|
W杯中のスト中止を強要するな政府は労働運動弾圧をやめろ |
ワールド・カップ(W杯)の評価戦を見に多くの人々が競技場や街頭に群らがっている時刻に二万余の労働者たちは道路に座り込んで労働運動への弾圧中断などを要求してシュプレヒコールを挙げた。彼らは@労働時間の短縮A国家基幹産業の売却反対派B公務員への労働三権の保障C不正・腐敗の一掃なども要求した。「W杯が名実ともに全国民の祝祭の場となるためにも『W杯期間中のストなし』ばかりを強要する政府は労働運動への弾圧を中断すべきだ」と主張する。労働者たちがスト現場でない仕事の場や生活の現場で、だれよりも熱情的に応援歌を歌うW杯を期待したい。――ソウル・大学路、民主労総主催で開かれた「全国労働者大会」で。(「ハンギョレ21」第411号、6月6日、キム・ジョンス記者)
僑胞社会を揺るがす在米韓国青年の日本軍慰安婦被害訴訟
彼の名前はキム・ドヒョンだ。歳は二十四。友人らは彼をDKと呼ぶ。韓国語をとつとつと話し、スペルは間違うけれどもハングルも、そこそこに書ける。米国フロリダ州で生まれ、ずっとそこで育ったDKはテムパ市で金融コンサルタントの仕事をしている。移民一世の彼の父母は二十八年間、朝早くから夜遅くまで働きづめだ。父は調経事業を、母は八百屋を経営している。
DKはコリアン・アメリカンである父母とは違ってアメリカン・コリアンだ。父母は韓国人として米国で暮らしているが、彼は米国人として韓国人の父母と暮らしている。だが彼は自分の遺伝子の中に韓国人の集団無意識が伝わってきていると信じている。そうでなければ日本軍強制慰安婦だったハルモニ(おばあさん)たちの証言に胸を震わせ涙をあふれさせられなかっただろう。
「軍人らが来た。一人ずつ呼ばれると部屋に入って行かなければならなかった。刀で服を裂き性暴力をした。反抗すると、わけもなく殴った。週末には二十〜三十人を相手にしなければならなかった。とても痛かったし、とにかくひもじかった」。舞台の上で切実な証言が次々と語り継がれた。
五月十七日、米国フロリダ州テムパ市のコンベンションセンターで開かれた「隠された真実:二〇〇二年と挺身隊問題」の会場だ。韓国の「ナヌメチプ(分かち合いの家)」から招請されたイ・オクソン・ハルモニが十六歳で中国・延辺の慰安所に引っ張られて行き、味わったことを証言している。米国人と韓国人が半々ぐらいで総勢五百余人の傍聴客らが緊張した表情で聴いている。舞台の上には性の奴隷として引っ張られて行き殴り殺され、飢え死に、銃殺された女性たちの魂を悼み称える黄色のバラ束が置かれていた。
ハルモニの証言が終わると司会を担当していた地域放送の中国系アンカーが、催しを主催した一人の青年を呼んだ。DKキム・ドヒョンだった。彼は「慰安婦問題は韓日間の過去史の問題だけではなく、全世界の良心と人権の問題」であり「生き証人であるハルモニらが逝かれる前に一日も早くキチンと解決されれば、と思う」と短いながら、日頃の思いを語った。
九二年にワシントンで挺身隊問題対策委員会が結成されて以来、九八年六月の連邦議員会館での展示会を皮切りに米国の各所で日本軍強制慰安婦巡回展示会が開かれた。日本側の全方位的妨害によって催しができなくなることが多かったし、そんな中で可能な開催場所は大学のキャンパスだった。今回の行事は民間団体が大衆的な空間で初めて慰安婦関連の行事を開いたという点で注目に値する。
この民間団体はDKが設立したアジアン・太平洋系人権団体(APAAF)だ。現地の反応も熱いものがあった。テムパ市長は行事が行われた五月十七日を「慰安婦の日」と公表した。放送は三十分ほどの特集番組を編成し、新聞は主要企画ニュースとして慰安婦問題を扱った。二十四歳の若者が、これらすべてのことをやり遂げたという事実に僑胞社会は、どよめいている。
この日、会場には米国全域からやってきた韓国系の若者たちが特に目についた。彼らはロスアンジェルス、ワシントン、ジョージア、テムパを結ぶネットワークを通じて慰安婦問題解決のための世論形成をする予定だという。彼らは、それぞれに違った情緒と経験とを持っている。DKとともにテムパ市で行事を準備した親友らも同様だ。キム・ソニョン氏(20)は大学生物学科の三年生であり、チョン・クワンジン氏(27)はソフトウェア・エンジニアだ。二人は僑胞二世だ。ジェニー(29)は大学女性学部の助教授であり、韓国からの養子縁組みだった。けれども彼らは慰安婦問題に衝撃を受けて行動に乗り出したという共通点がある。
高校時代からさまざまな課外活動で頭角を表したDKは大学に入学してアジア系学生の代表をした。組織力と推進力がずばぬけたこの青年は九八年三月、スタンフォード大学で開かれた全米駐韓人学生総会に出席して、人生をくつがえすほどの経験をする。慰安婦だったキム・ユンシム・ハルモニの証言を聞いたのだ。
