かけはし重要記事

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読書案内『争点・沖縄戦の記憶』石塚昌家、大城将保、保坂広志、松永勝利著――社会評論社                         かけはし2002.6.24号より

戦死者の「再生産」を阻止するために

犠牲者の「靖国化」を許さない

 沖縄の日本「復帰」三十年を機にした世論調査(朝日・沖縄タイムス共同)によると、沖縄県民の五人にひとりが「沖縄戦のことは知らない」という回答をしたという。四人の執筆者によって書かれた、この『争点・沖縄戦の記憶』は、これから沖縄戦の事実について知ろうとする人に対する入門書としての役割も果たすが、同時に、日本で唯一の地上戦を経験した沖縄戦をありのままに伝えようとする人たちと、沖縄戦の記憶を風化あるいは美化しようとする勢力とが、この五十余年どのようにせめぎあってきたかということを詳細に伝えている。
 沖縄戦がどのような戦闘で、どのようにして大量の民間人犠牲者を生み出したかということを考えるとき、事実をどのように伝え続けるかということの重要性を思い知らされる。
 一九九九年の八月から十月にかけて沖縄のメディアは連日、大見出しを掲げて平和祈念館展示資料の改ざん事件を報じた。この事件は、二〇〇〇年四月開館予定の祈念館でガマ(防空壕)に避難する人々を模型にした展示物(題名「ガマの惨劇」)において、ガマの入り口に立つ日本兵から突きつけていた銃剣が取り去られ、青酸カリを使った自決を強要する衛生兵の模型もなくなっていたということに、製作過程を見学した資料館監修委員が気づいたことが発端になった。
 中でも九九年三月二十三日に県文化国際局の職員が県知事ら三役に展示内容を説明した際に、稲嶺知事が「反日的になってはいけない」と発言したことに見られるように、本土から乗り込んできた「日本軍」が沖縄戦の際に沖縄人を「軍民一体」「スパイ防止」などの口実を設けて直接間接に殺りくした史実を重点的にもみ消そうとした形跡が、展示内容変更を指示する「見え消し」文書などからはっきりするのである。
 また、糸満市にある新祈念館の改ざんが発覚する中で、石垣島で九九年五月に開館した沖縄県八重山平和祈念館においても展示内容の改ざんが行われていたことが大きく報道されることになった。八重山諸島では、四五年三月の米軍の本島上陸時に日本軍による「強制退去」によって、千五百人以上の住民がマラリアに罹患して死ぬ羽目に陥った。マラリアが発生しやすい山間部へ移動させられたこと、食料や医療手段の不足がマラリアの集中発生を招いたのである。波照間島の島民は当時約千六百人であったが、五百人以上がこの時の「戦争マラリア」によって死亡した。
 一九八九年に結成された「沖縄戦強制疎開マラリア犠牲者援護会」は、遺族たちの長きにわたる沈黙を破るきっかけになった。大半の家族を失ったトラウマに悩む遺族からの聞き取り作業に着手し、大量死をもたらした原因が「軍命」であり、「強制退去」が「疎開」や「避難」ではなかったことを証明した上で、日本政府による遺族への補償を要求したのである。
 この要求に対して、遺族への個人給付を行わないという日本政府の強硬な態度を崩せないまま、マラリア遺族補償について九五年十二月に政治決着が図られ、「援護会」も「マラリア犠牲慰謝事業費」の一部として見舞金給付を受け入れるという決断を下すにいたった。
 この慰謝事業の一環として建設が開始された八重山平和祈念館において、展示パネル六十四点中三十五点が監修委員の同意を得ることなく、語句の削除や書き換えをされている。その多くは、マラリアで苦しむ人の様子を説明するキャプションを簡略化して単なる戦争の風景として見せようとしたり、飛行場建設に朝鮮人などが徴用されている写真にも意味のわからない文章の付け替えを行ったりするものだった。そして、「星になったこどもたち」と題して波照間小学校児童が鎮魂歌を歌う写真パネルの撤去や、消防法を理由とした歴史年表パネルの縮小は遺族らの強い非難を浴びた。結果として二〇〇〇年十一月に当初案の通りにリニューアルして開館されたという。
 資料館の展示内容改ざんについて、本書は三部構成の第二部に位置づけ、琉球新報記者の松永勝利さんが沖縄県庁に対する真相究明と報道の過程を、琉球大学の保坂広志さんが八重山祈念館について、それぞれ緻密な取材に基づいて執筆している。
 読んでみて思うことは、普天間基地の県内移設反対を明確にした大田知事に「反日」のレッテルを押す勢力に担がれて登場した稲嶺県政が、「振興策」を当てにして日本政府への得点稼ぎに汲々とする姿勢である。だが、この改ざんに対する県民の憤りが、稲嶺県政にというよりは日本政府に向けれられるという点までは、本書は説明の紙数を割いてはいない。
 三部構成の第一部では新平和祈念資料館の監修委員でもあった石原昌家さんと大城将保さんが、歴史改ざんをめぐる戦後の攻防について執筆している。
 大城さんは沖縄戦の経過に始まって、戦史や記録調査活動の特徴、日本全国の県人会が英霊顕彰を目指して沖縄に建立した碑文、戦跡ツアー、平和学習の各テーマに整理して、皇軍史観と民衆史観の確執がどう展開されてきたかを簡潔に解説している。
