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映評「ヒロシマ・ナガサキ」ステイーブン・オカザキ監督作品                                     かけはし2007.9.3号

白い光、黒い雨、あの夏の記憶

「人間らしく生きることも死ぬこともできなかった」
インタビューが描き出す原爆の実態

本当に知られて
いない被害の実態

 日本の平和教育や原水禁運動には、加害者責任の意識がないと批判されるようになった。そのような過程を経て、今では加害と被害の両方から扱うようになってきている。この批判はもちろん的を射たものである。
 その立場であらためて原爆問題(戦争問題や沖縄問題も)を考えてみて思うことだが、加害はおろか、被害の実態すら本当はよく知らなかったのではないか。戦争がどんなものかを、本当は知らない。だから非常に抽象的・主観的に頭の中でつくられたイメージが語られることが意外と多い。戦争を体験していない世代ではなおさらである。
 自由主義史観グループなどがその傾向を後押ししている。北朝鮮の核実験を発端に日本の核武装を平気で口にする政治家たち、いくら日米同盟が重要だとしても集団的自衛権を軽々に容認する発言、久間元防衛相の広島長崎原爆しょうがない発言。仮に彼らが政治的に発言をしたとしても、本当に被害の事実を知っていたとは思えない。

8月6日って
何の日ですか

 この映画はスティーブン・オカザキ監督の作品で、原爆の被害を扱ったドキュメンタリーである。最初に、当時の米国のニュース映画のモンタージュを使って日本軍の中国侵略の様子が、続いて真珠湾攻撃の映像が映し出される。そして、ルーズベルトが対日戦争宣言する様子、連合国軍の反攻、上陸作戦や硫黄島にたてられる米国国旗、七月十六日米国が核実験に成功したニュース、トルーマンの原爆投下の命令、原爆投下の準備から投下までの様子が映し出され、米国から見た太平洋戦争の歩みが簡潔に解説される。
この後、映画の題名「白い光と黒い雨」の文字が映り、原宿で演奏するバンドやインタビューに答える若者が登場する。「八月六日は何の日ですか」の問いに、全員知らないと答えたのには本当に驚かされた。でもこれが現実なのだろう。

真実を知ること
が何よりも大切

 この後、被爆しながら奇跡的に生きのびることができた十四人のインタビューが続いていく。彼らは、現在の街角で当時の写真を持って立っている。そして静かに自分が体験したことを語っていく。在校生六百二十人のうち唯一生き残った少女。原爆が炸裂したとき十三歳だった少女、「私、よく考えるんですよ。もし被爆しなかったらどんな人生だったのかなって」と。
 「はだしのゲン」の作者中沢啓治さんは、「記憶はバッチリ残っている。恨みなんかなかったです。どうやって生きていこうか、そればかり考えてずっと戦後生活してきた。憲法9条、最高にいい憲法をもらった。これはどんなことがあろうと守らなければいけない」と語る。
 当時小学一年生だった少女は、「一年生の時戦争が始まって、ずうっと戦争の中、恐怖と逃げ回っていた記憶しかないです。原爆で死んだ妹の名前を今も呼ぶことができない」と。広島陸軍病院に勤務していた元陸軍軍医は、「いくら政府が勝った勝ったと言っていても、国民は日本の国が負けかかっていることはだんだん感じていた」と。
 在日コリアン被爆者は、「戦時中日本は朝鮮の米を全部取り上げ、食べるものがなかったので、食べていくために日本に来て、原爆にあった」と語った。自転車に乗って配達しているとき被爆した、当時十六歳の郵便局員。「被爆直後、水をあげたらとたんに死んだ、二人を殺してしまった。水くみに行ったとき、黒い雨が降った」と語る被爆者。「手がない人、足がとんでいる人、頭が割れて脳みそが飛び出している人、お腹がはじけて内蔵が飛び出して死んでいる人、おばさんのおんぶしている赤ちゃんの首がない……。炭素化してそのまま死んでいる人」。「玄関の入り口の方に座っている死体は、目がすとんと空洞で、金歯が一本あったので、これが母だと思った」。
 これらのインタビューがこの映画の主要な部分である。

