| 辺野古・高江の闘いを支援しよう かけはし2007.10.1号 |
東京東部で現地派遣行動団報告集会
「本土」から駆けつけ「本土」に現場の息吹きを伝える運動を |
【東京東部】九月十二日、江東区亀戸カメリアプラザで、「沖縄辺野古海上基地建設阻止現地派遣行動団」報告集会が、沖縄の闘いと連帯する東京東部集会実行委員会によって行われ七十人が参加した。
最初に、「辺野古の闘いの記録(07年5月〜7月)とジュゴンの映像(7月10日)」を放映した。
次に、西川正夫さん(現地派遣行動団団長)が、八月二十五日から二十八日の四日間にわたる先遣隊としての四人の仲間の行動を報告した(別掲)。続いて古澤さん(東京東部労組)は「若者がたくさんいることにも驚いた。東京や大阪、名古屋など全国から、老若男女が入れ替わり立ち替わり参加しており、各自が与えられた任務を柔軟かつ献身的にこなしていることに驚いた。横浜から農業の習得にきている若者や、市民運動にかかわる若者など二十代の人たちが積極的に参加して、活発に議論するのは、他の運動ではめったにないことだ。そして、安次富さんや東恩納琢磨さんなど、中心になって闘うベテランが献身的でエネルギッシュに闘う姿を見せることで、連携し団結した組織的な闘いを繰り広げることができている」と報告した。
続いて、茅切秀也さん(地公労台東地区協)が「日米軍事再編が急速に進められる中、在日米軍基地の再編・強化を通して、沖縄が文字通りの軍事要塞へと変貌しつつあることを生活実感として感じた。『内なる琉球処分』として進んでいると指摘される事態をどう克服していくのか、改めて問われた」と発言した。
次に、山浦英二さん(地公労東部地協)は「米軍や自衛隊・国家権力と真っ向から立ち向かい、『アメとムチ』で分断された地元の人々と対峙して、厳しく苦しい状況を打開すべく、粘り強く闘い続ける原動力は、多くの素晴らしい仲間たちの存在であることを確信した。東京東部集会実行委に結集するわれわれも、その一翼を担うべく闘う体制の確立に向けて、仲間との議論と認識を共有化する一刻も早い取り組みの必要性を痛感した」と報告した。
そして、山浦さんは今後の東部での取り組みを提起した。
@沖縄での米軍基地強化の実態を知らせ共有化する。そして、駅頭宣伝や集会・デモの組織化。A現地行動への参加を。二年前は東部から二十五人参加したが、少人数でも持続的な派遣が必要。B闘争資金のカンパ。カヌー一台が十五万円。C首都圏での行動。東京にある調査事業行っている企業への抗議申しいれや防衛省への抗議。D海底貯蔵泡盛記念ボトルにオーナーとなり、闘いを支えていく。
最後に、「沖縄一坪反戦地主会・関東ブロック」の石塚さんが、「普天間飛行場代替施設建設事業に係わる環境影響評価方法書」に対する意見書への協力と十月二十七日に都内(水谷橋公園)で午後五時から、集会デモを行うことを報告し参加を訴えた。今後東部での具体的取り組みの強化を確認して報告会を終えた。この記事は46ページにもわたる詳細な報告集を参考にした。 (M)
西川団長の報告から
極限にまで達した疲労の中で阻止行動は続く
20隻を超える船
団で調査強行
六月九日の錦糸町駅情宣活動当日から、沖縄辺野古現地では連日二十隻を超える船団を組んで基地建設へ向けた調査の強行が行われている。また、東村高江の北部訓練基地のヘリパッド建設強行も同時に行われている。
高江での座り込み行動と辺野古での座り込みで阻止行動が分散され、人手不足の状態となっている。海上ではボートとカヌー隊で阻止行動をしているが、二十隻を超える船団による圧倒的な物量に苦戦している。辺野古からは、現地阻止行動への参加とボート購入の要請(ただし、私たちが到着したその日に全国のカンパによる新しいゴムボートが到着)が来ている。こうした中で、現地派遣を行い、その報告を受けて今後の取り組みを考えようとしてきた。そして、四人の派遣となった。
環境アセス事前
調査めぐる攻防
前回はボーリング調査をめぐる攻防だったが、今回は環境アセスメントの事前調査(脱法行為)で、大浦湾を含む百二十二カ所の調査地点が対象。調査範囲が広く、その調査地点もはっきりしていない。阻止行動も困難をきわめている。
東村高江地区は、北部訓練基地(ジャングル戦闘訓練センターとも呼ぶ)に隣接し、このいらなくなった約半分を返還予定。既存のヘリパッド二十二カ所のうち、七カ所が返還され、六カ所を増設。これが高江地区(150人)の人家を抱え込むようにつくられることになった。予定工期は七月一日から九月十五日、費用は約一億六千万円。しかも、米国で事故を頻繁に起こしているMV22オスプレイ(新型垂直離着陸機)用ではないかと言われている。ヘリパッドはヘリの離着陸地帯。このオスプレイ配備は、一九九九年辺野古を建設する際の秘密文書に書かれており、日本側が「刺激が強すぎる」として表現の削除を求めた。
