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自治・自決・独立のための模索              かけはし2007.4.30号

3つの民族の文化と歴史の承認が出発点

フィリピン・ミンダナオにおける戦争と平和
平和のための闘いは経済的・社会的発展と切り離せない


35年にわたる
民族自決の闘い

 二〇〇六年十二月に、私はフィリピン南部のミンダナオ島を訪れる機会を得た。ミンダナオやその周囲の島々は、西側の旅行者が誘拐された時を除けば報道の主題になることは稀である。
 しかしミンダナオは、ムスリムのバングサ・モロ民族が自決のために闘っており、すでに三十五年以上にもわたる紛争の場所である。現在まで紛争で十二万人の命が失われたとされており、その多くは一般市民である。百万人以上の人びとが家を失い、生活の資を失って困窮している。二十万人から三十万人と見積もられている人びとが隣国のマレーシアのサバ州に難民となっており、さらに多くの人びとが安全を求めてマニラやフィリピンの他の地域に移住している。

独立戦争で百
万人が犠牲に

 紛争の原因ははるか以前にさかのぼる。現在フィリピンと呼ばれている諸島は、十六世紀にスペインによって植民地とされた。しかし実際は、スペイン人たちはマニラを手に入れ、北部のルソン島に徐々に支配を広げていっただけであった。彼らは次の三百年間を通じて、さしたる抵抗を受けることもなく南方に向かった。しかし彼らは幾つかの海岸の入植地以外にミンダナオを征服することはなかった。ミンダナオの西側と近隣の諸島は、スルとマキンダナオのムスリムのスルタンによって統治された。その民族はモロという名で知られている。ミンダナオ島のその他の部分は、先住民族が居住していた。
 一八九六年にスペインに対するフィリピンの独立戦争が始まった。しかしそれは一八九八年の米西戦争の影響を受けることになった。当初、自らをフィリピン人の友人として押し出していたアメリカ人たちは、一八九八年のパリ条約の規定によりフィリピンをスペインから二千万ドルで「買い取る」ことになった。
 それが引き起こしたルソン島でのフィリピン人の抵抗闘争は、人口の六分の一にあたる六十万人の死者という犠牲をもたらして鎮圧された。他の島の征服でも、それと同じくらいの比率での死者が生み出された。正確な計算はなされていないが、少なくとも百万人(当時の人口は七百万人)のフィリピン人がアメリカの征服の中で殺されたと語ることは理にかなっている。
 アメリカの将軍「ジェイク」・スミスは、兵士たちに対して彼が望むことについてあからさまに語っている。「私は捕虜など求めない。諸君が殺しかつ燃やすことを願う。燃やし、殺す数が多ければ多いほど私を喜ばせる」。彼の同僚であるシャフター将軍は、同様の考え方を、より哲学的な調子で表現している。「フィリピン人の半数が現在の半未開的状態より優れた生存のレベルを達成するためには、残りの半数を殺す必要があるだろう」。
 スペインがフィリピンを売り払う権利がなく、アメリカに買い取る権利がないのだとすれば、ミンダナオに関してはさらに権利がない。スペインはミンダナオを決して征服しなかったからである。上流階級の運動指導者たちが運動を裏切り、「アンクル・ジョー」との平和協定を結んだ以後も、アメリカの占領に対するフィリピン全土の抵抗は何年か続いた。ミンダナオでは闘争はさらに一九一四年まで継続した。
 アメリカ「文明伝道団」は、一九〇六年二月にそのハイライトを迎えた。それはブド・ダホの最初の戦闘、より正確にはモロ火口の虐殺として、さまざまな形で知られている。多くの女性や子どもをふくむ槍や刀で武装した八百人から千人のモロの民衆は、ホロ島の火山の火口にまで後退し、そこで近代的兵器と大砲による攻撃を受けた。戦闘が終わった時、生き残ったモロ人はわずか六人だった。数百人の米軍部隊の中で、死亡したのは約二十人だった。
 このような方法によって、モロ民族は、一九四六年まではアメリカの植民地であり、その後、形式的には独立したフィリピン国家の中に組み込まれた。彼らは、政治的・経済的・文化的に抑圧され、差別され続けている。彼らが自らのアイデンティティーと自由への願いを強烈に維持し、それが公然たる反乱として爆発するのは時間の問題であった、ということを理解するのはたやすいことである。
 その画期となる転換点は、一九六八年に起こったハビダの虐殺だった。この時モロ人の陸軍補充兵は、モロ人が歴史的つながりを持っているマレーシアのサバ州への侵攻に参加するのを拒否したことで、フィリピン陸軍の上官によって殺害されたのである。
 武装闘争は一九七〇年代初頭に始まった。最初に指導権を発揮したモロ民族解放戦線(MNLF)はフィリピン政府と和平交渉を行い、一九九六年にはムスリム・ミンダナオ自治地域(ARMM)が創設された。しかしそれはきわめて不満足な自治の形態であることが明白になった。MNLFの分裂から生じた第二の運動――モロ・イスラム解放戦線(MILF)――は、武装闘争を継続し、現在、より広範な自治を求めて交渉を行っている。

