長時間労働と権利破壊に対決し
全国一律最賃制の確立めざそう |
企業の「国際競争力確保」
政府は三月十三日の閣議で、長時間残業の割増賃金を引き上げる労働基準法の一部改正案、雇用のルールを定める労働契約法案、最低賃金法改定案の三法案を決定した。
すでに厚生労働省が通常国会に提出しているパート労働法改正案や雇用保険法改正案、雇用対策法改正案などと合わせると数年来資本と厚労省が目論んできた「労働ビックバン」構想は、労働基準法で定める労働時間規制を適用せず、残業代の支払いが一切不要となる「ホワイトカラー・エグゼンプシヨン」を除くすべての法案が出そろい、改憲手続き法などによって後景に隠れているが、当初から言われていた「雇用国会」の様相が明確になってきた。厚労省は昨年末に〇八年度に労働者派遣法改正の提案を明言しており、これと前後して再度ホワイトカラー・エグゼンプシヨンを再び提案してくるのは明白である。
経団連の労働問題の責任者である岡村副会長(東芝会長)や御手洗会長は政府が通常国会にホワイトカラー・エグゼンプシヨンを導入する労働基準法改正案の提出の見送りを決めた時、「他の法案については労働時間の新制度とは切り離して考えられない」と政府をけん制した。
だが柳沢厚労相の「女性は子どもを産む機械」発言でホワイトカラー・エグゼンプシヨンの通常国会への提出が無理とみるや春闘直前になって政府・厚労省と「次期国会への提出」という「裏約束」を結び、一連の労働法案の提出を了承した。しかし通常国会に提出されている労働法案を、日経連は、ホワイトカラー・エグゼンプシヨンのための「代償」「譲歩」であるとしているが決してそうではない。さらに安倍政権が掲げる「再チャレンジ」支援策の柱でも「多様で複雑化した働き方」を労働者に保証するものでもない。日経連の岡村が言うようにあくまでも「国際競争力の観点から企業の持続的な成長」を維持するための労働力の再編・再編成であり、夏の参院選で自民党や財界に批判が広がることに対する歯止めに他ならない。
残業代割増はウソだ
まず最初に「長時間残業の割増賃金を引き上げる労働基準法の一部改正案」を見てみよう。改正案は月八十時間を超える残業代の割増率を五〇%に引き上げるとしたが、この月八十時間の残業は、過労死裁判などで「過労死ライン」と呼ばれるもので、ほとんど長時間労働を規制するものではない。逆に過労死に直結する「八十時間残業」を合法化する性格さえもっていると言える。
加えて民間労働者の八割を占める三百人以下の中小企業への適用は法施行の三年後に改めて検討することになっており、一番「サービス残業」が問題になっている中小企業は実質的にこの法案対象からはずされているのである。
現在の残業代は中小企業も含めて四十五時間を超す残業がある場合には、割増率を二五%超〜五〇%以下とすることになっている。しかしこれは企業・使用者の「努力義務」と規定されているだけで一切の「罰則」はない。これが現在の「長時間労働」の温床になっているのであり、法案はここに一切踏み込んでいない。
さらに現在残業の上限は、法的には月四十五時間、年三百六十時間となっているが、これを守らない場合にも一切の罰則がなく「努力義務」であり、「特別協定」を結べばこれを超えて仕事をさせていいことになっている。
昨年十二月に出された日本労働弁護団の「長時間労働酷書」には「近年の職場環境は、労働時間が長くなったが四八・三%、労働密度が濃くなったが七九・九%、時間外労働が発生する三大要因については、過剰な業務量、人員不足と指摘している」。さらに「原則として、八時間を超えて働かせることが刑罰を以て禁じられていることを知らない、あるいは無視する経営者は現在でも高い割合を占めています。……三六協定を締結していない事業場が六二%にも上ります」と書かれている。
この法案は、「残業代割増率の引き上げ」とうたっているが、実質的には一切割増はなく「長時間労働」の合法化をねらったものであることは明白である。
生活保護費の切り下げ
閣議決定された「最低賃金法の改正案」は、次の三点が骨子になっている。第一は、決定基準の見直しであり、「労働者の生計費」に生活保護との整合性も考慮するとある。第二は罰則の強化=罰金を旧来の「二万円以下」から五十万円以下」にする。第三は、派遣労働者の賃金は、「派遣元」ではなく「派遣先」の都道府県の額を適用するとなっている。
最低賃金は毎年夏に厚生労働大臣の諮問機関である中央最低賃金審議会が全都道府県をAからDの四ランクに分け、それぞれのランクごとに引き上げ額の目安を示す。それに基づいて労使の代表でつくられる地方審議会で金額を決めるのである。今回の改正案は、決定基準である@労働者生計費A労働者の賃金B事業の支配い能力の三点に、「生活保護との整合を考慮する」と付け加えたに過ぎない。