この高江を含むヘリパットの目的は、敷地での人家を目標にした訓練ではないかと危機感を強めてこれまで建設に反対してきたが、建設強行に七月一日から座り込み阻止行動を行い、いったん座り込みを解いたところ、夜間に重機を入れられた。以降二十四時間態勢の座り込みを行っている。八月二十三日、作業員四十人で土嚢の運びこみを強行した。座り込み十人では対応し切れなかった。翌日、五十人の阻止隊で防衛。
辺野古阻止行動は、辺野古の事前調査強行とヤンバルの高江ヘリパット建設強行とが同時に行われており、部隊が振り回され、阻止側も疲れきっている状況になっている。
多くの人びとと
出会えた成果
「古いゴムボートが四十馬力、今度のが五十馬力。すごいなー」と言っている私たちに、「だからダメなんだ。相手より、『速く、強く』となったら、相手と同じになっちゃう。私たちは、平和を求めて、戦争に反対しているんだ、『強く』ではダメなんだ。だから、ケガもしてしまう。『弱さ』が力なんだ。今度、議論しなければ」と言って怒られたことが、特に印象に残った。
私たちは、今回は具体的な阻止行動に参加することはできなかった。しかし、肌で闘う姿を感じることが出来た。先遣隊として、土地勘、移動距離、宿泊地などの情報を得たこと。そして、多くの人びとと出会えたことが、何よりの成果だと思う。(報告要旨。文責編集部)
大江・岩波沖縄戦裁判報告会
出張法廷で「集団自決」の実態をリアルに証言
【大阪】大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会主催の報告学習会が九月十四日に開かれた。
出張法廷は九月十日に非公開で開かれ、支援連絡会事務局からは四人が参加し、全体の報告は参加者の西浜さんが行った。
密室法廷だから、マスコミも中には入れなかったが、沖縄の新聞は九月十日の夕刊・翌日の朝刊とも「軍命令の存在」、「戦隊長下の軍命を証言」を一面トップで報じた。証言したのは渡嘉敷島出身の金城重明さん。以下は被告・岩波側弁護団提供資料による。
軍命令が引き
起こした惨事
一九四五年三月二十七日、渡嘉敷島の住民に北山に集結せよと軍命令が伝えられ、二十七日夜通し歩いて、二十八日朝にはそこに何百人もの住民が集まった。軍命令が出たようだという話が伝わり村長が「天皇陛下万歳」を唱える前に、軍陣地から伝令の防衛隊員がきて、村長の耳元に何かを伝えたとのことだが(吉川勇助氏の陳述書)、軍の自決命令が伝えられて、村長が号令をかけたことが分かった。
米軍上陸の一週間前に兵器軍曹が役場にきて手榴弾を事前配布し、「手榴弾を一人二個ずつ渡し、一個は敵に、もう一個で死になさい」と訓示していた(家永裁判での証言の前に兵事主任の富山真順氏から直接聞いた)。自決の当日にも手榴弾は防衛隊長が配っている。
村長の号令の後、住民は手榴弾で自決したが、不発のものが多く、これが悲惨な殺し合いの原因となった。肉親同士がこん棒や石で頭をたたいたり、ひもで首を絞め、鎌やカミソリで頸動脈や手首を切るなど、あらゆる方法で命を絶った。夫が妻を、親が愛する子どもを、兄弟が姉妹を手にかけ、自分で死ぬことができない幼い者、老人から命を絶っていった。
住民は軍の命
令で自決した
その後、兄と私が、どちらが先に死ぬかという話をしているところへ、十五、六の青年が駆け込んできて、日本軍と斬り込みに行くというので、たとえ殺されても斬り込もうと決意。その途中で、日本軍の兵隊に出会った。住民は軍と運命をともにし、自決したと思っていたので、なぜ住民だけがひどい目に遭わなければならないのか、軍に裏切られたと感じた。渡嘉敷島では、「集団自決」で生き残り、米軍の治療を受けた少年二人が、捕虜になることを許さない日本軍に殺された。
住民は逃げ場のない島で、日本軍の命令で軍の近くに強制的に集められ、軍の圧力・強制により玉砕しなければならないように追い込まれ、軍の自決命令を待った。そして、自決命令が出たと言う話が伝わり、村長は住民に自決命令を伝えた。住民は軍の命令によって自決したのであり、その責任者は赤松隊長である。
二〇〇八年度から使用される高校の歴史教科書の検定で、軍の強制があったとする記述を削除するようにという検定意見がついたが、これは文科省の暴挙というほかない。
これが証言の概略である。
弱すぎるヤマト
での取り組み
九月九日の前日集会では、岡本厚さん(岩波書店)が「裁判を起こしたのは原告の二人ではなく自由主義史観グループだ。原告には沖縄住民が被った悲惨な事実に思いをいたすことが全くなく、自分の名誉のことだけを考えている。今回の事件では、一九九五年の少女暴行事件のときと比べヤマトの対応が弱いのではないか」と、気合いを入れてあいさつをした。
