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フェミニズムは終わったのか             かけはし2002.6.17号より

「新ジェンダー秩序」と米国フェミニズム運動

ジョアンナ・ブレンナー


 最近の世論調査によって、米国で自分たちをフェミニストであると主張する女性の割合が九〇年代初め以降減っていることが示され、またもや「フェミニズムは終わった」という議論が活発になっている。しかし、同じ世論調査で、「女性の運動」に好意的な意見を持っている女性は十八〜二十九歳では圧倒的多数(八四%)、四十五〜六十四歳でも安定的多数(六三%)を占めている。
 この世論調査のように、米国の政治生活の中でフェミニズムが占める位置はとらえがたい。私は、フェミニズムに何が起こったのかを理解し、政治的行動の方向を考える一つの方法として、現在の時期をグローバル資本主義経済の大きな再編の中で「新ジェンダー秩序」が強化されている時期として考えてみたい。
 私は「ジェンダー秩序」という用語を、ジェンダー・アイデンティティーの社会的・文化的構成と、ジェンダーの違いにもとづいて編成されている制度化された権力・特権関係という意味で使っている。フェミニズムの第二波は本当に歴史的だった。それは文化的・法律的に擁護された排除――女性を経済的・社会的・政治的に無力化するやり方――の深く形成された構造に挑戦し、それを打ち破ってきた。
 知性や性格や能力における生来のジェンダー差という考え方は、完全に放逐されていないまでも、基本的には否定された。古い家父長制度は、それを復活させようとする右翼保守派の試みにもかかわらず、消滅しつつある。
 代りに登場してきたのが、より一体性があり、安定しており、そして固定的なジェンダー・アイデンティティーに依存する度合いが少ない新しいジェンダー秩序である。その中では、多様な家族形態およびジェンダー関係――ワーキングマザー、専業主夫、同棲カップル、混合家族、ゲイ家族――に対する社会的・文化的な承認がこれまでよりもはるかに広がっている。
 ある意味では、この新ジェンダー秩序は、女性たちの資本主義市場と自由主義的政治秩序への参加に対する前資本主義的な制約に対する、一世紀にわたる闘いの到達点である。今日では米国のすべての女性が、労働力市場や政治制度の中で男性と競争し、セックスや家庭内における関係について交渉する上でかつてない自由を享受している。
 しかし、雇用主や男性のパートナーとの間で非常に有利な交渉ができるのは、一部の女性たち――とくに階級・人種において有利な位置にいる女性たち――だけだった。彼女たちがそうできたのは、彼女たち以外に大量の低賃金の女性労働者のプールがあり、その女性労働者たちが急拡大するサービス産業で雇用されているからである。
 米国における介護の商品化の中での女性移住労働者の重要性は、世界規模の「原始的蓄積」のプロセス、つまり強制された人口移動――この中で女性は労働力市場に追いやられ、生まれた土地から追い出されている――と結びついている。
 「介護労働の国際化」は、新ジェンダー秩序の主要な特徴の一つである。賃労働者として介護労働を行っている女性――その多くは有色人種の女性――や、事務職・技術職・製造労働者として雇用されている何百万人もの女性は、女性の経済的・政治的権力へのアクセスの拡大から恩恵を受けるという点では、富裕な上位中流階級の女性と比べればはるかに不利である。
 しかし、より多くの文化的・経済的資源を持っている女性が成功しているという事実そのものが、成功は可能であることを証明している。大多数の労働者階級の女性が新ジェンダー秩序の中で経験しているジレンマは、あたかも個人的な問題、つまり選択を誤ったか、運が悪かったという問題であるかのように見えている。家庭内や労働市場においてジェンダーの格差や不平等を再生産している制約は、見えなくなっている。なぜなら、それは自由に選択した関係の中にではなく、「女性の背中に隠れている」からだ。
 これらの制約は、この国では、育児や介護のニーズを満たす主要な責任が依然として個別の家族に委ねられているという事実から派生している。たしかに家族はサービスを購入する(託児所など)が、依然として大部分の家族にとって不払いの家事労働の量は膨大である。
 育児や介護は基本的には社会の責任でなく、私的な責任であるとみなされているため、家族は大量の仕事を自分たちでこなさなければならない。この構造は、経済や政治の中で男性との関係での女性の立場を不利にする。なぜなら、それは家庭の中でのジェンダーによる分業の克服の可能性を制限し、また、育児および介護労働の価値を引き下げ、単身の母親に不利な条件をもたらすからである。
 育児や介護を本当に社会化するために、また、男性が家庭内であるいは賃労働者として育児や介護に関わるようになるレベルまでその報酬を引き上げるためには、大規模な富の再分配、政府の支出の拡大と優先順位の変更、そして雇用慣行に対する規制の強化が必要である。これらはすべて、強力な資本家の利害を直接に脅かすだろう。
 この点で、フェミニストたちが、第二波フェミニズムの成果を引き続き拡大し、擁護してきたとしても、常に期待を裏切られてきたことは不思議なことではない。一方における巨大な成果と、他方における惨めな失敗というこのパターンが新ジェンダー秩序に反映されている。