ミンダナオと
3つの民族

 しかしミンダナオにおける情勢は、自決、フィリピン国家の枠組みの中での自治、もしくはフィリピンからの独立のために闘っている被抑圧民族バングサ・モロの問題に単純化されるわけではない。それは一つの側面ではあるが、唯一の側面ではない。モロ民族がミンダナオのすべてを占めているわけではない。つねに非ムスリムの民族も存在していた。一九一八年まではムスリムがミンダナオの多数派ではあったが、現在ではミンダナオのムスリム人口は約二五%である。先住民族のルマド人は人口の五%を占める。それ以外の七〇%はキリスト教徒である。
 この人口統計上の変化は決して偶然の産物ではない。それは二〇世紀を通じて、米国ならびに独立フィリピンの支配下で遂行されてきた、フィリピンの他の地域からミンダナオに移民を送り込んで入植させる政策の結果なのである。この政策には二重の利害がかかっている。入植民に土地を提供して他の地域での農村の不満をなだめること、そしてミンダナオにフィリピン国家に忠実な人びとを住まわせることである。この政策は、土地登記と西側の法的基準を導入し、ムスリムが所有できる土地の広さを制限するという形で、意識的に遂行されてきた。
 したがってマニラの歴代政権の目的は、きわめて明らかだった。またそれは成功した。しかし、これらの入植者たちとその子孫は、モロよりも上位のカーストを構成しているわけではないし、彼らから離れて暮らしているわけでもない。移住者とその子孫たちは、普通の労働者と農民であり、ムスリムと隣り合って生活している。だれも彼らを追い出すことを提案してはいない。
 ムスリムは、ほとんどがARMM(ムスリム・ミンダナオ自治地域)の一部であるミンダナオの一部地域とそれに隣接する諸島では多数派である。そして多かれ少なかれどこでも相当数の少数派である。先住民族ルマド人の十二の「部族」も、キリスト教徒支配地域とムスリム支配地域の双方で自らの先祖からの土地を所有している。
 ミンダナオの諸問題のどのような進歩的解決も、モロ民族の自決権とともにルマドの諸権利を承認する必要がある。しかしそれはまた、三つの民族が現在のミンダナオが共有する独自の歴史、文化、アイデンティティーを持っているという事実から出発しなければならない。ミンダナオの進歩的勢力が、一九九〇年代以後、「三民族」的解決、三つの民族が共生する必要性と可能性についての概念を発展させてきたのは、そのためである。
 ミンダナオの問題はモロ民族問題に切り縮められるべきではないという事実は、それを強めている。ミンダナオとその周辺諸島地域は、住民の四〇%が一日二ドル以下で暮らしているとされるフィリピンの中で最も貧しい。フィリピンの「最後のフロンティア」としばしば言及されるミンダナオは、今や多国籍企業のターゲットである。多国籍企業は、ミンダナオの農業(ゴム、ココナッツ、マンゴー)、鉱業、森林資源を搾取することに躍起となっている。こうした活動は、ミンダナオの天然資源の収奪は別にしても、エコロジー的荒廃とルマドの先祖伝来の土地への侵害を引き起こしている。