安倍首相は一月の施政方針演説で「経済的に困難な状況にある勤労者の方々の賃上げを図るべく、最低賃金制度がセーフティーネットとして十分機能するよう、必要な見直しを行う」と述べ、衆院の代表質問に対しては「最低賃金額を根本的に引き上げることは、経営を圧迫される結果、かえって雇用が失われる面もあり、非現実的だ」と述べている。その時どきで発言の内容が百八十度違っている。この矛盾とあいまいさが、「生活保護との整合性」として表現されているのであり、何と何の比較を指すのか全く不明である。
昨年七月に政府が発表した「骨太の方針2006」では、生活保護費について「低所得世帯の消費実態を踏まえた見直しを行う」と明言し、歳出カットの一部として「当然にも」生活保護費は重要な削減対象としている。また経団連をはじめとする財界は、「生活保護を下回ると働く意欲をそぐというなら、生活保護費を下げる議論もあっていい」と発言している。これからみると今回の「最賃法改正」は、最低賃金の引き上げに重点があるのではなく、生活保護費との矛盾を「是正」することに力点が置かれていることは明白である。
都道府県別の最低賃金は、一番高い東京が七百十九円で昨年の引き上げ額は五円、次位は神奈川で七百十七円、引き上げ額が五円、逆に低いのはDランクに位置する青森、岩手、秋田、沖縄が六百十円で引き上げ額も二円となっている。「いざなぎ景気」を超えたといわれながら一九九九年以後、資本と政府はデフレを口実に引き上げ幅は〇〜五円に抑え続け、利益は全く労働者に還元されなかったのである。
六百十円の最賃のもとでは一日八時間、月二十日働いても月収は十万円にも満たないのである。ここに住宅扶助などを受ける生活保護費を下回る原因があり、ワーキングプアと呼ばれる根拠が存在するのである。
先進国レベルで比較すると日本の最低賃金がいかに最低水準にあるか明白である。フランスが千百六十二円、イギリスが千九十六円、カナダ八百六十円、日本より低かったアメリカは六百二円であったが、中間選挙で勝った民主党が八百七十円に引き上げる法案を可決させようとしている。
現在春闘と統一地方選の中で民主党は、全国平均で時給を千円に上げることを主張し、共産党は全国一律千円の引き上げを求めている。これは支持できる政策であるが、最低賃金に最も影響を受けるのは、アルバイトやパートなどの非正規社員である。したがって最賃問題はこの非正規職と連帯し、大幅賃上げと全国一律最賃制確立を求めて闘うことがますます重要になっているのである。
新労働契約法反対
採用から退職(解雇)まで、企業と労働者間の雇用ルールを定めるのが閣議決定された「新労働契約法案」である。現行の労働基準法では、就業規則は労働者の合意がなくても、労働者の意見を聴取すれば企業が就業規則を作成・変更できた。したがって多くの就業規則は労資間の力関係、資本(企業)と労働組合の力関係に作用されてきた。
つまり、賃下げなどの労働者に不利な変更に制限をかける法的規制がなかったがために、労働者は不利益を受けると、闘うことによってこれをはね返すか、裁判に訴えて有効性を争うことが強制された。
だが判例に依拠して労資間の雇用ルールを維持することは、職種や働き方の多様性が広がることによって、対応できない労働現場が広範に現出し始めた。ここに労資双方から新しい雇用ルールの必要性が求められたのである。
だが新たな労働契約法の作成にあたって厚労省は、企業と資本に都合がいい私案を〇六年の労働審議会に提案した。現法案では削除された就業規則を決める労使委員会の設置、争議の金銭解決などの条項がそれである。この底流にあるのは「新たな労働契約法」を作成するにあたって戦後労働運動が勝ち取ってきた「成果」の全面的解体であり、規制緩和の中で日本の資本が生き延びるために不当に手にした「権益」を合法化し、一方では「労働者の権利」を法的に著しく制限しようとする目論見である。
だが労働契約の前提である「労使対等」のない厚労省私案は労働審議会で紛糾し、労働者の怒りが全国的に広がる中で厚労省はそれを修正する以外になかったのである。それが今回閣議決定された法案要綱である。
労働契約法案要綱では、「第三、労働契約に関する原則等」の一項に「労働契約は、労働者及び使用者が対等の立場における合意に基づいて締結し、又は変更すべきものであるものとすること」という形で「労働者との合意」を明記している。だがこれは労働者に対する配慮でも譲歩でもないことは、すぐその後に続く「第四 労働契約の成立及び変更の第二項」に、「不利益の程度」などの合理性が認められれば、合意なしでも就業規則を変更できると明記している。
