| 久間発言が突き出すねじれた歴史認識 かけはし2007.7.16号 |
| アメリカに救われた天皇制と日本支配層のトラウマの表現 |
昭和天皇発言と同じ論理
初代防衛相となった久間章生は、六月三十日に千葉県柏市の麗沢大学で行った講演で要旨次のように述べた。
「日本が戦後、ドイツのように東西が壁で仕切られずに済んだのは、ソ連の侵略がなかったからだ。米国は戦争に勝つと分かっていた。ところが日本はなかなかしぶとい。ソ連も出てくる可能性がある。ソ連とベルリンを分けたみたいになりかねない、ということから、日本が負けると分かっているのに、原爆を広島と長崎に落とした。八月九日に長崎に落とした。長崎に落とせば日本も降参するだろう。そうしたらソ連の参戦を止められるということだった」。
「幸いに八月十五日に終わったから、北海道は占領されずに済んだが、間違えば北海道までソ連に取られてしまう。……私はその点は、原爆が落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだという、頭の整理で今、しょうがないな、という風に思っている」「勝ち戦ということが分かっていながら、原爆まで使う必要があったのか、という思いは今でもしている。国際情勢とか戦後の占領状態などからいくと、そういうことも選択肢としてはありうるのかな。そういうことも我々は十分、頭に入れながら考えなくてはいけないと思った」(朝日新聞 7月1日)。
あっちへ行ったりこっちへ来たりと揺れながらの発言だが、久間の言いたいことは米国による原爆投下という大量虐殺の戦争犯罪が、「ソ連の日本占領」を阻止するために「ありうる選択肢」であり、「しょうがない」ということに帰着する。
この発言を聞いて、一九七五年十月三十一日、訪米を終えた昭和天皇裕仁が「日本記者クラブ」の代表五十人に対して行った記者会見での発言を思い起こした人も多いだろう。
「記者 陛下は、これまでに三度広島へお越しになり、広島市民に親しくお見舞いのことばをかけておられるわけですが、戦争終結にあたって、原子爆弾投下の現実を、どうお受止めになりましたのでしょうか」。
「天皇 原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます」(高橋紘『陛下、お尋ね申し上げます――記者会見全記録と人間天皇の軌跡』文春文庫)。
「しょうがない」と「やむを得ない」――昭和天皇と久間の発言は、その趣旨において共通している。つまり戦争を終わらせるとともに「日本占領と分割」をふくむ「ソ連の脅威」から日本を守るために、米国による広島・長崎への原爆投下がなされたという米国の意に寄り添った主張である。
アメリカの側の原爆投下についての公式の認識も、ワシントンDCにあるスミソニアン博物館でのB29エノラ・ゲイ号の展示説明にあるように、「多くの米兵の命を救い、戦争終結をもたらした」ということである。この立場は七月三日の記者会見で、ロバート・ジョセフ米核不拡散問題特使(前国務次官)が「原爆の使用が終戦をもたらし、連合国側の万単位の人命だけでなく、文字通り、何百万人もの日本人の命を救ったという点では、ほとんどの歴史家の見解は一致する」と述べたことによって再確認されている。
われわれはここで改めて「原爆投下」が「ソ連の参戦を阻止」し「北海道占領・日本分割」を阻止するためだった、という日本の親米反共保守派のデマゴギー的言説に対して史実を確認しておく必要がある。マッカーサーが一九六四年に死亡した時、当時高校一年生だった私は、校長が「マッカーサーのおかげでソ連の北海道占領は阻止された」と語ったことを記憶している。米軍の日本占領支配をそのような形で反共主義的に正当化する主張は、保守層の間ではかなり浸透していたと思われるからである。
ヤルタ密約とソ連参戦
