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読書案内『トロツキー研究』48号特集 マンデル没後10周年[編集・発行]トロツキー研究所/[発売]柘植書房新社/2500円+税  かけはし2007.4.23号

厳しい論争を通じたマルクス主義への現代的貢献

E・マンデルをあらためて学ぶ


 エルネスト・マンデルは一九九五年に七十二歳で、ブリュッセルで死去した。マンデルは第二次世界大戦中と戦後における第四インターナショナルの最も著名な指導者であり、第四インターナショナルとトロツキストの世界の範囲を超えたマルクス主義理論家でもあった。さらに他のトロツキスト派も含めマンデルの真摯な態度と的確な論点応酬によって、それ以外の論客たちの矢面に立ち続けた。
 すでに一九九八年、『トロツキー研究』25・26合併号では、国際シンポジウム「エルネスト・マンデル―その人と思想」(アムステルダム、1996年)が掲載されている。今回の特集と共に併せて、再読を勧める。

「アルチュセールによ
るマルクスの修正」

 冒頭の湯川順夫の解題は次のように紹介している。

 これは、最初、『カトリエム・アンテルナショナル』(1970年2月、41号)に掲載されたもので、その後、他の八人の論者の論文ともに、アルチュセール批判の単行本『反アルチュセール論』に収録された(Contre Althusser, Union Generale d'Edition, 1974)。また、この本の増補改訂版が一九九九年に再刊されている(Contre Althusser Pour Marx, Les Editions de la Passion,1999)。なお、マンデルのアルチュセール批判には本論文以外に共産党内部の反対派としてのアルチュセールとエレンシュタインに対する政治的批判書として次のものがある。Ernest Mandel,
Reponse a Louis Althusser et Jean Elleinstein, Editions La Breche, 1979
 この論文の背景を知る上で、もとになっているフランス語のポケット版『資本論』へのアルチュセールの「前書き」とそれに対するマンデルの批判が、一九六九年に書かれたという事実は重要である。
 つまり、ときは、一九六八年、カルチェ・ラタンに端を発した学生の反乱は、たちまち一千万人の労働者のゼネストへと発展した。労働者のこの闘争は、組合指導部の指令なしに下から労働者大衆の自主的な闘いによって引き起こされたものであり、工場占拠を伴って二週間にわたって続けられるというきわめて急進的なもので、ドゴール政権と真正面から対決する未曾有の全国政治闘争となった。フランス共産党とCGT(労働総同盟)指導者であるロシュとセギは、一千万人の二週間にわたるゼネストと工場占拠を前にしても、それをゼネストと呼ぶことすら拒否し、この闘いをあくまでも「生活と労働条件の改善」の闘いに限定しようとし、闘いを早々に終息させて大統領選挙に向かおうとした。フランス共産党とCGT指導部は、労働者大衆の闘争を経済的要求のレベルに限定し、直面する権力問題を選挙闘争に解消しようとしたのである。当時における運動全体の急進的雰囲気の中では、当然、このような路線は多くの批判を浴びることになった。
 「フランス共産党員」であったアルチュセールは、指導部のこの路線を防衛した。『資本論』への「前書き」で「経済闘争」と「政治闘争」との形式主義的な「区別」にこだわっているのは、そのためなのである。マンデルのアルチュセール批判は、したがってスターリニズムの残滓を今なお色濃く残した政治的に「稚拙」とまで言えるアルチュセールの政治理論を念頭においているのである。

経済学の終焉

 これに先行して、一九六二年にマンデル自身が、「現代マルクス経済学W」(東洋経済新報社)の第一八章『経済学の終焉』において次のように述べている。

 経済学が解答しようと努力している問題―価値とはなにか、資本と余剰価値(誤訳:正しくは剰余価値)とはどこからくるのか、賃金はいかにして決定されるのか、物価や景気にたいして通貨流通の影響はいかなるものか、再生産はいかにして作動するのか、等々の問題―それらの問題は商品生産、貨幣経済とともに発生し、それゆえ、それとともに消滅するであろう。
 マルクスがその『資本論』の副題として『経済学批判』を付し、その『資本論』の準備的著作に、『経済学批判要綱』と題したのは偶然ではない。マルクスにとって経済学は本質的にイデオロギーである。「マルクス主義哲学」が存在しないのと同様に、「マルクス主義経済学」も存在しない。マルクスの仕事は彼の時代の二つの偉大なイデオロギーを―認識のマルクス的理論(唯物弁証法)のうちにおいてその一つを、マルクス経済理論(人間社会の生成の弁証法)において他の一つを―超克する仕事であった。

