原水禁、ポーランド・日韓連帯
社会主義理論への大きな貢献 |
幅広い分野で
多面的な活動
七月二十五日、東京の文京区民センターで「前野良先生を偲ぶ会」が開催された。前野良さんは、さる五月十八日に九十四歳という高齢で亡くなった。
アントニオ・グラムシの研究で知られるマルクス主義政治学者である前野さんは、長野大学、静岡大学、法政大学、東京経済大学などで教鞭を取る一方、長年にわたって原水禁国民会議の代表委員をつとめるとともに、一九八一年以後、ポーランド資料センターの活動を通じてポーランド「連帯」との実践的連帯や、その闘いの現代的意義を紹介する理論活動など、幅広い分野で労働運動・市民運動にかかわってきた。彼は晩年、市民の反原発・反核兵器運動のグループである「たんぽぽ舎」の顧問をつとめていた。
前野さんは一九四五年八月に一兵卒として動員されていた広島で、被爆者の救助活動に従事して自らも被爆した。彼の反核・平和運動の原点はここにあった。彼はまた、母校の九州大学教員に奉職する誘いを断り、戦後すぐ日本共産党本部の専従職員として革命運動に挺身した。一九五六年のスターリン批判以後、前野さんはスターリン主義を批判する立場からの社会主義研究を目的に、大内兵衛、小林良正、今中次麿、渡辺良通、井汲卓一、松本七郎などの諸氏とともに「社会主義政治経済研究所」を創設した。前野さんが日本共産党の綱領論争の中で反対派としての旗幟を鮮明にし、一九六一年に党を除名されたのは、そうした活動のゆえであった。
一九八〇年代の「世界革命」紙上でも幾度か前野良さんの寄稿やインタビューが掲載されている。一九八一年十二月のポーランドにおけるヤルゼルスキの戒厳令の直後、一九八二年一月十三日に開催された「ポーランド政治革命連帯 第四インター政治集会」では、前野さんに連帯発言をしていただいた。
グラムシ研究と
ポーランド連帯
前野さんの闘いの生涯を偲んで、「会」には百十人の人びとが参加した。原水禁議長の市川定夫さんが開会のあいさつを行った後、「第一部 前野先生の理論と活動」では五人の方が発言した。
「グラムシ研究と民衆の政治哲学」をテーマに発言した伊藤晃さん(千葉工大教授)は、共産党からの除名を契機に一九六二年に前野さんが書いた「グラムシの政党論」をテーマに次のように語った。
「この論文は一九六一年の八十一カ国共産党・労働者党会議の宣言に寄せられた各国共産党指導者の論文集の『解説』という性格を持っているが、その中で多くの人びとと異なっている点は、一九三〇年代において天皇制国家の下に市民社会や自由主義的政治学がやすやすと取り込まれることになった根拠は何かという問題意識を貫き、そこにグラムシの『受動的革命』という概念を適用していることだ。前野さんは国家論プロパーからのアプローチではなく『国家の政治』を成り立たせているものは何か、という問題意識を持ちつづけていた」。
「国家を、暴力と民衆による同意の均衡から説明する方法論は決してグラムシだけのものではない。前野さんはこの均衡を転換・破壊させるものとしての民衆の主体的運動をグラムシが取り上げ、この破壊された均衡を新しい上部構造に仕上げていくものとしての民衆運動の知的・道徳的変革を重視したところにグラムシ政治思想の意義を見いだしていた。民衆運動における変革とは、構造によって押し潰されたものから発生する抵抗運動を基礎に、文化的批判・変革を含んだ運動の統一を実現していくものとしての政治の意味を提起し、国家に対抗する政治の戦略を模索することにあった」。
ポーランド資料センター事務局長として、一九八〇年から始まるポーランド「連帯」に連帯する運動を前野さんとともに担った水谷驍さんは、次のように語った。
「前野さんは、当時の『ワレサ・フィーバー』とも言えるお祭り騒ぎの中で、『連帯』が何を提起しているかを真剣に取り上げ、これまでの民主化運動との質的な違いを明確にし、体制の解体にまで行き着かざるをえない根底的な異議申し立てとしての思想的・理論的内容を突き出す活動が必要だとの問題意識を語っていた。この中で発行した『ポーランド月報』は十一年にわたって百十二号を刊行することができた」。
