| パキスタン ムシャラフ軍事独裁政権による投獄 かけはし2007.7.9号 |
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国内外の大衆的キャンペーンや抗議が釈放の力となった |
600人の政治
犯が連行される
それは、私の三十年に及ぶ活動において、刑務所内で経験した最悪のものの一つであった。私は、六月十九日、パンジャブ州政府内務大臣によって拘留命令が撤回されたとき、十五日間の投獄生活を終えて釈放された。それは、政府のお慈悲によるものではなく、国内外における大衆的な連帯キャンペーンのおかげであった。私の拘留に抗議する連帯キャンペーンの期間、何百もの抗議の手紙がムシャラフ将軍のもとに送られるとともに、数十の抗議のファックスやメッセージがいくつもの地方政府に送られたのだ。
最も重要だったのは、ラホール高等裁判所において、六月二十日、権利請願が行われる予定だったことである。著名な弁護士であり、パキスタン最高裁弁護士協会の前代表であるアビッド・ハッサン・ミントが、拘留に反対して私の事件を論議する予定であった。彼は国民労働者党の党首でもあり、7つの政党による左翼連合である人民民主主義運動(アワミ・ジャムフーリ・テリーク)の主宰者でもある。
警察は、六月四日午前四時、私を連行するために自宅にやって来た。ハーバンセプラ警察署にいる間、私は繰り返し、拘留命令が出ているのかどうか質問した。警察官からは何の答えもなかった。彼は「今日の夕方には自由になれる」「せいぜい三日間だ」と言い続けた。そのうそは、同じやり方で同時刻に自宅から連行された六百人以上の政治犯が言われたことだった。
地裁弁護士協会代表のサイド・ムハマド・シャーやイジャズ・フセイン弁護士を含む私たちの弁護士は、その日の朝、ラホール治安裁判所に行って、不法な拘留から私を解放するように求めた請願を提出した。不幸なことに、治安裁判所は執行吏が私を解放するように命ずる命令を出すのではなく、翌朝に警察への照会状を出したのだ。これは、私に対する警察の態度が変化するターニング・ポイントとなった。
裁判所の照会状を受け取るまでは、警察官は丁重で、携帯を所持したり、警察署で同志友人の訪問を受けたりすることが認められていたのだが、そこから私の試練が始まったのだ。直ちにハーバンセプラ警察署から移動させられ、二時間以上も警察車両に乗せられて、バグバンプラ警察署に移送された。
この警察署で一夜を過ごした後、再び警察車両に乗せられ、今度は警察施設ではない場所に連れて行かれた。これは、警察が治安裁判所にファルーク・タリクは逮捕されていないし、警察にもいないと言わなければならなかった時間帯であった。実際、私は公式な言い方では警察官と一緒にはいなかった。私はまるで誘拐された人間のようだったが、ギャングによってではなく国家ギャングによって誘拐されたのだった。その場所は、与党ムスリム連盟の顧問の持ち物だった。私が、二人の武装した男たちによって監視され、二十四時間拘束されていたのはプラスチック会社の店舗であった。
私は繰り返し警察署ではなく、私的な場所に拘束されていることに抗議した。しかし、その二人の武装した男たちは「上司の命令であり、命令には従わなければならない」と言うだけだった。夜遅く私服で、私を連行しにやって来た二人の警官は、私が裁判所に出した請願に彼らの上司である警察官が非常に怒っていると言った。私は同じ警察署に連れ戻され、さまざまな犯罪で拘置されている十三人以上の人々と一緒に、鉄格子の中に入れられた。
最も暑い地域
の刑務所に移送
六月六日、私は再び警察署から移動させられ、バグバンプラ警察署近くの別の私有地に送られた。その時までには、警察はパンジャブ州政府内務大臣から、三ヶ月間私を拘留するという命令を受け取っていた。そしてその日、治安裁判所にファルークはすでにバハワルプール刑務所に送られたと伝えることになっていた。
バハワルプールはラホールから約四百五十キロ離れたところである。その刑務所は残酷さと厳しさとで有名である。有名な政治犯のほとんどが、過去においてこの刑務所に収容されていたのだ。
警察車両には、もう一人パキスタン人民党の政治犯がいた。私たちは十二時ちょうどに七人の警官とともに、バハワルプールに向けて出発した。気温は四十七度を越えており、運転手はすごい速さでその車両を運転した。それは今までで一番ひどい旅行だった。熱波と猛スピードで走る車は、忘れられない経験だった。午後七時に到着するとすぐに、私たちはバハワルプール刑務所のAブロックに送られた。
そこには、すでに三週間も収容されていた三人のムスリム連盟(N)の政治犯がいた。ムスリム連盟(N)の活動家であるノーシャッド・ハミードが「労働党がやってきたぞ!」と叫んだ。私と彼は二〇〇一年にラホール・コット・ラクパット刑務所で同じ部屋にいたことがあったのだ。