ソ連の対日参戦は、米国に対抗して日本を「占領」しようという意図に基づくものではない。われわれは降伏した日本軍兵士たちのシベリアへの連行と酷寒の収容所での強制労働に示されるスターリンの戦争犯罪を絶対に許容しない。しかしソ連の対日参戦は、一九四五年二月のヤルタ会談でのルーズベルト米大統領の強い要請に基づくものだったことは歴史的事実として銘記すべきなのである。米国の単独対日戦による犠牲を避け、「ソ連の対日参戦」を確保して日本の降伏を早めることこそが、ルーズベルトの至上命題だった。
一九四五年二月五日の米ソ秘密会談で、スターリンはルーズベルトの要求によってナチス・ドイツの降伏後二、三カ月以内の「対日参戦」を受け入れるとともに、参戦の条件として「@モンゴル人民共和国の現状維持A日露戦争で侵害されたロシアの旧権利の回復B千島列島はソ連に引き渡す」の三点を求めた。Aはさらに(イ)樺太南部と隣接諸島のソ連への返還(ロ)大連港におけるソ連の優先的利益擁護、大連港の国際化、ソ連海軍基地としての旅順港の租借権回復(ハ)東清鉄道、南満州鉄道の中ソ合弁会社による共同運営に分けられる。
スターリンはこの「参戦条件」を求めるにあたって「ソ連の対日参戦を正当化するために利権の譲渡が必要である」と述べた。なぜなら「極東では日本軍の歴然たる敵対行動が少しもない以上、無条件参戦ではソ連国民が納得しない」から、とルーズベルトに高く売りつけたのである。ルーズベルトは(ロ)(ハ)に関しては蒋介石の同意を条件とした上で、この参戦条件を確認した(ステチニアス回顧録『ヤルタ会談の秘密』六興出版――柳沢英二郎『戦後国際政治史1 1944―1958』柘植書房刊より重引)。
このスターリンの参戦条件は「ツアーリのロシア帝国」の植民地主義的利権の回復を要求したものであり、徹底的に反労働者的・反動的なものであることは言うまでもない。しかしヤルタの密約には「北海道占領」や「日本分割」はふくまれていない。そしてソ連の戦後処理の中での拡張政策が、ヤルタ協定の枠組みの中で遂行されたものであることは、中国では蒋介石の国民政府の正統性を支持して毛沢東の中国共産党を統制し、ギリシアでは共産党の主導する武装レジスタンスを見捨てたことによっても明らかである。
一方ルーズベルトの死後、大統領の座についたトルーマンは原爆を手にして以後、ソ連に「対日参戦」カードを切らせることについては急速に熱意を失った。ソ連のモロトフ外相が七月三十一日に米英両国に対してヤルタ密約に基づくソ連の対日参戦正式要請文書を求めると、はっきりしない文書で返事したが、そこにトルーマンの署名はなかった(柳沢、前掲書)。
そこには、原爆という「究極の兵器」を手にした米国が、戦後の世界政治への絶対的覇権を獲得しようとする意思が込められていた。米国の戦争指導者が日本の無条件降伏を引き出すための「ソ連参戦」「天皇制の維持」「原爆」という三つのカードの組み合わせの中で、トルーマンにとっては一九四五年七月十六日のネバダ州ロスアラモスでの原爆実験の成功後、前二者は急速に色あせたものになっていった。
しかし天皇制のこうむった運命についてはどうか。戦後の日本にとって、広島、長崎への原爆による「無条件降伏」は、同時に天皇制を温存させる条件でもあった。
加藤典洋の評論集『アメリカの影』(講談社学術文庫)の重要な部分を構成している「戦後再見――天皇・原爆・無条件降伏」は、「アメリカの原爆民主主義が日本に無条件降伏として入ってきた時、ぼく達は『民主主義』によってそれを問う、そういうことをしもしなかったし、そうできもしなかった。それでぼく達の民主主義が『無条件降伏』を頭上にいただく、何といえばよいのか、天皇制民主主義になったという一つの物語である」と述べる。
天皇裕仁自身が原爆を「やむを得ない」とし、久間章生が「しょうがない」と語る時、そこには原爆によってもたらされた象徴天皇制をいただく戦後のブルジョア支配体制成立の根拠が隠されている。久間の辞任を受けて防衛相になった小池百合子が、米国の「核の傘」(実際は先制攻撃をふくむ「核の槍」なのだが)に依拠して「核廃絶」を訴える矛盾の中で「核兵器が国際法上違法である」ことを明言できなかったことも、その現れである。