喜んだ者は誰
もいなかった

 広島への原爆投下に参加した飛行機は三機、一機はウラン原爆リトルボーイを積んだB29エノラ・ゲイ、二機目は観測機械を積んでいた、三機目は原爆のようすを撮影するための飛行機だった。二機三機目があったことに、変な言い方だが、さすが米国だ、今後の目的を見据えてやっているなと感じた。
 原爆は飛行機から離れて爆発するまでに四十三秒かかるとされていたため、飛行機の搭乗員たちはカウントダウンするが四十三まで数えても爆発しないので、一度は失敗だったと思う。ところがその直後機内全体が真っ白な光で満たされ、地上に土煙のカーテンが広がっていくのが見え、全員が呆然としたという。当時の搭乗員は、「喜んでいるものはだれもいなかった。そんな気分じゃなかった」と答えている。
 トルーマンは、全米にラジオ放送し、広島に投下された一発の原爆で都市が壊滅したことを告げ、同様の爆弾が現在生産されていることを告げる。そして、プルトニウム原爆ファットマンを積んだB29が三日後の長崎に向かう映像が映る。原爆が炸裂した直後の様子を映した写真や映像は米政府によって二十五年間公表を禁じられたものである。この長崎原爆は、トルーマンの言葉にあるように、日本に敗戦を強いるためには必要ではなく、全く実験的な投下であったことがわかるであろう。

アメリカにとって「敵国日本」とは

 敵国日本を米国がどう見ていたのかも、当時の海軍向け映画のモンタージュで映し出されている。
 神である天皇ヒロヒトはアマテラス直系の子孫で、天皇による世界支配が真意であるとされていること、戦死した者は靖国に祀られ永遠の命を得ると信じられていること、兵器は近代的でも彼らの思考回路は二千年も時代遅れであるなど、が語られる。
 八月十五日トルーマンは、八月十一日に送った通達の返事が届き日本が無条件降伏したことを告げる。世界中が歓喜し、終戦を祝う人々が街に繰り出し、タイムズスクエアの人出は二百万人だったとのテロップが流れる。「戦争を終わらせるために原爆が使われた。同情も後悔も全くない」と当時観測機に搭乗していた科学者は言うが、エノラ・ゲイに搭乗して原爆を実際に投下した元兵士は、「原爆は計画どおり爆発し、戦争の常で人が殺された」と語り、感じ方の若干の違いを映し出す。

体も心も傷つ
いたまま60年

 映画は、原爆被疑者の後遺症についても、多くの証言を語っている。「化膿が完全に止まった後、皮膚をはぐと血がわっと出てきた」。「私の顔は黒いボールだった」。「ガーゼをはずしてくれるんですが、失神するんです。昼は治療、夕方はウジにかまれていたかった」。「病院の車で駅まで送ってもらい、家に着いた途端、もう外に出る気がなくなった」。「特にやけどが見当たらない、何とかなりそうだという人の中から原爆病が出てきて、どんどん人が死んでいった」。「妹はものを言わない子どもになって、とうとう貧しさに負け、病気に負け、疾走してくる列車に飛び込んで死んでいった」。「進駐軍が来たとき、なぜ私たちの母を、姉を、兄妹を、何も悪いことしていないのに何で殺した、と言ったが、日本語などで通じなかった」。

治療はされなかっ
た「空白の10年」

日米の学者が放射能の影響の研究を始め、原爆障害調査委員会が設けられたのは一九四七年で、十万人を調査した。原爆投下直後の死者は広島十四万人、長崎七万人、その後さらに十六万人が原爆が原因で死亡した。被爆者は、検査をされるが治療はされなかった。
 「私たちはせっかく生き残っても、人間らしく生きることも、人間らしく死ぬこともできませんでした」。「国はいつまでも被爆者対策をしない。政府が戦争を始めたのだから、その治療も含めて政府が責任をもって被爆者対策をするのが当たり前じゃないですか」。
原爆被害者の日本人女性二十五人が、米国諸団体の招きで無償の外科手術を受けに、ニューヨークに到着。「原爆乙女」を引率した牧師がテレビ出演する。これも米国的だ。そして一年の治療の後帰国する。
 「被爆者のその後の人生で、体のあちこちに腫瘍ができる」。「結婚するときは障害になるのが今も現実だ」。「原爆落ちて六十年経つけど、一日も忘れたことはない」。「つらいですね、見られると言うことは」。「弟妹にごめんなさいと言っても、生き返ってこないし」。被爆者は、体の傷と、心の傷、両方の傷を背負いながら生きていることが、淡々と語られていく。

核兵器の即時全面
廃絶をめざそう

 映画の最後に、当時の飛行士が「何人か集まるとバカなやつがこういう。『イラクに原爆落としゃいいんだ』って。核兵器が何なのかわかっちゃいない。わかっていたら言えないことだ」と、告白する。そして、現在世界には広島型原爆四十万発に相当する核兵器がある、とのテロップが流れ、映画は終了する。
 結局、語られていることは、米国の落とした原爆ではなく、核兵器そのもの。広島長崎の原爆記念日に首相がいう、唯一の被爆国として憲法を遵守し核廃絶に向けて努力すると言う言葉がむなしく感じられる。拉致問題も重要だが、それ以上に、北朝鮮の核に反対するだけではなく、米国を初めとする核保有国の核に反対しその廃絶に取り組むことを正当に主張することが今こそ求められている。(津山時生)


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