もどる

第四インターナショナル国際委員会報告          かけはし2007.8.13号

岐路に立つ世界社会フォーラムの課題

ナイロビWSFを超える闘うネットワークの創出を



 ここに掲載した論文は今年二月に開催された第四インターナショナル国際委員会で同志ユベールが報告した内容にその後の経過に即して若干の補足を加えたものである。一月のナイロビ世界社会フォーラムはWSFプロセスがアフリカの現実と結びつき、真にグローバルな変革への歩みを進めていく上で大きな意義があったことは言うまでもない。しかし前号に掲載したケニア「人民議会」活動家とのインタビューにも示されているように、そこには「商業化」や貧者の排除などの深刻な問題が明らかになった。それはWSFプロセス全体が、「グローバリゼーションの人間化」という「社会自由主義」的力学にさらされていることの現れでもある。この攻防局面の中で、社会運動のグローバルな連携のレベルアップが求められている。(本紙編集部)

地球的規模で発展したWSF

 新自由主義グローバリゼーションを象徴する制度的諸機関に反対し、二年間にわたって続いた大動員の後に創設された世界社会フォーラム(WSF)は、二〇〇一年一月後半、ポルトアレグレでややつつましやかに始まった(参加者は1万5千人)。このプロセスは、最初にラテンアメリカとヨーロッパで(第1回の欧州社会フォーラム〔ESF〕は2002年11月にフィレンツェで開催)きわめて急速に確立し、ついで二〇〇三年には南アジアに及んだ(第1回アジア社会フォーラムは、2003年にハイデラバードで行われた)。
 WSFの離陸は、反グローバリゼーションの大衆的動員のさなかで行われた。一九九九年十一月のWTOに反対するシアトルでの闘い、二〇〇〇年四月のワシントン、二〇〇〇年九月のプラハにおけるIMFと世界銀行に反対する闘い、そして忘れてならないのはニース(フランス)とイェーテボリ(スウェーデン)での新自由主義的欧州に反対する闘いである。この高揚は、第一回世界社会フォーラム以後も継続した。二〇〇一年四月のケベックでの米州諸国サミット、二〇〇一年七月のジェノバG8に反対する動員がそれである。
 二〇〇一年9・11事件は、この動員を抑えこむことができず、二〇〇二年十一月のフィレンツェでの巨大な動員の成功、そしてとりわけ千二百万人以上のデモがイラク侵攻の準備に抗議した二〇〇三年二月の動員によって、運動の中心に帝国主義戦争に反対する闘争を据えることになった。第四インターナショナルの諸組織と他の革命的諸組織は、こうした反グローバリゼーションの動員とWSFプロセスに全面的に参加した。
 数の面から言って最大の参加を勝ち取った二つのWSFは、二〇〇四年一月のムンバイ(14万人が参加)と二〇〇五年一月のポルトアレグレ(15万人が参加)だった。たとえ戦争、IMF、WTOに反対する動員の低下について指摘することができたとしてもである。WSFプロセスは数年間のうちに、ラテンアメリカ、ヨーロッパ(ロシアを含む)、アジア(おもにインド、パキスタン、フィリピン、韓国、タイ)、北米(第1回アメリカ社会フォーラムは、2007年6月27日から7月1日までジョージア州アトランタで開催された)、マグレブ(アラビア語圏の北西アフリカ)をふくむアフリカなど、世界の多くの地域で発展した。大きな欠落は中国であるが、この国での弾圧状況から見て短期的にそれがどのように発展するかを予測するのは困難である。それでも、中心からはずれた香港では二〇〇五年十二月にWTOに反対する注目すべき動員が見られた。

「幅広い政治勢力」の結集

 WSFプロセスに参加している政治勢力の幅はきわめて広い。それは社会民主主義ないしはキリスト教民主主義の体制的役人から、革命的諸勢力にまで広がっている。
 その間には大きな労働組合連合(ICFTU〔国際自由労連〕、現在はCISに再編されているCMT―WCL、そして忘れてはならないのはEUTC〔欧州労連〕)、反グローバリゼーション運動が闘っている相手である国際金融機関との対話を支持し、上述した労組連合とともに「グローバル・コンパクト」(国連、超国籍企業、労組指導部、NGOの後援を得ているグループ)(注1)の一部を構成しているNGO、ラディカルな社会運動(ビア・カンペシーナ、韓国の民主労総、漁民組織、COBAS、SINOBAS、「南」の連帯)、ラディカルな諸運動とキャンペーン(反戦運動、反債務運動――ジュビリー・サウス、CADTM――、反WTOキャンペーン、世界女性行進やエクアドルのCONAIEのような重要な先住民族運動は言うまでもなく)がある。
 もちろんWSFは、資本主義的・家父長制的グローバリゼーションに反対して動員を行っているすべての勢力を動員しているなどと主張してはいない。まったく参加していない人々の例としてはサパティスタを挙げよう。