 アルチュセールへのマンデルの批判は、湯川順夫の冒頭解題の指摘通り的確に本質を射ている。またこのマンデルの見解は、その後の幾多の論争の結節点でもあったと言える。
 たとえばアルチュセールの経済的審級と政治的審級をめぐっては、先に指摘したアルチュセールの解釈に限界はある一方でトロツキスト派としてのマンデルのこうした見解に対し、シャルル・ベトレームやサミール・アミンに代表される毛沢東主義派らは、限定的に捉え返す作業、つまりアルチュセールの考え方を部分的に採用し、史的唯物論の再考に取り組み、第三世界論や人類学、歴史学に新たな展開を試みた。
 そしてこの限りにおいて、マルクス主義の深化に貢献したと言っていいだろうし、こうした論争にマンデル自身もまたその後、まみれることとなった。特に一九七八年、A・G・フランクによる「従属的蓄積と低開発」(岩波現代選書)では、第三世界の歴史的段階区分について、フランク、サミール・アミン、プレオブラジェンスキー、エマヌエル、アリギ、ウォーラスティンといった論客の見解にマンデルも「後期資本主義」(柘植書房)のなかでの応酬書簡を発表し、こうした論争に参加している。
「ドイツの教訓に学ぶ」

 一九八七年にアムステルダムで開催された第四インターナショナルの教育学校で行われたスピーチである。マルクス主義によるファシズム論の入門書であり、ファシズムに関する見解の誤謬、国家による抑圧の増大一般を「ファシズムの到来」と捉えようする傾向などに丁寧に反証し、解説している。

「スターリニズムの三つ
の局面│編集部への手紙」

 この短い手紙の中で、マンデルは、中国やベトナムやアルバニアの国家や体制やその支配的官僚について、その生きた現実の分析から出発することの重要性を説いている。私もこの分析態度に共感し、さらにそれを指針にしている。こうした現代のキューバや中国やベトナムの体制を考える際、基本的な分析に対する態度と姿勢が要求されるべきではないだろうか。

「資本主義の長期
波動をめぐる論争」

 一九七二年マンデルは、「後期資本主義」(柘植書房)のなかの第四章で「資本主義の歴史における『長期波動』」を取り上げている。その後、一九七八年、ケンブリッジ大学でアルフレッド・マーシャル記念講演をするように要請され、それをまとめたものとして、「資本主義発展の長期波動」(柘植書房)を著している。
 先の第三世界の歴史的段階区分をめぐる論争とも重なるが、マンデルは自らの見解をこう要約している。

 わたしは長期波動のマルクス主義的説明を提供しようと試みたが、それは、資本蓄積の(経済成長と世界市場の拡大の)長期にわたる急速なあるいは緩慢なテンポを結局のところ規定する。
 
 一九二三年のトロツキーの手紙「資本主義の発展曲線」(訳:西島栄)は、トロツキーの資本主義の長期波動への考えを知るうえで重要であり、さらにトロツキーとコンドラチェフとの論争点について理解を深めることでも重要である。つまりコンドラチェフは、資本主義の長期波動の内因説を採用し、景気循環説に昇華したのに対し、西島栄の解説の言葉を借りれば、「トロツキーは、資本主義の長期的傾向論を究極的規定者としつつも経済と政治の相互作用によって長期波動が生じるという立場をとっていた」ことが理解できる。
 このことを踏まえトロツキーを継承しつつ、その延長線にマンデルがこの資本主義の長期波動に対する見解で最大の特徴としたものは、利潤率の変動が資本蓄積の長期的過程を規定し、さらに利潤率の変動への最大の影響要因として、労働者階級の実質賃金水準(=所得分配率)と階級闘争の局面を重視する見解を強調した。ちなみに一八四八年の革命の失敗や一八九三年以降の帝国主義拡大、一九三〇年代、四〇年代の国際労働運動の敗北を資本主義の長期的な上昇波の理由とみなしたことである。
 ここでは、一九八九年のこのブリュッセル自由大学で開催された長期波動に関する国際会議におけるマンデルの報告であり、長期波動をめぐるこれまでの論争の概要とそれに対するマンデルの基本的立場を知ることができる。