つまり合意がなくても、労働者に変更を知らせ、変更内容が合理的であれば労働者側に不利な変更もできるという「例外規定」を設ける形で、当初から財界が目論んでいた「労働者の権利」を著しく制限する方針を貫徹させているのである。企業と使用者が一方的に労働条件を決定し、反対や抵抗がなければ「それで押し通す」、時には反対する者を職場から排除するというあり方は、一九九〇年代から今日まで続いている労働の規制緩和という形で展開してきた企業の攻撃を法的に保証するものであることは明白である。
さらに法案要綱がいうように合理的かどうかの判断基準として、これまでの判例に基づいて@労働者の受ける不利益の程度A労働条件の変更の必要性B変更後の内容の相当性C労働組合などとの交渉状況の四点があげられているが、「労働者側が文句があるなら裁判に訴えろ」と言っているに過ぎない。これをみると新労働契約法が資本と企業が労働者を攻撃するための合法的武器であることは明らかである。
これを認めるなら次には今回削除された「労使委員会の設置」や「解雇の金銭解決」が再び雇用ルールの中に正文化されてくることは明白である。
労働契約法は、ホワイトカラー・エグゼンプシヨン、労働者派遣法と並び労働者に一層大幅な犠牲を押しつける「労働ビッグバン」の中軸をなすものである。春闘の中で、賃金の大幅アップと非正規雇用をなくす闘いとともに労働契約法反対の闘いを全国で展開しよう。 (松原雄二)
コラム
ボランティアというお仕事
ボクが嫌いなものに「ボランティア」という言葉がある。世間では何かにつけてボランティア活動がもてはやされるが、その本質は善意のただ働きにほかならない。人のために働きたいとか、社会の役にたちたいという純粋な気持ちを逆手に取って、ときの権力者と金持ちたちはいつも手前勝手な解釈で市民の善意を利用してきたのだ。本来、行政の職務であるはずの福祉をはじめ、災害援助や住民サービスの分野までボランティアに依存し、実働部隊としての正規職員をまったく配置しない現場まで出てきている。
また、ボランティアの意味を自分の都合のいいように解釈し、本来自由意志であるはずの活動を強要する輩も多くなってきた。「ボランティアで」といえば聞こえはいいが、これは「ただ働きしろ」と同義語である。その挙げ句に少しでも異を唱えれば、「奉仕の気持ちがないのか」と目をつり上げる御仁も決して少なくない。うがった見方をすれば、正規の賃金や対価を支払う必要のないボランティアの存在は、本来の雇用と労働のあり方を歪める元凶だと言ってもいいだろう。
つい最近のことである。ボクは「ボランティアのお仕事」という不可思議な考え方に遭遇した。発端は連れ合いの仕事にあった。彼女は声楽を仕事にしている。平たく言えば歌手。コンサートやディナーショーに呼ばれて歌うことを生業としているのだ。つまり、歌ってなんぼの世界。ステージが職場なのである。
話を進める。そんな彼女が、とある幼稚園の創立五十周年記念の集いに呼ばれて歌ったのが、その最近のこと。百人あまりの出席者を前に、感涙のステージが終わった翌日、「渡したいものがある」というので、いそいそ出かけた先で手渡されたのが、たいそうなのし袋に薄謝と書かれた一万円也。愕然としながらも受け取ってきたのはいいが、どうしても釈然としない。歌手が仕事として受けたステージが、薄謝で済まされたら飯の食い上げである。
一晩眠れぬまま考えた末、結論はお返しすることに。しかし、翌朝決意も固く出かけていったが、一時間経っても帰ってこない。携帯にかけると揉めているという。相手はこのステージを一方的にボランティアだと思っていたというのだ。
確かに出演料をあらかじめ決めておかなかったことはこちらの不手際かもしれないが、こうしたお祝い事のステージは両者の暗黙の了解があって成り立つのが通例である。お互い野暮なことは言わない、聞かないというのが粋(?)。人数や時間などを勘案して、常識的な世間相場を謝礼として支払う場合が多いのだ。
しかし、こちらが勝手にそう思い込んでいたのが、今回の結末だった。考えてみれば雇用契約も口約束もない不安定な雇用形態であったと言ってよい。おまけに「契約書はあるの」「生活が大変なのね」「声楽家には材料代はかからないでしょう」などなど逆ギレの言いたい放題だったらしい。
そして、最後に出たのが、「ボランティアのお仕事だと思った」という一言。これには、ボクも怒りを通り越してあきれてしまった。そして、はたと気が付いた。きっと安倍首相の唱える「美しい国」とは、こうした考え方によって建国されるのだと。(雨)
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