軍と軍化した
警察が至る所に

 一九七〇年代と八〇年代初頭に、ミンダナオの社会問題は、フェルディナンド・マルコス独裁体制に対する運動の拠点となった。その運動は、毛沢東主義者のフィリピン共産党(CPP)が指導する新人民軍(NPA)の武装反乱をふくむものであったが、都市と農村の民衆組織による大衆的抵抗をもふくむものだった。
 毛沢東主義者の反乱は一九八六年のマルコス打倒以後も継続したが、政治的誤り、一連の自殺的パージ、そして最終的には一九九二年のCPPの分裂によって非常に弱体化した。政敵の肉体的粛清を主張し、そして実践している強硬派毛沢東主義者のCPP―NPAは依然として存在している。一九九二年分裂の他方の側にいた組織も存在しており、その中で最も重要なのは革命的労働者党―ミンダナオ(RPMM)である。
 ミンダナオとその近隣の諸島は、武器に満ち満ちている。軍と軍化した警察が至る所にあふれている。地主と多国籍鉱山会社、木材会社もすべてが武装したゴロツキを意のままに雇っている。モロの運動は武装している。ストライキの組織化、土地改革のための闘い、貧しい搾取された人びとを守る活動を行えば、「死の部隊」の標的対象となる。二〇〇一年のグロリア・マカパガル・アロヨ大統領が政権について以後、数百人の政治活動家、五十人のジャーナリストが暗殺された。したがって左翼の運動も武装しなければならない。

