かけはし重要記事

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                          かけはし2002.6.17号より

「戦争にも反テロにも反対」というスローガンについて

民衆の実力行使に内在する矛盾への判断停止

 「9・11テロ」は、ブッシュ政権の「報復戦争」と「テロ撲滅」を掲げた「グローバル戦争」を解き放った。この「報復戦争」「グローバル戦争」に反対する闘いの中に、二つの分岐が生じている。第一は「テロにも報復戦争にも反対」というわれわれを含む立場であり、第二は反動的無差別テロを賛美する革マル派や中核派などの傾向である。今回は、その中間に位置する「戦争にも反テロにも反対」という主張について検討する。


テロをめぐる反戦運動の分岐

 昨年の九月十一日のアメリカにおけるニューヨーク・ワシントンでの同時テロと、「テロへの報復」を宣言したブッシュによるアフガン侵攻というあらたな局面に際して、反戦を訴える運動は、その内部にいくつかの分岐をみた。
 一つは、私たちも参加する「テロにも戦争にも反対」を掲げる傾向である。「テロにも(報復)戦争にも反対」というスローガンは、昨年「9・11」直後の九月十七日に行われた国会請願デモで(おそらく)はじめて公然と掲げられ、以降十月の連続行動には、ほとんどの集会で千人を大きく越す結集をかちとり、PKO法反対闘争以来の新たな広がりを作り出した。
 もう一つは、「9・11は被抑圧民族の怒りの爆発」というような、中核派、革マル派に代表される傾向である。『かけはし』紙上でこのような傾向に対する批判がすでになされているので、ここではかれらへの批判は展開しない。
 そして、この稿で取り上げるのは「9・11は支持しないが、『テロ』と『戦争』を並列させて反対するのは誤りではないか」「いま『反テロ』をスローガンにするのはブッシュやシャロンの『反テロ』に同調する結果になり、民衆をブッシュの側に追いやるのではないか」という傾向である。
 共産主義者同盟(蜂起社 以下蜂起派と略)、共産主義者同盟・戦旗派(以下戦旗派と略)、統一共産主義者同盟・労闘―労活評らで構成する「10・14反戦闘争実行委員会」とその継続している共同行動はその傾向を多く含み、そのスローガンから「テロ糾弾」あるいは「テロ反対」という主張は見受けられない。
 蜂起派と戦旗派は、「テロにも戦争にも反対」というスローガンと、それにもとづく運動に対して以下に引用するような態度を打ち出している。
 「『テロ』という用語が政治的に多用されているその『いかがわしさ』に無自覚なまま、しかも、これを大衆運動・反戦運動の『踏み絵』に(平然と)するようなあり方やこうした論理に基づいて『テロにも戦争にも反対』というのは、間違っているのではないか」(蜂起派機関紙『赤星』5月号 槙渡論文)。
 「われわれは無差別テロルを否定するし、階級闘争、民族解放闘争をテロリズムに一元化することにわれわれは断固反対する。しかし、帝国主義・資本に対して武装闘争なくしてプロレタリア革命の勝利はない。一方で、当然のことながら、支配階級は、労働者階級人民の側からの暴力を『テロル』と呼ぶだろう。今問われているのは、『テロル』を戦争から切り離し、戦争以上の悪のイメージを作り出した帝国主義の宣伝との対決である。(中略)『テロルも戦争も反対』のスローガンで暴力革命を否定し階級闘争の武装解除を進める思想とも、はっきりと分岐し、反帝潮流の建設に邁進していかなくてはならない」(戦旗派機関紙『戦旗』新年号論文)。
 とりわけ蜂起派は「戦争にも反テロにも反対」というスローガンを打ち出し、機関紙上でその論を展開している。ここでは、主に蜂起派の主張を取り上げることで、この「戦争にも反テロにも反対」というスローガンを検証したい。それは、依然として反戦運動、ひいては社会主義を目指す運動が「テロ」あるいは「(革命的)暴力」といかに向き合うべきか、という命題が私たちの目指す未来社会と密接につながっていると思うからである。