国際評議会内の右翼的変化

 約百の組織を結集したWSF国際協議会(IC)の中では、一貫した緊張が見られた。グローバリゼーションの「人間化」は可能だと思う人びとと、現にあるグローバリゼーションに対して闘う人びととの間の緊張である。後者の人びとは「グローバル・コンパクト」のようなイニシアティブに参加することを拒否し、新自由主義政策を追求し、帝国主義戦争(とりわけアフガニスタンにおける)に参加する中道左派政権への支持を拒否することで、資本主義の新局面に対して闘わなければならない、と主張した。
 前者の陣営にいるのは、大労組連合の指導者、いくつかのNGO、とりわけWSF事務局を担っているブラジル委員会で主導的役割を果たしている組織(IBASE、CIVES、正義と平和委員会など)、欧州、アフリカ、南アジアのNGOと教育運動(欧州では、Tavola per Paceace、Caritas 、CCFID、Ubuntu、最近ではARCI、アフ リカでは南アの労組連合組織であるCOSATU)である。
 こうした部分は、ルラ(ブラジル大統領)、サパテロ(スペイン首相)、最近ではプロディ(イタリア首相)や、インドの三つの州(西ベンガル、ケララ、トリプラ)で政権の座についており、デリーで中央政権の座にある国民会議派を閣外から支持しているインドの二つの共産党(CPIとCPI・M)を支持することをためらってはいない。彼らは社会主義インターナショナル、欧州社会党と定期的な会合を持っており、国際金融機関と「世界のガバナンス」を改革するというプログラムを押し出している(注2)。
 ルラ政権の方針と連携したブラジルCUT(統一労組センター)の変化(それは南ア政府の新自由主義政策に対して融和的態度を取っているCOSATU〔南ア労働組合会議〕に対比しうる)は、この第一の陣営を強化してきた。

社会運動間の調整の困難さ

 ラディカルな諸勢力は、可能なところではどこでもWSFの民衆的基礎を強化することを目指してきた。彼らは、グローバリゼーションに対決する強力な動員を支持しようと試み、ある時にはそれに成功した(2003年2月の反戦動員へのアピール)。こうした勢力は、社会運動総会の力学を支持してきた。世界レベルでも大陸レベルでも各フォーラムで開催された社会運動総会は、最終宣言を採択し、行動のカレンダーを発展させてきた。社会運動総会は、浮き沈みはあったものの、二〇〇六年と二〇〇七年に成功の広がりを経験した(2006年5月にアテネで開かれた第4回ESFの社会運動総会には3千人が結集し、2007年1月にナイロビで開かれた第7回WSFの終わりに開かれた運動総会には2千人以上が結集した)。
 しかし社会運動の調整機能は依然として弱体であり、参加している社会運動とキャンペーンは、依然として克服することが困難な障がいに突き当たっている。国際的規模ではいまだ余りにもバラバラな闘争の統一に、どのようにすれば成功するのか。戦略についての討議をどのようにリードするのか。例えばルラ政権やプロディ政権との関係で採られている態度に関して、こうした諸運動間の違いが現れている。

ナイロビのバランスシート


 バランスシートは入り混じったものであり、いくつかのきわめて否定的な側面が登場している。将来の別のWSFにおいてこうした特徴が刻まれることになれば、このプロセスは存在意義を失うことになるだろう。
 否定的要素に触れる前に、今回のナイロビWSFが、アフリカのさまざまな地域から新自由主義に対決する意思を確認するために集まったアフリカの諸運動の国際的会合としては最大のものであったということに言及しよう。さらにさまざまな運動とキャンペーンは、このフォーラムから彼らを団結させる闘いの連携を築き上げるという成果をかちとった(恒常的な運営委員会を創設した債務キャンペーンの共同決議を参照)。
 ナイロビのフォーラムは一万五千人から二万人の参加者を結集させた。ケニアの特質を考慮すれば、ムンバイ(14万人)やポルトアレグレ(15万人)に匹敵する数を期待するのは不可能だった。正しい認識を持てば、ナイロビのWSFに三万人から四万人を結集することはおそらく可能だったが、それも確かなことではない。ナイロビのWSFは商業化と軍事化を強力に刻印されたものであり、住民との関係では排除というやり方をもったものとして認識された。

