住民は直ちに東京高裁に抗告したが、高裁もまた6月12日に住民敗訴の判決を下した。判決文では地裁の事実誤認の部分は、批判も何もなくただあっさりと「削除」し、新たに「空港建設に関し……何らかの変更が生じた場合には当然見直される余地があることは、事柄の性質上、当事者間において暗黙の内に予定されていたというべきである」と「双方の暗黙の了解」というとんでもないデッチ上げを行ったのである。地裁、高裁の公正性をかなぐり捨てた空港会社べったりの判決を絶対に許すことはできない。
 政府は空港政策の決定的な立ち遅れを取り戻そうと、「アジアゲートウェイ戦略会議」を安倍前首相の下で立ち上げ、アメリカの空の自由化要求に応える「オープンスカイ」政策に踏み出した。旧運輸官僚の黒野社長を更迭し、新たな民間から元住友商事副社長の森中小三郎を社長に据えた。森中は、「(特別顧問に就任した)黒野先輩には全般的にアドバイスしてもらう」「一緒に手を携えて、滑走路問題や株式上場などの課題に全社一丸となって取り組んでいきたい」などと、黒野悪知恵を借りて住民を追い出しを図ろうとしている。
 空港会社は、完全民営化を控えて厳しい状況に追い込まれている。アジア諸国の空港の整備拡張、羽田空港の拡張に伴う国際線の増便など、国内外で国際空港としての成田の地位低下はもはや明らかである。空港会社は暫定滑走路を南側に延長し、3000〜4000メートル級の滑走路を作ろうとし、すでにそのことを明言している。これはとりもなおさず、東峰の住民を追い出し、東峰地区を完全に消滅させることを意味するのだ。
 東峰住民は、四方を空港施設に囲まれ、頭上をジェット機が轟音を上げて離着陸するという苛酷な状況下で屈することなく生活し続けている。それをあらゆる手段をもって追い出そうと目論んでいるのだ。政府─司法─空港会社一体となった住民追い出し攻撃を断じて許してはならない。

空港の軍事利用を止めろ!

 首相が安倍から福田に変わっても、その戦争国家体制作りの政策は何ら変わらない。有事法制─国民保護法の下で戦争に向けたインフラ整備は不可欠であり、空港はとりわけ重要である。すでにイラク、ゴラン高原派兵等、自衛隊外国派兵の出撃拠点として成田は繰り返し使用されており、暫定滑走路の延長も軍事戦略的な要請からも不可欠のものだ。労働者、学生、市民の主体的課題としても成田空港の軍事使用、滑走路延長に反対していかなければならない。
 空港反対・暫定滑走路の延伸反対を貫く三里塚農民と連帯し、12・9東峰現地に結集し共に闘おう。

b日時 12月9日(日)午後1時結集 1時30分から集会
bデモは東峰出荷場から開拓道路のコース(予定)
b場所 東峰共同出荷場(京成東成田駅に迎えの車有り)
b主催 三里塚・暫定滑走路に反対する連絡会
 連絡先 東京都千代田区三崎町2-2-13-502 じゃがいもの会気付け  
b三里塚現地連絡先 〒289-1601 千葉県山武郡芝山町香山新田131-4 山崎方電話&FAX0479-78-0039
b集会場への行き方 京成線上野発(特急)〜成田駅乗り換え東成田駅への時刻表
上野発10:43 成田駅11:50着 11:54発の芝山千代田駅行に乗り換え 東成田駅12:00着
上野発11:03 成田駅12:08着 12:35発の芝山千代田駅行に乗り換え 東成田駅12:40着
b東成田駅に12:40〜12:50に迎えの車が出ています。初めての方は、事前に山崎方へ連絡ください。




上坂喜美さんを偲ぶ会へのご案内

 上坂喜美(きよし)さんが亡くなられました。7月17日の未明、激しい雨が降る中、ご家族に見守られて息を引き取りました。1年前からの肺ガンが引き起こした肺炎が原因でした。行年83歳でした。
 みなさまそれぞれに上坂さんの深い思い出があることでしょう。終戦直後、まだ青年時代大阪中電を活動拠点に全逓青年部運動に邁進された頃、共産党の常任・幹部として活躍された頃、三里塚闘争の最先端を担われた頃、関西共同行動(6月共同行動)で代表的な役割を果たされた頃。三里塚闘争はもとより、反戦平和運動、反公害闘争、住民運動、労働運動、市民運動といろいろな運動で中心的な役割を果たされました。上坂さんを語らずして関西の市民運動は語れないといっても過言ではありません。
 それらの運動の中で、上坂さんは、あの小さな体で、常に先頭に立ち、現場を離れず、無私に活動されました。仲間たちには奢らず、年の相当開いたものにも平等に対応されました。もちろん、必要な論争には激しく参加し、権力や妨害者には毅然と立ち向かいました。「清貧な左翼」そのものでした。その分、ご家族は大変な苦労を被ったことと察せられます。
 上坂さんの在りし日を偲び、上坂さんが私たちに残してくれたものを受け継いで行くために、偲ぶ会を持つことにしました。上坂さんの思い出を語り合いながら、初冬の午後をともに過ごせたらと思います。上坂さんにはあまり似つかわしくはありませんが、多少の食べ物、アルコールなども準備します。
 なお、上坂さんの遺稿集の出版も計画中です。ご協力をよろしくお願いします。