「テロにも戦争にも反対」とは

 まず明確にしなくてはならないことは、私たちの掲げる「テロにも(報復)戦争にも反対」というスローガンは、九月十一日の巨大な犠牲とブッシュによる即座の「報復宣言」、そして着々と進められる戦争準備という情勢の中で、「9・11」に対する評価を抜きにして「反戦」を掲げることは出来ないという立場から打ち出されたものであるということである。ここで言われている「テロ」とは、なによりもまず「9・11」を指しているのであり、「テロ一般をすべて否定するのか」というような批判はそもそも乱暴である。
 全世界に衝撃を与えた九月十一日のニューヨーク・ワシントンの同時テロは、とりわけニューヨークにおける無惨な破壊の映像を通して、あのテロを実行した者たちに対する憤りと怒りを圧倒的多数の人々にかき立てた。
 その怒りを「報復と戦争」に組織し、動員していくブッシュに対して、「愛国運動の嵐」が吹き荒れるアメリカの中からさえ、全体から見れば少数とはいえ湾岸戦争時よりも力強い反戦運動が沸き起こっていった。それは、ワシントン・ニューヨークで起こったような破壊はいままで世界各地でアメリカが作り出してきたこと、そして民衆に充分な証拠も示さず「報復」を口にし戦争を準備する欺まん、また「テロ」との因果関係が不明確なまま世界最貧困の一つであるアフガニスタンで新たな殺戮戦争が行われようとしていることなどへの異議申し立てとして、ベトナム反戦を彷彿させるような反戦の闘いが世界に広がった。
 欺まんに満ちた「報復」という名の大量殺人が行われようとしていることと同時に、そのきっかけ、口実を与えた「9・11」の大量殺人を許せないと考えたからこそ、このスローガンに多くの人々が結集することになる。それは時宜を得たスローガンであったし、あるいは理不尽な暴力(国家、あるいは「反体制」のそれを問わず)を恐れ、そして憎む民衆の自然な感情を表現したスローガンだと言うことも出来るだろう。