「社会主義と未来」

 本稿は、一九九二年七月にニカラグアで開催された左翼諸政党のサンパウロ・フォーラムの第三回会議で行なわれた演説である。この演説の中でマンデルは、深刻な「社会主義の信頼性の危機」について力説し、社会主義が信頼性を回復し、「生起」をするために何が必要であるかを力強く語っている。
「社会民主主義的
改良主義の本質」

 本論文は、今から一〇年以上も前に書かれたものだが、既存の大衆的な労働者政党、とりわけ、社会民主主義政党の急速な変質が進行しつつある現代においては、その意義を失っていない。
 マンデルが本論文で展開している社会民主党の変質の過程に対する歴史的な分析についての考察は、近年の情勢からしても重要な問題提起となっている。(浜本清志)



コラム
「病院の廊下」

 私は近所の病院に「薬」をもらうために、二カ月に一回のわりで八年も通っている。病院は廊下が待合室の一部となっており、決して暗いわけではないが、なんとなく重い雰囲気が漂う。そのため私は順番を待つ間、新聞や本を読んであまり人と顔を合わせないようにしている。先日、そんな私の前に一台の車椅子が止まり「久し振りですね」と声をかけてきた。彼は九年前に私が二泊三日で入院した時、隣のベッドに横たわっていた人で、担当医師の次に病院で顔を憶えた人である。
 病名は通称「痛風」と呼ばれる高尿酸値症。この病気は関節とその周囲組織である骨膜や骨髄などに尿酸塩の結晶が沈着し炎症を起こし、とにかく痛い。一回でも痛風発作をやると「風に触れるだけでも痛い」という意味を納得する。
 九年前のある夜、両足の親指の付け根が突然赤く腫れ上がった。足に合わない小さなスニーカーを履いて歩いたことによる靴擦れだと勝手に考えた。翌日になると腫れはさらに大きくなり、歩くどころか靴も靴下も履けなくなった。ついに自分一人ではどうにもならず、友人に頼み病院に運んでもらった。この時でさえ私の頭の中は「靴擦れ」で「痛風」という病名はなかった。
 そんな私に対して医師は、「数値はともかく、病名は痛風発作です。数値が比較的に低いのに発作が出たのは体質的問題もあると思われるので、実家か兄弟に連絡を取ってみてください」と言った。電話で問い合わせると医師の見立て通り、弟たちも発作はないものの健康診断で高尿酸値で引っかかっていた。母の弟、つまり叔父二人は発作を何回か経験していた。母は「遺伝だね。この病気は女の人にはあんまり出ないんだよ」と言って電話の向こうで笑った。
 腫れが引き退院する私に医師が通告した。「体質であっても気を付ければ痛風発作は防げます。まず第一に体重を五%落とすこと。あなたの場合三・五キロ。第二は尿酸塩を増やすホルモンや焼き肉、魚の干物、魚卵を控えること。飲み物ではビール、日本酒、ワインなどを少なくし焼酎、ウィスキーなどの蒸留酒にすること。第四は水やお茶を毎日二リットル以上飲み、できるだけ汗をかくこと。つまり運動などをして尿酸を体の外に排出すること」。
 退院後三カ月で体重を三キロ落とすことに「成功」し、尿酸値も「安全圏」まで下がった。だがあっという間に元に戻ってしまい、一年間で上下動を三回も繰り返し、ついに私は「努力」を諦め、「薬」で数値を安定させる「安易」な道を選んだ。今回再会したAさんは、毎週プールなどに通い三〜四カ月で体重を五%どころか七%も落とし、尿酸値も半分近くまで減らし、「薬」に頼らない生活を獲得した。私は彼をうらやましいと思う反面、自分の情けなさを実感したことを今でも時々思い出す。「病院の廊下」はこの思い出と深く結びついている。
 「今回は三泊四日ですよ。ちょっと油断したらこの様ですよ。今度は薬を飲みます」という彼の言葉を聞いて、同情ではなくちょっと「ホッ」としている性格の悪い自分にびっくりした。長い間引きずっていた「後ろめたさ」が少し取れたのかもしれない。同時に長い間忘れかけていた痛風発作のどうしようもない痛みを思い出した。Aさんとの再会を期して再度「節制」を心に誓った。(武)

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