 自由主義的フェミニズムが今や米国の文化と政治で主流になっていると言っても言い過ぎではない。もちろん、この世界観は常に抵抗を受けており、特に家父長制的家族の復活を望んでいる宗教的右翼によって攻撃されている。
 しかし、社会的保守勢力はフェミニズムとゲイの権利を求める運動組織に多くの苦痛を与えてきたとはいえ、決定的な勝利を何一つ実現していない。右翼は非常に広範な社会的保守主義の課題を提起してきたが、比較的無力なグループを引きつけることができただけである。
 たとえば、中絶へのアクセスについて、彼らはティーンエージャーについては親の同意を条件とする法律を制定させ、また、中絶を公的健康保険の適用から除外させることで農村の女性や貧困層の女性の中絶を困難にすることに成功した。また、公立学校の性教育に「禁欲」教育を含めることに成功した。しかし、セックス革命の時計を元に戻すことはできていない。
 この闘争において、彼らは強力な組織を資金と持続性をもつ「選択権」派(フェミニスト組織だけでなく、それ以外の組織も含まれる)に立ち向かうだけでなく、女性のセクシャリティーの全面的な商品化を促進しようとしている強力な市場力学にも立ち向かわなければならない。
 これは彼らのホモセクシュアルに対するバックラッシュ(反動)にもあてはまる。この分野では彼らはもっと多くの成果を上げたが、徐々に押し戻されつつある。これは、メインストリームのゲイの権利グループの政治的影響力が拡大していること、ゲイ・コミュニティーの経済力が強まっていること、市民権運動や労働組合運動の主流がゲイの権利を支持するようになっていること、そしてゲイ向けのマーケットが形成され、ゲイがメディアでも可視的な存在になってきたこと等の理由による。
 女性の利益を擁護し、支持する組織は米国の政治の舞台にしっかりとした足場を維持してきた。フェミニスト組織は正当な発言権を確保し、資金を集めることができ、この今や支配的となった政治的議論の枠内に留まっている限りは政治に影響を及ぼすこともできる。この運動は(「結果の平等」ではなく)「機会の平等」に焦点を当て、(「集団としての権利」ではなく)「個人の権利」を強調する限りにおいては、広範な女性の支持を集めている。
 明確にフェミニストであると主張する女性の数が減っていることは、第二波フェミニズムの思想の社会慣習や文化への組み込みが非常に選択的で、限定的であることの反映である。フェミニズムが(「女性の運動」との比較において)「ジェンダー優先」の政治的行動や、ラディカリズムや男からの分離を意味している限りにおいて、それは多くの女性にとってあまりにも怖い、日常生活を形成しているジレンマとはあまりにもかけ離れた困難な課題に挑むものである。
 フェミニストにとっての重大な困難は、反動的右翼による「バックラッシュ」の政治ではなく、新自由主義の勝利である。市場への称賛と福祉国家の忌避、賃労働を善とみなすモラル、「自己責任」と「自立」を尊敬される成人の基準とする考え方の宣伝――これらが(宗教的右翼とは異なる)現代的右翼とでも呼ぶべき思潮の核心である。
 「新しくなった」民主党は、この基本的に保守的なメッセージについて、やや大衆迎合主義的な姿勢を示しているが、その党員たちは基本的にはこうしたメッセージを受け入れている。クリントンの「従来のような福祉は終わりにする」という攻撃的なキャンペーンは、一九九六年の「個人責任と就労の機会に関する法」へと結実化された――この法律はシングルマザーが連邦政府からの所得補助を受け取る権利を廃止した。
 クリントンがこの法律に署名したとき、多くの黒人女性や、これまで生活保護を受けてきた母親たちに取り囲まれたのは偶然ではない。福祉による「依存性の悪循環」というクリントンのレトリックは、貧しい黒人女性たちを「不当に厚遇されている福祉国家の女王」であると攻撃する人種主義者と対決するのでなく、その主張を再生産した。彼はまた、福祉改革によってシングルマザーに「施し」ではなく「意欲」を与えるという現代的右翼の主張を受け入れた。
 この枠組みは、政府が公共支出を通じて人々の生活を集合的に改善しようとする努力を不当なもの(「施し」)とみなす。代りに、国家の役割は、個人が市場に参加するのを支援することに限定される――そこでは努力する者には上向する機会が平等に与えられるというわけである。
 現代的右翼の優位は、伝統的に民主党の基盤を構成していた社会的勢力の解体と弱体化で可能になった。非常に激しい競争と無秩序な経済が、今や米国の人々の生活を支配している。
 資本主義の大きな再編の時期にはよくあることだが、古い経済秩序の下で形成されてきた労働者階級の政治的・経済的組織――それは以前であれば、十分ではないにしても多少は役に立っていただろう――は現在、新しい状況に全く対応できない。古い形態の労働組合運動が新世界経済秩序の中で役に立たないのと全く同様に、古い形態のフェミニズムも新ジェンダー秩序の中で役に立たないだろう。