日米軍事再編と核武装
久間の「原爆投下容認」発言は、参院選公示の直前になされたこともあり、安倍政権の危機をさらに加速している。安倍は、当初久間発言について「アメリカ側の見方の一つを紹介したもの」と語り、明確な批判を行わなかった。閣僚や与党内部からのごうごうたる批判の中で、辞意を表明せざるを得なかった久間は、「参院選に重大な影響を与えることになって迷惑をかけた」からやめる、という言い訳に終始し、「原爆投下容認」そのものの誤りを謝罪・撤回することはなかった。
久間は、昨年十二月以来「イラクに核兵器がさもあるかのように戦争に踏み切ったが、判断が間違っていたのではないか」とか、米軍辺野古新基地建設について「米国に『あまり偉そうなことを言ってくれるな。知事と一生懸命話しているから、もうちょっと待ってくれ。日本のことは日本に任せてくれ』と言っている」などと述べ、米政権側の激昂を買って、日米安保協議委員会(2プラス2)会合が延期されるなどの事態を招いていた。
今回の「原爆投下容認」発言は、米国からの強いプレッシャーへの過剰反応の可能性もある。すなわち米軍再編による日米の軍事一体化のスムーズな進行をあらためて約束するための、彼なりのアドバルーンである。
われわれは彼のこの発言の中に、「核先制攻撃能力」をバックにしたグローバルな米軍事戦略に自衛隊がますます実戦的に組み込まれていく現実の一断面を見ることができるだろう。
一方では、沖縄返還時における「有事の核再持ち込み」の密約や、核ミサイル搭載原潜の「寄港」を繰り返してきたことの暴露を通じ、虚偽があからさまになっている「非核三原則」に対して、その公然たる見直し論議が中川昭一・自民党政調会長などによって主張されている。他方、参院選に東京選挙区から立候補する、A級戦犯として処刑された東条英機元首相の孫・東条由布子は、七月三日の外国人記者クラブでの講演で久間発言を批判し、自分が議員になったなら原爆投下に対して米国に謝罪を求める国会決議を上げるために尽力すると発言した。
米政府高官による「原爆投下」の正当化と、日本軍「性奴隷制」に対する下院外交委での日本政府に対する謝罪要求決議の成立などの中で、米政府にあくまで追随した改憲・戦争国家体制づくりを押し進めつつ、「大東亜戦争は自存自衛の戦争」と語る極右国家主義の「美しい国」路線の矛盾は極限にまで達しようとしている。
核廃絶を実現するために
原爆投下の言語に絶する苦しみの経験の中から、核兵器の無条件の廃絶を訴える広島・長崎の被爆者は久間発言を厳しく批判している。そして核兵器の完全廃絶を求める闘いは、米国の「核抑止力」に依存した今日の改憲と戦争国家体制への動きと正面から対決せざるをえない。
アメリカ・トロツキスト運動(社会主義労働者党)の指導者であり、戦時中の反戦活動によって投獄されたジェームズ・キャノンは、広島・長崎への原爆投下直後の一九四五年八月二十二日の演説で、米帝国主義によるこの大虐殺を厳しく批判した。
「二発の原子爆弾による二度の攻撃で、アメリカ帝国主義は、五〇万もの人間を殺傷したのである。若者も老人も、ゆりかごの幼児、年配者も病弱者も、新婚も、健康者も病人も、男も女も子供も――こうした人すべてが二度の攻撃で死なねばならなかったのは、ウォールストリートの帝国主義者たちと日本の同種のギャングどもの喧嘩のせいなのだ」と。彼は「資本主義の生き残りを許すか、それとも人類がこの地球上に生存し続けるか」という問題として、この「原爆投下」の本質を提起した(キャノン「広島・長崎への原爆投下」、『トロツキー研究』16号所収)。
問われている課題の根本は今日でもまったく同じだ。人類の生存そのものへの脅威を「しょうがない」とするシニシズムか、それとも核兵器を廃絶し、暴力も飢餓もない平和で公正な社会を実現しようとするたゆまぬ共同の努力か、と。(坂口民雄) |