一部NGOに権力が集中


 簡潔に述べよう。今回のフォーラムは壮大な錯覚に彩られていた。フォーラムの組織者は十万人を結集させることができると信じていた(彼らは報道機関に対して10万人から15万人が参加すると発表していた)が、手が出せないほどの高料金を定めていた。
 五百シリング(約6ユーロ、960円)という、ケニア人の一週間分の最低賃金にあたる額が要求された(それは圧倒的多数のケニア人が三、四人を養える収入である)。こうした決定は、多数のケニア住民の生活条件との接点が完全に欠如していること、あるいはこうした人びとの参加への関心が欠如していることを意味するものである。
 ケニア組織委員会の内部では一部の人びと(三つないし四つのNGOの指導者)に権力を集中し(この中枢との関係では公式に距離を取っていたケニア社会フォーラムの全国コーディネーターであるオニャンゴ・オルーは、WSFの開催から二カ月後に、教訓的な分析を述べた文書を刊行した)、ケニアのすべての社会運動に開かれたプロセスの組織化を真に追求しようとすることのないままに、ほとんどの重要な決定を行ったのである(「人民議会」が書いたバランスシートも参照せよ)。
 こうした高額の入場料を強制する決定は、委員会内部でさらに批判されたが、無駄に終わった。決定を独占した少人数からなる中枢部は、アフリカ社会フォーラム事務局の一部の人物(主に、セネガルのダカールに本部があるNGOのENDA―ティエール・モンドの指導部)、ブラジル事務局の二〜三人(2、3のNGOの代表)、一部のヨーロッパのグループが支持していた。真の権力を集中していたのは、この少人数の人びとだった。
 壮大な錯覚に戻ろう。組織委員会は、巨額の費用をかけて十万人以上を収容できる巨大なスポーツ・コンプレックス(複合施設)のインフラすべてを借り入れたが、市の中心にある大きなスタジアムの一つ(1万5千人から2万人の収容能力)か、このスタジアムの近くにある多くの公園でもWSFの開催は可能だったはずだ。ナイロビWSFの組織者が選んだ巨大な複合施設は、市の中心から十キロ以上離れた住宅街に位置していた。
 このコンプレックスの中で食べものを売りたいと考えていたグループが支払わなければならない費用もまた手が出せないほと高かった(3万から6万シリング)。WSF参加者に提供された食事の価格もまた手が出せないほど高額だった(欧州諸国、北米、日本からの参加者とNGOや労組の専従メンバーを除いて)。
 一食の価格は平均で三百シリングから四百シリング(6百円以上)だった。会場には無料の飲料水はなく、半リットルの飲料水のボトルが五十シリング(約百円)で売られていた(それは市内のレストランの1食分の価格に相当する)。さらにスタジアムの中では、幾つかの豪奢なレストランが開設されており、その一部は内務相が所有しているものだった。彼は弾圧政策と、イギリスの植民地権力の協力者としての過去で有名な人物である(彼は、独立のために闘っていたマウマウ団の弾圧に積極的に参加していた)。
 さらに組織委員会は、アフリカの電話通信超国籍企業であるCELTELとスポンサー契約を結んだ(参加者の登録とすべての通信は、広告を出しながらフォーラム会場のどこにでもいたこの民間企業を通じて行われた)。スタジアムの治安警備は警察と軍が行った。ケニア人参加者の一部は、入場料を払わなかったという理由だけでスタジアム内の狭い部屋に長時間勾留された。

社会民主主義的なトーン

 開会セッション(閉会セッションも同様)のスピーチの調子は、基本的にグローバリゼーションの人間化に焦点を据えたものだった。開会式典に参加した八千人から一万人の人びとは、CISの事務局長ガイ・ライダー、Tavola per la Paceの フラビオ・ロティのスピーチに続いて、ザンビアの前国家元首(大統領)ケネス・カウンダの四十五分間に及ぶスピーチを、怒りを抑えて耐え忍ばなければならなかった。要するに、きわめて社会民主主義的なトーンが支配的だったのである。
 国際評議会(IC)の決定に反して、ナイロビWSFの組織者たちは諸運動間の合流を支持しなかった。一つだけ例を挙げよう。WSFの四日間は、諸プラットフォーム、共通戦略、共通行動のカレンダーの採択ができるようにするものと認識されていたが、組織者たちは二十一のテーマ的に異なった集会を計画した。
 キリスト教会を背景にする大NGOが大きな位置を占め、その一部は女性の中絶の権利に反対し、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)に反対する立場を主張した。
 幸いなことに、これに対して反対なしではすまなかった。社会運動の調整委員会の幾つかの構成要素(注4)による行動は、ナイロビWSFが否定的なバランスシートで終わるものではなかったことを意味している。
 第一日目からの社会諸運動の幾つかの会合は、共通の態度を決定し、社会運動総会を準備することに成功した。ケニアの人びとからの要求であった手が出せないほど高額の入場料を受け入れないということについては、即時の合意が成立した。ケニアの人びとが望むならば無料で入場させるという協定が、組織者との間で結ばれた。組織者たちの拒否に直面すると、料金を支払わないで入場を望むケニアの人びとには、スタジアムの扉を開くという対策が取られた。
 またわれわれは、「人民議会」がWSFの最初の三日間に、ナイロビの中心にある公園でオルタナティブ・フォーラムを組織したことにも言及すべきである。毎日数千人が参加した。その後「人民議会」は、四日目の社会運動総会に合流した(注5)。WSF組織委員会は、社会運動総会は四日目の午前九時半に、通訳なしで開くことを計画した(それは明らかにサボタージュの試みだった)が、実際にはその日の終わりに二千人の参加者をもって行われたのである。参加者たちはWSFを統一した戦闘的精神でもって締めくくったのである(社会運動の最終宣言参照)。
 WSF国際評議会(IC)は、WSFをなんとか切り抜けた直後に二日間にわたって開かれた。バランスシートに関する批判的あるいは自己批判的な意見の数は、きわめて限定されたものだった。全体で約五十の発言のうち、批判的意見は六から七だった(国際評議会の報告参照)。五月二十九日から三十一日までベルリンで開催される次回のICは、次のWSFの組織化の実践コードを採択するだろう。