bとき:12月2日(日)午後2時より
bところ:山西記念館(YWCA梅田)
b参加費:5000円

上坂さんを偲ぶ会実行委員会
呼びかけ
関西三里塚闘争に連帯する会
関西三里塚相談会
関西共同行動

賛同者
阿部陽一 石井俊二 伊藤修身 伊東利一 大和田幸治 小川亮 沖幸典 奥田旬子 小原吉苗 片山明 加藤達哉 苅谷稔 川原邦夫 菊永望 岸本淳子 北川靖一郎 木村保博 桑原重夫 小寺山康雄 酒井一 栄篤志 島野正通 杉村昌昭 杉本正典 須藤和雄 砂場徹 寺本勉 中北龍太郎 西村隆平 丹羽通晴 畑健次郎 原田恵子 土 方克彦 古橋雅夫 星川洋史 前田裕晤 前原英文 松上辰之 宮本崇義 三輪喜久治 百瀬彰 泰山義雄 山崎秀樹 山田実 山本徳二 吉沢茂 吉田四郎 米沢鐵志 若野正太郎 和田喜太郎 渡邉充春(2007年9月20日現在)
b連絡先:大阪市北区堂山町8│13 堂山ビル4階 ポポロ気付
電話:06-6314-0796 ファックス:06-6315-7558
b出欠は11月10日までに前記連絡先のどこかにご連絡下さい



コラム
JRを再び国鉄へ

 コンビニでコアップガラナを買った。ヒグマのイラストに、熊出没注意と書かれた黄色のパッケージに目が引かれたのがその理由。何でも北海道限定で発売している炭酸飲料らしい。この商品以外も、設けられたコーナーには限定とやらのキャラメルやチョコレートなどが並んでいた。あまり目にすることのない地域ブランドを集めた催事で、これが結構売れるという。
 家に帰って飲んでみると思い出した。容器こそ違うが、かつて小樽の駄菓子屋で飲んだ多少薬くさいあの味である。確か茶色のびんだったと思うが記憶は曖昧。舌だけが憶えていた味覚だった。
 ボクが初めて津軽海峡を青函連絡船で渡ったのは高校二年生の夏。友達数人と東北を一周した際、ついでだから函館まで行ってみようという話になったのがその時だった。夜中の連絡船で到着した函館は、まるで異国の地に思えたことを憶えている。石川啄木の「漂白の愁いを叙して成らざりし 草稿の字の 読みがたさかな」の胸中にも似た気分だったに違いない。
 北海道へは今までに四季を通して十回以上は訪れた。吹雪の稚内、夏の知床と思い出は尽きないが、ボクにとって何よりも忘れられないのが鉄道での道中行路である。石川さゆりの歌ではないが、上野発の夜行列車から連絡船に乗り継ぎ函館へ。そして函館から目的地へと、すべてが鉄道の旅だった。あえて長距離を走る鈍行列車を好んで乗車したのもこのころである。鉄道が旅情も、人々の暮らしも、産業も、ありとあらゆるものを運び繋いでいた。使い古された言葉だが、鉄道は血管であり葉脈そのものと言い切れる。「北海道開拓」の歴史を考えると殊更そう思えて仕方がないのだ。
 それが年を追うごとに採算が取れないという大義名分によって、線路が消えていった。ボクが乗った線路だけでも、深名線、羽幌線、湧網線、名寄本線と枚挙の暇がない。なぜ線路は消えていったのか。車社会に代表される交通体系の変容だけではないだろう。それは国鉄分割民営化以降、鉄道の持つ公共性を採算性のみ追求する経済効率主義に置き換えた結果にほかならない。道内では唯一第三セクターで存続した旧池北線も今年廃止に。地域住民に膨大な維持運営経費を強いること自体が交通政策の貧困と失敗だったと断言できる。
 最近、渡道したのは三年前の夏。この時は青森ねぶたのついでに函館まで足を延ばした。八戸から特急に乗り継ぎ、青函トンネルを抜けるともう函館山が見えてくる。自宅を朝六時に出れば、昼過ぎには北の大地を踏めるのだ。その速さは、もはや飛行機なみ。センチメンタルな旅情など微塵もない。地元にとって長年の悲願であったことは容易に理解できる。ゆっくり走れとは言わないが、都市部への一極集中を加速させているだけと考えるのはボクだけだろうか。
 現在もローカル線は切り捨てられ、新幹線の開業は平行在来線の第三セクター化を強制している。大幹線であった東北本線、信越本線が分断されることを誰が想像していたか。また、国鉄線を引き継いだ三セクの多くも満身創痍の状態である。ともすれば国内から新幹線と主要幹線以外は引きはがされてしまうと言っても過言ではなかろう。
 どうやら地球に優しいはずの鉄道は、日本では人に優しくないらしい。鉄ちゃんのボクとしては、もう一度JRを鉄道本来の姿に戻したい。エキナカビジネスはもうたくさんだ。ボクにとって今でも鉄道は国鉄であってJRではないのだ。(雨)

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