私たち、ラホールから来た二人の政治犯は、別々の独房に入れられた。私は刑務所職員に二人を同じ部屋にするよう求めた。しかし、それは認められなかった。ある刑務官は私に「二人はホモセクシャル行為にふけるかもしれないから」と言った。それで、「一つの房には一人か、三人か、あるいは三人以上を収容することになっているのだ」と彼は言った。
バハワルプールはパキスタンでも最も暑い地域の一つである。私たちはその暑さを七日間にわたって経験しなければならなかった。私は檻の中で一人だった。房は狭く、小さなベランダとトイレらしきものがついていた。一枚の毛布が房の中に投げ込まれた。寝るためにそれを床に敷くのだ。それ以外には何もない。
私たちは、紙やペンを持ちこむことを許されなかった。私は、三着のシャルワール・カミーズ(夏用のパキスタンの伝統的服装)しか持っていなかった。タオルも歯ブラシも歯磨きもなかった。私はまるで、檻の中で隅から隅へと動き回るライオンのようだった。ただ一つの場所に座り、刑務所が出す食事のようなものを食べるだけだった。それは私にラホール動物園を思い出させた。そこには、六歳の息子アブドラを連れてライオンを見に行くのだ。
待遇改善を要
求しハンスト
翌日の夕方、さらに二十二人の政治犯が、ブロックAの四つの房に入るためにラホールから到着した。私は多くの人々に会うことができ、本当に喜んだ。彼らのうちの七人が私の房に入れられた。彼らは全員、パキスタン人民党のメンバーだった。嬉しいことに独房での監禁が終わりを告げたのだ。少なくとも、話し相手ができたのだ。
私たちがラホールからバハワルプールに送られてきたのは、懲罰のためだった。これは、私たちを友人や家族、共同体から孤立させるためのものだった。これは、私たちに軍事独裁に反対することへの教訓を与えるためのものだった。
ムシャラフ体制は、イギリスの植民地領主がインド亜大陸を二百年以上にわたって支配していた期間に、政治犯をアンダマン諸島に送ったのと同じようにふるまってきた。その島は、カラ・パーニ(「黒い海域」の意味)として知られていた。そこに送られた多くの自由の戦士たちは二度と故郷には戻れず、ほとんどが終身刑に服している間に獄死してしまったのである。
これは、私たちの軍事政権と闘う意思を挫くためのものであった。これは、軍事政権のもとにおけるパキスタンでは、私たちがどこにいても牢獄の中にいるのだと教えるためのものだった。私たちが刑務所の看守に「ブロックの中を少し歩けるように、檻の中から出してくれ」と要求すると、彼らは「ここは刑務所であって、庭園ではない」と言った。刑務所当局は、私たちを動物のように扱ったのだった。
暑さは四十二度までに達した。停電はしょっちゅうで、時には十四時間に及んだ。房の床は、いつも熱せられていた。水も停電中は止まっていた。扇風機が一つだけあり、その風は何時間も経たないと床まで降りてこないかのようだった。この欠陥品の扇風機が少しマシなものに替えられ、さらにもう一台、扇風機がベランダに取り付けられたのは、三日間にわたる抗議の後でのことだった。しかも、その扇風機の費用は、私たちのポケットから出されたものだった。パキスタン人民党の指導者たちは、ここに着いたときに、持っていたお金を刑務所当局に領置させられていたのだった。刑務所内では、新聞も認められず、私たちは外部世界とまったく遮断されてしまっていた。
私たちは、房に入れられてから四日後、水を要求して、ハンガーストライキに突入した。その日の朝、房内には一滴の水も入ってこなくなった。それ以前にも、水道パイプからは水はほんの少ししか出なかったのだが、それでも半時間もすれば小さなペットボトルを一杯にすることくらいはできたのだった。刑務所当局は、パイプを交換し、古いモーターを取り換えなければならなかった。これで少なくとも、水の問題は解決した。暑さから身を守るたった一つの方法は、ずっと体を水で濡らしておくことだったからである。
人民党の活動家
が刑務所で死亡
六日目に、私の二人の兄が、バハワルプール刑務所にやって来て、私と面会することができた。彼らは、ラホールで内務当局から面会許可を取ってきたのだ。彼らは、果物や飲み物、服、歯磨き、歯ブラシなどを差し入れしてくれたし、お金も刑務所の会計に領置してくれた。そのお金で、私は刑務所の売店から日用品を注文することができた。それは、私にとって最初の外部との接触だった。兄たちは、私が翌日ラホール・コット・ラクパット刑務所へ移送されるだろうと話した。ラホール内務当局から聞いたとのことだった。