 一九七五年に開館した旧平和祈念資料館で、軍人の遺品が陳列されるだけの展示が「靖国神社の資料館をほうふつとさせる」などの非難を浴びて全面撤去される経緯についても報告は詳細だ。沖縄戦をどう展示するかというこの時の議論の中から、まず住民の戦争体験を訴えていこうという理念が確認され、体験証言を展示するアイデアが生まれてきたという。沖縄を天皇イデオロギーへ完全併合するための攻撃を繰り返す勢力が、いまも昔も変わらないことを思い知るのであるが、何よりも、過酷な地上戦と、続く米軍支配のもとで沈黙を強いられてきた沖縄の民衆が、自らの体験をありのままに表現するという一点を貫いてたたかってきたことの力強い記録でもある。
 石原さんは学校教科書における沖縄戦の記述、資料館での沖縄戦展示をめぐる全国的な攻防について述べている。
 一九八二年に高校生向け日本史教科書で「日本軍は住民を殺害した」という記述が、文部省検定で受け入れられず全文削除されるという報道がされた。それをきっかけに沖縄で巻き起こった八千人集会などの抗議行動の結果、住民殺害の記述を復活させたということが紹介されている。また、家永教科書訴訟の第三次裁判(一九八四年)で「『集団自決』による死者が多かった」というニュアンスで記述を修正させた文部省との攻防が、自ら証人として出廷した経験を踏まえて書かれている。集団死が「自決」にあたるのかという問いかけを中心にすえながら、資料としても興味深い文章である。
 また、全国的な攻防という点では、「皇軍」の加害と住民被害を展示する資料展への街宣右翼等の脅迫、日本政府などが主導する「英霊礼賛」資料館設置という、とどまることのない攻撃と、それに対する市民の抗議という構図が一般的には思い浮かぶ。
 本書ではより象徴的な具体例として、鳥取県の某市議会で「右翼」議員が小学校教材「夏の友」に載っている、有名な沖縄戦「集団死」写真をめぐる議会質問の様子が紹介されている。この議員が教育長に対して「米軍がとった写真をどうやって集団死であるとわかるのか」「平和教育と言うが自虐性のあらわれではないのか」などと執拗な質問を繰り返し、結局、「日本軍が強制した集団『自決』」という見出し文と、写真の下に付いていた「集団殺し合いと見られる」というキャプションが取り払われ、「戦争で犠牲になった人々」という表現のみが残されることになったというものだ。
 この議員の質問の引用をまるまる抜粋してみたい。「この訂正されました内容の中に、こう書いてあるんですね『日本軍の強制によって、家族で殺しあうという非業の死を遂げた人々も多くいました』と。これは(教育長が)妥当であるという解釈(をしている)と今私はしたわけですが、ならば、日本軍というのは当時は皇軍と言っておったわけですね。皇軍というのは、天皇の軍隊だったわけです。そして天皇は陸軍と海軍を掌握して統帥権というものを持っておられたわけですが、その頂点に立つ天皇、いわゆる日本軍、日本軍というのはそういうふうに分析していけば天皇の強制によって家族で殺しあうという非業の死を遂げた人々も多くいましたという解釈になるわけですが、それでよろしゅうございましょうか」。
 「よろしゅうございます」と答えれば万事済むことだが、現実には教育長はあいまいに答弁するばかりだったという。石原さんはこういう現実について「沖縄戦の実態における住民のそのような死は決して『自決』などではなく、『虐殺』に並ぶものだということを当局も右翼も認識しているからこそ」実態を伝えさせないように妨害行為が成立するし、逆に国民的な認識度の高さを示しているとも言えると述べている。
 だが、現在急ピッチで進行する有事関連法案づくりは、戦時の住民被害の認識度が空洞化しているという政府側の分析にもとづいて行われていると見ても差し支えないと思う。こういった危機感に貫かれて刊行された本書は、いずれも日本の侵略戦争を地道に記録することをライフワークとしてきた四人が沖縄戦に論点を絞って執筆しているために、コンパクトな「反日」歴史教科書として有用である。
 平和祈念資料館の改ざん事件以降の主な動きを振り返ると、二〇〇一年七月の「先進国首脳会議」のときにはクリントン米大統領が「平和の礎」の前で「謝罪演説」を行ったが、本来「平和の礎」と祈念資料館は一体のものとして構想されたものだという。だが、民衆史観にもとづいて作られた祈念資料館に米大統領や日本の首相、天皇はまだ訪れてはいない。
 「平和の礎」を利用した視覚的パフォーマンスだけを行うというのであれば、それは礎に記された無数の死者に対する明らかな冒涜である。そしてサミット以降「軍事基地容認」の潮流が勢いを増していることは本書のあとがきでも指摘されているとおりである。
 沖縄でこの潮流の先頭に立っていると思われる稲嶺知事が改ざん事件報道を受けてこんなことを言っている。変更について「細かいことではなくて、総論として将来の世界の平和に結びつくような形で考えて欲しいと要望している。単に沖縄のみにとどまらないものをと要望している」「沖縄戦の実相を残すことは当たり前のことだ。ただ実相というものをどうとらえるか」と。
 稲嶺知事に代表される潮流が、「反日的でない」ことに腐心して沖縄戦の実相を伝え、「総論としての世界平和」を軍事基地の機能強化という道にしかつなげられないのだとしたら、対抗するわれわれは細かいことにこだわって、沖縄の平和、アフガニスタン、パレスチナの平和、あらゆる米軍基地を抱える地域の平和、米軍機が爆弾を落とすあらゆる地域の平和をこそ考えていきたい。
 沖縄戦の史実に限らず、国家が強制した戦闘とそこで生まれた殺りくについての「靖国化」と新たな戦死者の「再生産」を許さないためには、月並みな言葉に聞こえるが、戦争体験をありのままに伝えるということが最大の武器なのだろう。     (海田 昇)

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