「前野さんにとってソ連・東欧の問題は一九五六年以来、政治思想の原点の一つだったと思う。しかし一九八九年にポーランド『連帯』が政権をとって共産党の一党支配を崩壊させ、それがベルリンの壁の崩壊から一九九一年のソ連崩壊につながって以後のポーランドは、かつての自主管理の思想とはうらはらに、西欧以上の市場万能の米国型ともいえる資本主義の道を走っている。そうした現実をどう評価するかを前野さんと討論したかったが、残念ながらそれはかなわなかった」。
批判的社会主義
理論と前野さん
写真家の豊崎博光さんは「原水禁運動と反核・平和の思想」というテーマで報告した。豊崎さんは「前野さんは、アメリカという国が日本という国に原爆を投下したのではなく、多くの朝鮮人や他の外国人をふくむ広島、長崎という都市の住民に落としたのだということを忘れてはならない、とつねに語っていた。前野さんは、そうした問題意識から今日の被爆者の問題にアプローチし、バヌアツなどで開催されたアジア太平洋非核独立会議にも代表として参加していったのだと思う」と語った。
樋口篤三さんは、一九三〇年代に唯一、今中次麿の下にマルクス主義政治学の講座が開設されていた九州帝国大学で政治学を学んだ前野さんのマルクス主義者・共産主義者としての活動を振り返り、一九六五年の日本共産党から除名された「ソ連派大結集」の試みの中で、志賀義雄が呼びかけた「八十一カ国共産党・労働者党会議宣言」に基づく綱領案に、前野さんと春日正次郎氏のみが全面的に反対したエピソードについても紹介した。またイタリア、フランス、イギリス、ポーランドの批判的社会主義運動に通じながら、晩年は日韓連帯運動に関わった前野さんの思想的深みについても、高く評価した。
吉松繁さんは「市民運動と前野先生」というテーマで発言し、原水禁運動の中で韓国・朝鮮の被爆者との支援・連帯を進めたことの思い出を述べた。
第二部の懇談会では、社会主義政治経済研究所で共に活動した研究者や、在日韓国人の運動の代表、そして吉川勇一さんなど市民運動の分野から前野さんの思い出が語られた。最後にご遺族が、頑固だった父親としての前野さんの人となりを語り、出席者へのお礼の言葉が送られた。
この日の集会での発言や、資料などをもとに「報告集」がこの秋にも刊行される予定である。 (国富建治)
読書案内
豊下楢彦著/岩波新書/780円+税
『集団的自衛権とは何か』
安倍政権のねらいを暴く
タイムリーで
するどい批判
豊下楢彦といえば、一九五二年の第一次安保条約の背後に、昭和天皇裕仁の「裏外交」とも言うべき強力な政治意思が働いていたことを外交資料と論理的推測で説き明かした名著というべき『安保条約の成立――吉田外交と天皇外交――』(岩波新書)で有名だが、彼の最新著がこの『集団的自衛権とは何か』である。安倍政権の下で「集団的自衛権」の行使を「合憲化」しようとする「有識者懇」が設置され、その報告が今秋早々にも出ようとしている時、きわめて時宜にかなった著作が新書という手頃な形で出版された。ぜひ一読をお薦めしたい。
現在、現行憲法の下での「集団的自衛権」の行使を違憲とした政府統一見解の基礎となっているのは一九七二年に田中内閣が提出した「資料」であった。同「資料」は、主権国家として「個別的自衛権」とともに「集団的自衛権」を持つのは当然だが、個別的自衛権であっても現憲法の下で認められる「武力行使」は「急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」限定的なものであるから、したがって「他国に加えられた武力攻撃を阻止することを内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」とするものだった。この「資料」の立場に沿って、八一年の「答弁書」もあいまいな解釈の余地を許されないように説明され直されてきた経過を豊下は説明している。
ところで米国の強力な圧力の下に「集団的自衛権」の「合憲」化に踏み出そうとしている安倍は、「集団的自衛権の行使」も「必要最小限度」であれば現憲法下でも可能だと強弁しつつ、同時に「国際法上は主権国家として持っている集団的自衛権を、憲法上行使できないというのは矛盾」だと主張する。豊下はこれについても「国家が国際法上、ある権利を有しているとしましても、憲法その他の国内法によりその権利の行使を制限することはあり得る」という秋山法制局長官の答弁(二〇〇四年一月)を引用して、「俗論」と切って捨てている。
「戦後レジーム
からの脱却」か?