バハワルプールから二十キロ離れた町であるロドフランにいるパキスタン労働党の同志たちは、私と何とか接触しようと努力していた。彼らは、翌朝、房内に果物と菓子を届けることができた。その同志たちは、バハワルプール刑務所の副所長の友人だったのだが、彼にも私を手助けすることは不可能だった。彼は、何回もあたしの房に立ち寄って、「何かできることがあるか」と尋ねるのだった。私はその度に、「何かものが書ける紙を持ってきてくれ」と頼んだが、彼にはそれは無理だった。翌朝彼が来たとき、私は「もしラホールに移送されるのならば、昼間ではなく夜間にしてくれ」と頼んだ。それは、彼の権限内だったので、次の日の夜十一時に警察車両でラホールに向けて出発した。日中の暑さを避けるためだった。
刑務所の門のところで、警官がラホールへ移送するために、私を待っていた。彼らは私に手錠をはめようとしたが、私は拒否した。私が抵抗したために、手錠をはめるのに一時間かかった。「私は罪人ではない。罪人のように取り扱うな。警官が大勢いる中で逃亡するつもりはない」と言った。
丸一晩かかって、私はラホールのコット・ラクパット刑務所に着いた。ここで私は、他の地域から連れてこられた他の政治犯と一緒になった。私たちは非常に狭い房に入れられた。私は、バハワルプール刑務所より狭い房に、八人の他の政治犯と一緒に収容されたのだった。しかし、違っていたのは、外側のドアが開いていて、芝生の上を散歩することができたことだった。
私の来る一日前に、パキスタン人民党の活動家であるサルマド・マンスール(五十二歳)が、適切な医療の手だてを受けられないまま、刑務所の医務室で死亡していた。それは刑務所当局の手を借りたパンジャブ州政府による虐殺に他ならなかった。彼は、グジラート地区の病院に入院していたところを逮捕され、適切な治療も受けられないまま、刑務所の医務室に収容されたのだった。彼は、六月十四日に、この医務室で心臓発作のため死亡した。私が着いた十五日には、それぞれ異なる政党に所属する三十二人の政治犯全員がハンガーストライキに入っていて、私もそれに加わった。
インド人の囚人
と感動的な再会
私が六月十九日に釈放されるまでの五日間は、まあまあの待遇になった。狭い房内で寝なければなかったのは相変わらずだったが、朝から夕方までは動き回ることが認められた。しかし、外部からは誰も私との面会が許可されなかった。六月十六日には、何名かの同志が刑務所の外で、面会許可を取ったにもかかわらず、私との面会を認められずに、何時間も待つ羽目になった。
一人の政治犯の死が国家的な問題になった後、政府の態度に変化が見られた。彼らは政治犯を釈放し始めたのだ。私は、最後に釈放された政治犯となった。
六月十九日、私が刑務所の門に向かって行くまでに、会計に領置してあったお金を返してもらう必要があった。会計のところで待っていると、一人の政治犯が近づいてきた。彼は「パキスタン労働党のファルークに会いに来たんだ!」と叫んでいた。これを聞いて、「私がそうだよ」と言うと、彼はすぐにはわからなかったようだったが、私を何回も抱きしめた。彼はインド出身のイクバルだった。彼とは、二〇〇一年にこの同じ刑務所で顔を合わせたことが会ったのだ。その時、私は彼の求めに応じて、後に刑務所にパキスタン人権協会のメンバーを派遣した。そのメンバーは、すでに刑期を終えているにもかかわらず、インドとの囚人交換を待っている何人かのインド人を釈放させるのを手助けしたのだった。
イクバルは、私が刑務所にいること、そしてその日に釈放されることを聞いて、ロビーで私に会おうと、バラック小屋から出てきたのだ。私たちは何分間か、語り合った。彼は、以前と同じことを私に頼んだ。インド人の囚人を刑務所から出して欲しいと。私は、できるだけのことをしようと約束した。また、果物でも買えるように、インド人たちのために五百ルピーを渡した。これは、私にとって感動的な時間だった。私のことを六年経っても、インド人の囚人が覚えていてくれたのだから。いい仕事と言うものは、年月が経っても忘れられないものなのだ。
刑務所の外では、パキスタン労働党や社会運動団体の仲間が何十人と、私を出迎えるために待っていてくれた。彼らはほんの数時間前に、私の釈放を聞いたばかりだった。「ムシャラフを倒せ」という叫びは、刑務所の中にいる人々にもきっと届けられたことだろう。パキスタン労働党の赤旗が揺れ、「軍事独裁政権と闘い続けよう」というスローガンが沸きおこった。
さらに多くの人々が、パキスタン労働党の事務所に近いシムラ・ペハリ公園で待っていてくれた。私は、彼らと一緒にパキスタン労働党の事務所まで行進した。午後五時、私はラホール記者クラブで記者会見を行い、そのまま刑務所から政治活動のただ中へと戻っていったのである。
(インターナショナルビューポイント07年6月号)
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