「私は泣き続けました。ほかの参加者たちも、みんな泣きました。一度も聞いたことのないものでした。それなのに日本政府は賠償どころか謝罪もせず、わが政府はじっとしているというのが驚きでした。私のやれることが何かありそうだ、ぜひともそれをやらなければ、と思いました」。
二〇〇〇年に学校を卒業したDKは翌年、韓国を訪れた。九カ月間、延世大語学堂で韓国語を学んだ。韓国でさまざまなアルバイトをした彼はレコード会社のラジオ広告に出演したことが最も印象的なことだと言う。面白いことはたくさんあったが、韓国は「米国フロリダの人間」である彼が暮らすには余りにも寒く苦労した。再び米国に戻り金融コンサルティングの仕事を始めたDKは、ずっと「果たさなければならない宿題を果たしていない気分」だったという。慰安婦ハルモニの肉声がずっと胸を打っていたからだ。
証言を聞いてからちょうど二年後の昨年七月、とうとう事を起こした。「ビジネス・コンサルティングの仕事は後になってもできるが慰安婦問題は急がなければなりません。生存者たちが一人、二人と逝ってしまわれるじゃないですか。私が何でもできるわけではないけれど、糸口はつけることができる、と思いました」。
証言会であれ展示会であれ、公論の場を広げていってみれば慰安婦・強制徴用の被害訴訟の力になれるだろうとDKは思う。米国は陪審員裁判の特性上、世論が裁判の結果に大きな影響を及ぼすからだ。ナチの被害者たちがドイツ企業を相手に集団訴訟を提起し、七十億ドルに及ぶ賠償金の助成に合意したのにも米国や全世界の世論が大きな影響を及ぼした。ドイツに対するイメージが悪くなりドイツ製品に対する不買運動が広まる勢いだった。結局、九九年末、ドイツ政府と企業が半分ずつ賠償金を負担し、「記憶・責任・未来」財団は、この基金を被害補償や歴史教育に大切に使っている。
九九年から米連邦の外国人不法行為賠償請求法やカリフォルニア州の徴用賠償特別法によって提起された慰安婦・強制徴用被害者の集団訴訟は訴訟棄却という険しい山を通過している。ファン・グムチュ・ハルモニを代表原告とした慰安婦訴訟の場合、9・11テロ直後の昨年十月四日、日本との関係を考慮した米国行政府の介入によって結局、棄却された。現在、韓国、米国、日本の人権諸団体の控訴審法廷に「被害者らが法に訴え、加害者らを法廷に立たせる機会を奪うな」と法廷助言書を出している。
「テムパ市には韓国人たちが一万三千人ほど住んでいるが、みんな身一つで南部の地を開拓した方々です。ところで不思議です。フィリピン会館もあり中国会館もあるのに韓国会館はありません。韓国人らはちゃんと団結できないという話がよくでるが、力を合わせる仕事をしてみたことがないからではないでしょうか」。
APAAF設立や慰安婦証言会を前にDKを最も疲れさせた人物は、アジアン商工会議所で働いている、ある韓国人だった。彼は、日本側の人々が慰安婦関連の行事を妨害したように、執拗に行事をできなくさせようとした。「場所の問題に始まり、マスコミへの接触に至るまで余りにも疲れました。日本領事と親しいつき合いがあるとの話を聞いていたが、なぜそれほどまでに妨害したのか分かりません。けれども妨害工作は正面から闘えばいいのです。もっと恐ろしいのは無関心です」。
DKが「先頭でヘディングするように」して集めたAPAAFの基金のうち八五%は米国人や米国企業が出したものだ。韓国人たちの後援は一〇%程度にとどまった。もちろん、この団体は全アジア系を併せている団体だ。DKは共通の歴史的体験をしたアジア系は一緒にやるべきことが多いと考えている。慰安婦訴訟で韓国や中国、フィリピン、台湾の被害者たちが共同原告人であるように、ということだ。
「米国も今年が地方選挙の年ですよね。韓国系ばかりでなく、アジア系はなかなか無視できない有権者なのに、投票を余りしません。だから政治家は、なおざりにしているようです。英語をよく知らず、投票しにいけない方々も少なくありません。ボランティアを募って英語を教え、投票への参加を呼びかける考えです」。
「ロビーの国」米国では政界や議会に絶えず圧力を加えてこそ少数者の権益も人権も確立することができる。DKは、慰安婦訴訟の勝利を日本と結託した米国の主流社会を揺るがす政治的行動として考える。
「今年は韓国人の米国への移民百周年となる年です。今日は明日の過去だとの言葉があるじゃないですか。父母たちは生きていくのに大変で歴史や人権問題にかかわれなかったとしても、その子どもらはなぜじっとしていたのかと後になって後孫らが聞いたとき、答える言葉を持っているべきでしょう」。僑胞青年DKの夢は「アジア系の友人たちとともに焦らず、だが必ずや勝利する闘いをやっていく」ということだ。(「ハンギョレ21」第411号、6月6日付、フロリダ・テムパ=キム・ソヒ記者) |