十日の法廷前も、高裁那覇支部前で集会をもって、金城重明さんを送り出した。法廷終了後の報告会では、金城さんは非常に苦しかったであろうに詳しい報告をしてくれた。金城さんは、詳しく聞き出そうとする原告側の反対尋問により針のむしろに座らされたのだった。尋問は被告側主尋問が五十分、原告側の反対尋問が六十分、主尋問五分だった。原告の梅沢・赤松は沖縄出張法廷には来なかった。
参加者の報告の最後に、事務局長の小牧さんが、裁判提訴されてから現在までの流れを簡潔にまとめて報告をした。そして、支援連絡会として、傍聴をしっかりやってきたこと、出張法廷を開かせたこと、首都圏の会・沖縄と連携しながらやってこれたことがよかったと付け加えた。
続いて、謝花直美さん(沖縄タイムス編集委員)が、「『集団自決』(強制集団死)問題キャンペーン取材から」と題して講演をした。
裁判を仕かけた
自由主義史観派
この事件の発端は二〇〇五年五月の自由主義史観グループによる沖縄プロジェクトである。裁判は同年8月に提訴された。彼らは、「あらゆる手段でウソをなくす」とうそぶき、「『集団自決強要』は、旧軍のみならず、それに連なる日本人、日本の国に対する侮辱である」(藤岡信勝代表)という。こんなことよく言えるなと思う。「集団自決」については沖縄のマスコミの中でも意見がまとまらず、今まで慰霊の日の企画でも集団自決は取材していない。特に慶良間を遠巻きに取材してきた。「鉄の暴風」は細かいところで不十分のことがあったとしても、あの早い時期に住民の視点で当時の状況をよく伝えている。沖縄タイムスの「集団自決」問題キャンペーンは、沖縄プロジェクトの直後からで、まず「集団自決」の取材から始めた。美しい死とは別の現実があるはずだ、当事者の話を直接聞かなければと思った。証言企画「命語いー美しい死を超えるために」はできるだけ長く続けようと思っている。
死者の声に耳
を傾ける報道
謝花さんは、集団自決のときの写真を大判で載せるとき、読者は紙面をさけるのではないかと躊躇があったが、読者からの感想で不安は杞憂に終わった。「人々の命の最後の瞬間を記録した写真で、この人たちは遺体となった姿をさらしながら、『私たちを忘れるなと訴えている』と」。使者の声に耳を傾けることが沖縄戦報道を続ける原動力になると確信したという。
謝花さんは、慰霊の日に渡嘉敷で漂っていた線香のにおいのこと、八歳と五歳の二人の娘をなくした渡嘉敷島の北村登美さん(97歳)や与那嶺英吉さん(70歳)の話。父が座間味の助役だった宮里峰子さんのことを語った。英吉さんの父・徳さんは漁師をしていた。家族全員「集団自決」の現場・北山に行ったが生き延びた。その後八月十五日を山中で迎え下山し、米軍に投降した。翌日米軍から渡された日本軍に投降を呼びかける文を持って、残してきた父母を迎えに山中に入ったが、家に宿泊していた日本兵に連れ去られた。三年後縄で縛られ白骨化した二人の遺体が掘り出され、金歯と帽子、ベルトからひとりは徳さんだとわかったという。
米軍は住民を虐殺すると信じ込ませ、投降させず、集団自決に追いやる。集団自決から生き延びてもスパイとして殺害したのである。英吉さんは、一九七〇年に沖縄にきた赤松元隊長に会った折、「父のことを覚えているか。『集団自決』のことを覚えているか」と憤りながら追求したが、覚えていないの一点張り。後で詫び状が来たが、腹が立ち破り捨てたということだった。
裁判の決定的
勝利かちとれ
謝花さんは、今後の報道の三つの柱として、裁判の決定的勝利の必要、検定問題の経過の検証、沖縄戦報道の継承の三点をあげた。そして、一九八二年に住民虐殺で歴史の歪曲と教科書の書き換え事件があってから4半世紀たって起きた今回裁判と「集団自決」書き換え事件。同じことが三たびあっても当事者はいなくなっているから、対応が難しいだろう。このことを考えると、今度の裁判では決定的な勝利が必要だと強調した。
この後、質疑応答と意見交換があった。その中で、七月二十七日徳永弁護士の反対尋問で軍命と隊長命令の違いを訊かれた宮城晴美さんが、「軍命は住民を内面支配することだ」といったことが非常に的確な答えで、徳永弁護士もつぎの言葉が出なかったという報告があった。もうひとつ、九月二十九日予定されている沖縄県民大会については保革一致で取り組みが進んでいて、基地問題では見解を異にしていても教科書検定問題は許せないと県知事は県職に参加の依頼をしたこと。検定意見の撤回と記述復活を求める議会決議が四十一市町村であげられ、それを受けた県議会決議をもって東京に行ったが伊吹文科相は会おうともしなかった。そこで、新たに二度目の県議会決議があげられたという報告があった。この問題は沖縄固有の問題ではないから、ヤマトの新聞にももっと広めようとの提起があった。 (T・T)
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