 一九六〇年代と七〇年代には、ラディカルなフェミニズム運動が労働組合(その大部分は官僚的で、闘争力をなくしていた)とともに発展し、重要な成果を上げることが可能だった。今日、フェミニズムの運命は労働組合運動、そして他の形態における資本に対する集団的抵抗の運命と結びついている。フェミニズムは、資本から実質のある譲歩をもぎ取ることができる広範で戦闘的で体制破壊的な運動の脈絡の中でのみ、労働者階級の女性のジレンマに働きかけることができる。
 この新しいフェミニズムは、その組織においても政治においても、第二波フェミニズムとは非常に異なった様相を持つだろう。歴史的に、フェミニズムはジェンダー抑圧に対抗する女性による、女性のための運動だった。ジェンダー抑圧が他の支配関係とどのように結びついているかという問題は、中心的問題として取り上げられたことがない。とはいえ、労働者階級のフェミニストや有色人種のフェミニストたちはこの問題を考えざるをえなかった。
 第二波フェミニズムの中で、有色人種のフェミニストたちを中心とする重要な政治的傾向が存在した。彼女たちは、大部分の女性たちの経験とアイデンティティーを形作っている複数の、相互に絡み合う抑圧を反映した理論と運動の必要性を主張した。この洞察、つまり、ジェンダーのみ、あるいはジェンダー最優先の政治が女性の多数を動員できず、運動の中に運動外部の支配関係を再生産するという視点は、新ジェンダー秩序に対抗しうるフェミニズムの運動の形成にとって決定的に重要である。
 このことは、ジェンダーを基礎とする組織が人種的抑圧や階級的抑圧の問題を取り上げるべきであることを意味している。たとえば、ドメスティック・バイオレンスと闘っている女性組織は、警察や裁判所や矯正施設との緊密な協力関係を通じて、その主張の正当性についての支持を拡大してきた。これらの組織は、こうした協力関係を壊すリスクを冒しながら、刑務所と企業の癒着や、死刑制度や、「麻薬との戦争」の名の下での貧困の犯罪視に反対している草の根の運動と連携しなければならない。
 抑圧が相互に絡み合っているということは、また、女性のリーダーシップや、ジェンダーの抑圧の問題が人種主義反対の運動や労働組合運動の中で、より中心的な問題として取り上げられなければならないことを意味している。第二波フェミニズムの決定的に重要な成果の一つは、女性の政治的リーダーに対する見方の変化である。
 セクシズム(性差別主義)が女性を六〇年代の左翼から離反させたが、今日では多くの草の根運動の中で、女性が男性とリーダーシップを共有している――大学におけるスウェットショップ(超搾取工場)反対運動、カリフォルニア州における移民排斥に対する高校生の運動、刑務所と企業の癒着に反対する「クリティカル・レジスタンス」(重要な抵抗)運動、「ブラック・ラディカル・コングレス」(黒人急進派会議)において、また労働組合において。
 女性集会や非公式の女性ネットワークが多くの場合、組織の中にフェミニズムの観点を組み込んでいく上で効果的な戦略だった。有色人種の女性は、公民権運動の諸組織の歴史的に強固な男優位主義とヘテロセックス主義的偏見に反対する発言を始めており、すでにいくつかのケースでは成果を上げている。
 レズビアンとゲイたちは、自分たちの労働組合に対して、レズビアンとゲイの権利のためのキャンペーンを支持し、参加するように説得してきた。フェミニストの労働組合員は、自分たちの労働組合に中絶の権利を支持する声を上げるよう働きかけてきた。
 確かに私たちの運動は弱いし、現在は守勢である。しかし、フェミニズム運動や人種差別主義反対の運動、ゲイ解放運動の成果は、歴史上最も重要な、広範な連合形成の可能性を開いている。
 この二年間に、WTO(世界貿易機関)や世界銀行・IMF、G8などに焦点を当てたグローバル資本主義に反対する世界規模の運動が、左翼に新しいエネルギーと希望をもたらしてきた。労働運動と環境運動の連携は、巨大なラディカルな可能性を持っている。
 しかし、この運動の中で、人種差別主義とジェンダーの抑圧の問題は、有色人種の貧しい男性への迫害(投獄)、シングルマザーへの社会保障の拒絶、公共サービスの切捨て、人間的な権利としての育児・介護の不当に低い評価などの問題と共に、中心的な問題であることを確認しておこう。これらの問題が米国における「構造調整」の姿であることを忘れてはならない。
(米「アゲインスト・ザ・カレント」誌3/4月号)


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