4回にわたる
民衆サミット

 私がミンダナオに行ったのは、第四回ミンダナオ民衆平和サミットへのオランダからの代表団の一員としてであった。このイベントの中心的組織者は、ミンダナオ民衆平和運動(MPPM)である。MPPMは、この島で一九九七年、九九年に起こった敵対行為の激化への対応として、とりわけ二〇〇〇年六月に当時のジョセフ・エストラダ大統領(エストラダはその数カ月後に「ピープルズ・パワー」運動で打倒された)によるMILFに対する「全面戦争」宣言への対応として作りだされた。
 前の三回のサミットは、二〇〇〇年、二〇〇二年、二〇〇四年に開催された。MPPMは平和をめざす全般的活動の追求を継続し、戦争の被害者救済活動を組織しつつ、とりわけアブド・サイド・M・リンガ教授が主導するバングサ・モロ民衆諮問会議とともに、バングサ・モロ問題の持続的な解決を見いだす活動に焦点を絞ることを決めた。こうした解決のための二つの軸は、バングサ・モロ民族の自決権の承認と、国連監視の住民投票によって支持されたあらゆる解決策の提案である。こうした住民投票のための運動は、二〇〇二年十二月に第二回サミットから出発した。
 第四回サミットは、バシラン島の町・ラミタンで開かれた。ここを選んだのは偶然ではない。バシラン島とそれに近接するスル諸島ならびにタウィタウィ諸島は、アブサヤフ・グループ(ASG)の活動の中心であった。ASGは民族解放運動であるMNLFやMILFとは異なり、爆弾、殺人、誘拐などのテロリスト活動を行っているアルカイダとつながった原理主義的なイスラム主義集団である。ASGの起源ははっきりせず、政府の手先であった挑発者がその創設に役割を果たしたと広範に考えられている。現在ASGの活動は、体系的に拡大しており、米国政府が「テロとの戦争」の最新の戦線と規定してきたフィリピン軍とアメリカ人「顧問」の駐留を正当化する目的で、政府が反ムスリムと不安の感情を煽り立てることに利用されている。
 ラミタンは、二〇〇一年に地域の病院でASGの戦闘員が外国人を人質に取り、包囲攻撃を受け何人かの死者を出した場所であった。しかし町の住民を構成する五五%のキリスト教徒と四五%のムスリムは、いっしょに調和して生活している。ラミタンがサミットの場所に選ばれたのは、錯乱状態に襲われた政府とメディアに対してこの現実を突きつけるためであった。そして参加者たちは自治体当局と町の住民から温かく、友好的な歓迎を受けた。
 五日間にわたってサミットに参加した五百人以上の人びとは、一握りの人を除いてミンダナオと周辺の諸島からがほとんどであり、ミンダナオの紛争の平和的で民主主義的な解決のためにどのような活動をするのか討論をした。MNLFとMILFの双方の代表が、ルマド民族の代表とともに参加した。青年、女性の組織、そして平和、保健、教育、経済開発のテーマで活動している民衆組織も参加した。
 サミットの主要な討論の中心は、自決の問題と紛争の平和的解決の道の発見であった。しかし他の課題も提起された。ムスリム女性は平等の問題を強力に突きつけ、伝統的思考にとらわれた男性の一部に明らかな不快を引き起こした。
 サミットの一セッションは、RPMMと政府との和平交渉を報告した。休戦は二〇〇五年に調印され、サミット直後の会合でその適用と監視について合意に到達した。しかしRPMMは他の武装グループと異なり、事態を純軍事的観点からは見ていない。それは政府がRPMMの展開する地域において、保健、住居、雇用などの社会的問題に取り組むための資金を提供するという約束を履行することを条件にした限定的な合意と武装解除である。さらにそれは、これらの地域の民衆に、彼らが何を必要とするかの確定を委ねるのである。
 ミンダナオにおける平和のための闘いは、経済的・社会的発展と切り離すことができない。現在、武力対決のレベルはきわめて低く、政府はMNLF、MILFの双方と交渉している。確実なものとは程遠いとはいえ、バングサ・モロの自治に関する新しい協定の実現は可能である。しかし平和とは、たんに戦争がない状態のことではない。持続的平和は、モロとルマドの権利を尊重することだけではなく、暴力を培養するあらゆる形態の貧困、不平等、不公正を終わらせることを意味する。ミンダナオは潜在的にきわめて豊かな島であるが、その天然資源は、現在のように腐敗した政治家、地主、多国籍企業の連合によってではなく、民衆自身によって所有され、管理される必要がある。
(マレー・スミスはスコットランド社会党の前国際オルガナイザーで、現在はフランスLCR〔革命的共産主義者同盟〕のメンバー)。
(「インターナショナルビューポイント」電子版07年4月号)




フランス大統領選の結果について

 四月二十二日のフランス大統領選第一回投票で、LCR(革命的共産主義者同
盟、第四インター・フランス支部)のオリビエ・ブザンスノー同志は、サルコジ(国民運動連合)、ロワイヤル(社会党)、バイル(フランス民主連合)、ルペン(国民戦線)に次ぐ第五位で、四・〇八%、百四十九万九千票を獲得した。ブザンスノーの得票は社会党の左に位置する候補者の中で最高だった。
 ブザンスノーの得票率はほぼ前回並みだったが、得票数は前回より三十万票近く増えている。マスメディアもほぼ四人の候補者だけに焦点を当てる中で、共産党など他のすべての左翼が大幅に得票を減らした(共産党の得票率は1・93%、前回はブザンスノーより多く得票したラギエ〔労働者の闘争〕は1・33%)のに比して、ブザンスノーとLCRは非常に健闘したということができる。(編集部)
 より詳しい分析は、追って本紙に掲載する(本紙編集部)

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