積極的参加を追求


 われわれは国際評議会の右傾化を、依然として積極的な全体的プロセスから区別すべきである。欧州社会フォーラムの力学は、公共サービスの民営化に反対し、社会的諸権利の憲章などを支持する闘争を統一することができる全欧州的ネットワークの強化を可能にしてきた。フォーラムの準備過程は、準備のための総会の定期的会議によって、民主主義的なものであり続けている。
 南アジアでは、WSFの力学はインドとパキスタン(そしてそれ以外の諸国)の戦闘的勢力間の連携を強化してきた。ラテンアメリカでは、アメリカ諸国の社会フォーラムが、FTAA(米州自由貿易協定)、プラン・コロンビアなどに反対する闘いを強力に方向づけてきた。われわれは二〇〇七年六月後半に開催される第一回米国社会フォーラムから生み出されるものを見ることになるだろう。
 二〇〇八年には、どのような形態でも世界社会フォーラムは行われず、それに替わって二〇〇八年一月二十六日、二十七日を中心にしたグローバル行動デーが行われる。第八回世界社会フォーラムは二〇〇九年に行われ、場所は国際評議会によってすぐ決定されることになっている(編集部注:2009年の世界社会フォーラムはブラジルのアマゾン河口で開催される)。
 それが反グローパリゼーション運動のアルファからオメガまでを構成するものではない――まったくそうではない――にしても、世界社会フォーラムの力学への積極的参加を追求することが重要なのである。

(注1)「グローバル・コンパクト」は、二〇〇〇年六月に国連事務総長の提案によって始まった。そこには百の超国籍企業、千にのぼる他の民間企業がNGOとともに参加しており、このような形で新しい「ワールド・ガバナンス」に擬されている。そこには新しい国際的な労組連合、アムネスティー・インタナショナル、ヒューマン・ライツ・ウォッチ、トータル・エルフ・フィナ、バイエル、ユニリバー、英国石油(BP)、シェル、ネッスル、ナイキなどの大企業とともに参加している。
(注2)ポルトアレグレでの第五回世界社会フォーラムの期間中、ICFTU(国際自由労連)、CMT(現在はCISにに再編され、一億六千万人のメンバーを擁している)は、WSFに参加できるようにするために欧州社会党と社会主義インターが創設したNGOである「グローバル進歩フォーラム」と協力して、「グローバリゼーションの社会的側面」をテーマに十一の会合を組織した。二〇〇六年に「グローバル進歩フォーラム」は、討論ぬきでWSF国際評議会のメンバーとして認められた。
(注3)組織委員会が提出した公式のバランスシートでは五万六千人が参加したとしているが、それは事実ではない。
(注4)反債務キャンペーン(CADTM〔第三世界債務廃棄委員会〕をふくむ)、反WTOキャンペーン、南アフリカの社会運動インダバ、NGO、幾つかのATTAC運動、世界女性行進、No Vox運動(持たざる者の国際連帯)など。ケニアの「人民議会」も忘れてはならない。
(注5)このラディカルな社会運動は、またスタジアムでの食べものの値段が高すぎることに反対してデモを組織した。四日目、この運動の一部のメンバーは、五つ星レストランの一つを強襲し、彼らとともにいた数十人のストリートチルドレンたちに食べものを無料で配った。
(「インターナショナルビューポイント」07年7―8月号)


もどる

Back