もちろん豊下の主張は、こうした法律論的批判にとどまるものではない。豊下は、日本が「集団的自衛権」を行使する唯一の「パートナー」としてのアメリカの軍事戦略が、とりわけブッシュ政権の下で「自衛」の名の下に無制限な先制攻撃的性格を強めていること、そしてそれが国連憲章にも国際法にも違反していることを批判しながら、安倍政権の進める「集団的自衛権」の「合憲」化が、決して安倍の言うように日米同盟を「対等なもの」にするためではないことを強調している。
逆に「米軍再編」による日米の国家的軍事戦略の「一体化」とは、ますます日本がアメリカのグローバル戦争戦略に「戦略」なきままに手先として動員されて戦場に駆り出されるものであることを豊下は指摘している。「集団的自衛権」の「合憲化」こそ、その結節点なのである。豊下の言うように、それは「戦後レジームからの脱却」ではなく、「安保条約に呪縛されてきた『戦後体制の継続』そのもの」なのだ。(坂口民雄)
コラム
大量出血、そして
大量の鮮血!顔面から血の気が引いてしまわんばかりの血の海!それが二日間で三度も!
内痔核の破裂による排便時の大量出血である。痛くもかゆくもないのに、三週間ほど前から始まった排便時の断続的な出血は、ついに来るところまで来てしまったようだ。
最初の大量出血後に座薬を入れたのだが、その効果が出たのは、ようやく三日目のことであった。その日は、出社はしてみたものの、眼の焦点はさだまらず、頭はクラクラ、体はフラフラの貧血状態である。仕事にならず、やむなく早退するはめになってしまった。
翌日、自宅近くの「肛門科」で診察を受け、注射による治療を進められた。数年前に開発された「ジオン」という薬を、内痔核に注入する「硬化療法」というもので、治療後一カ月ほどでなじむという。止血剤、抗生剤、注入軟膏を出してもらい、二週間後の朝からの治療となった。
治療は三十分もかからず終了した。後ろに穴の開いた七分パンツを履き、浣腸と点滴の後、横になりお尻を突き出す。肛門のまわり四カ所に局部麻酔をしてから、内痔核にプツリプツリと注射針を刺して薬を注入してゆく。思っていたよりも痛みはない。その後、別室で点滴をしながら二時間ほど横になってから、タクシーでの帰宅となった。
しかし、帰宅してからが、つらくて「長い一日」の始まりとなった。肛門の痛みはほとんどないのだが、食べられず、排便できずなのだ。肛門の中には、止血用の脱脂綿が詰められているために、オナラも出てくれない。下腹部がガスでパンパン、ガスが逆流するたびにグルグルと音をたてる。とにかくこれが一番、苦しい。寝るに寝られないつらさなのだ。翌早朝、トイレに座ってホッとするのであった。
薬を注入したために、肛門の回りが腫れ上がっているのか、治療後の三日間ほどは、「肛門を自覚できない」状態だった。しかし、腫れが収まってからは、便座に座ったとたんに、太くてほどよい堅さの便が気持ちよく出るようになった。「人に見せたい」ほどのものでもないが、こんな良便はほんとうにひさしぶりのことである。
程度の差こそあれ、日本人の半分以上が「痔持ち」で、外来患者の六割が痔核(いぼ痔)だという。やはり内痔が最も多く、症状によって治療方法も変わってくる。時々の出血ならば軟膏や座薬で、排便時に肛門から出るようなら注射で止血、常に出た状態であればゴム輪で縛り壊死させる。外痔を伴うなど、さらにひどければ手術が必要になる。
治療一週間の通院で医者は、「トイレではりきまず三分で!」と言っていたが、これでは新聞の見出しもまともに読めないではないか。
「なに!」
「新聞を持ち込むな!」(星)
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