論証なき論理のスライドとデマ

 蜂起派は「9・11テロ」に対しては、批判的な見解を示している。「9・11称賛論者は『原爆投下もテロ事件も無差別大量殺人である点では同じ』という長崎の被爆者の声を聞くべきであり、反核を唱える資格などないことを自覚すべきだ。大衆運動への絶望と反米一国主義がテロリズムを生み出す根拠だ」。
 しかし、一方で「『テロと戦争』を同列に考えたり、『9・11テロ』とパレスチナの自爆攻撃を同一視する見方――非難も称賛も――も間違いだ。とりわけ、『テロリスト』のらく印を押すことによってパレスチナ民衆の殺りくを正当化しているイスラエルのシオニストや帝国主義者らの倒錯したレトリックとデマゴギーにすっかり取り込まれ、そのプロパガンダを利することになっている。一体、『テロに反対』という立場で、インティファーダ(民衆蜂起)に立ち上がっているパレスチナ民衆や今や反グローバリズム運動の先駆け的存在と見なされているメキシコ・チアパスで武装蜂起して闘っているサパティスタ(EZLN)に連帯できるのだろうか」と論証なしに論理がスライドする。
 その批判には「テロにも戦争にも反対」を掲げる反戦運動も含まれているのだろうが、「テロにも戦争にも反対」を掲げる反戦運動は明確にイスラエルの侵略と虐殺を糾弾し、その占領の不当性を訴える国際的行動と連帯している。蜂起派は他の運動潮流を批判するからには、私たちがどのように「帝国主義者とシオニスト」を利しているのかを示す義務がある。
 そして、「9・11」に関して言えば、その大量殺人を糾弾する理性もまた数多く示されている。アフガニスタンから、そしてパレスチナから、そしてチアパスから、そしてグローバリゼーションによって貧困に突き落とされた世界各地から。とりわけ、アフガニスタンやパレスチナと真に連帯するということは、その新たな侵略の引きがねをひく結果ととなった「9・11」を徹底的に弾劾することなくしてはありえないのではないだろうか。
 機関紙上では展開した「9・11」批判を「テロ一般を否定しない」という言葉の陰に隠してしまい、街頭での行動などにおいて「9・11」を批判も弾劾しないという態度は、ほんとうにアフガニスタンやパレスチナの人々と連帯しているのだろうか。「革命的暴力とテロ」を同一視している圧倒的多数の日本の民衆の意識を変え、信頼を勝ち得ることが出来るのだろうか。
 蜂起派は「『ブッシュ・ドクトリン』―『反テロ国際協調体制』も『テロにも戦争にも反対』の運動論も、ともにパレスチナ問題でその破綻を露呈したと言えまいか」と断を下し、「我々は明確に『戦争にも反テロにも反対』の立場を貫いて反戦運動を前進させていきたいと考えている」との立場を表明する。
 「9・11」以降、日米問わず「反テロ」を口実とした戦争と一体となった治安強化と民主主義と人権の制限が押し進められていることは論を待たない。日本でも、「9・11」とともに「不審船事件」などが政府によって大いに利用され、新たな海外派兵が強行され、有事法制化が国会で充分な議論もされず、民衆のコンセンサスも不在なままで強行されようとしている。「反テロ」と言われると、なんとなく納得してしまう社会的状況と雰囲気が作られていることもたしかだ。それならば、「テロにも戦争にも反対」を掲げる反戦運動が「反テロ治安強化」の雰囲気作りに一役買っているだろうか。
 そんなことはないのだ。私たちは、「9・11」がこの戦争と治安強化の引きがねをひいたからこそ「9・11」を徹底的に弾劾するのだ。また、もし次に「9・11」のようなテロが起きれば、さらにそれが権力に利用され、民衆の権利が後退することを知っているからこそ「テロにも〜反対」に現在においてもこだわるのだ。スローガンやシュプレヒコールで「テロリスト」を阻止することは出来ない。しかし挑発者を包囲し、絶望的な暴力に対して希望を示すことは出来る。そして、国家であれ「テロリスト」であれ、民衆にとって理不尽な暴力を許さないことが、治安強化に反対して民衆自身の民主主義を作り出す主張の核心になるのではないだろうか。
 戦旗派によれば「テロにも戦争にも反対」を掲げることは、次のようなことになるらしい。「第四インター(かけはし)や構改派は『労働者や市民の運動は実力闘争や武装闘争の時代からNGOやボランティア時代に変化した、実力闘争などの主張はテロリズムである』などとパレスチナ人民、アフガン人民またはフィリピン人民の武装抵抗闘争を否定している。(中略)かれらは労働者階級人民、被抑圧民族の『抑圧に対するやむにやまれぬ決起』に対して唾を吐き掛けているのだ」「第四インター(かけはし)は『テロは文明の敵』といいなし、被抑圧民族のぎりぎりの決起を帝国主義に加担して叩こうとしている」。
 どのような論証もなくひとかけらの論拠も示さないこのようなデマゴギッシュな、ためにする「批判」が、いまの時代に現れることに驚くとともに、残念に思う。このようなデマ政治は古臭いスターリン主義のそれであり、自派の内部を固めることはできても民衆の信頼を勝ち得ることは出来ないであろうことだけはたしかだ。

民衆の実力行使への判断停止

 そして、蜂起派、戦旗派に共通する「テロ一般を否定しない(出来ない)」という態度は、社会変革の主体がどのような状況で、どのような実力行使を行うべきか、「帝国主義本国の左翼」は被抑圧民族による「暴力」をどのように評価しうるのか、という価値判断をあらかじめ放棄してしまっていると指摘しなければならない。
 あえてここで国家や権力によるものでない「テロ」を定義するならば、@「反権力」などのスローガンを唱えながら、民衆の巻き添えあるいは民衆の殺傷そのものを前提とした暴力A大衆運動を基礎としない「前衛」などを自称する者による突出した暴力B(民衆にとって)秘密主義、陰謀主義的に計画され実行される暴力C情勢、社会状況、権力との力関係などを充分に考慮しないままに実行される暴力――このようなものになるだろうか。
 これらは「挑発行為」と言うことも出来るだろう。そして、私たちは、以上のような「暴力」についてはその反民衆性を指摘することにちゅうちょはしない。私たちは主観的で独善的な「革命的暴力」が、内ゲバや連合赤軍事件などの反民衆的所業として現れ、またそれが、倍する弾圧やネガティブキャンペーンと治安強化として権力を利した経験を幾度もしてきた。
 とりわけ日本では、これらのスターリン主義的暴力の行使やテロリズムによって、民衆の記憶に現在でも「左翼の暴力の独善性と恐ろしさ」が強烈に焼きつけられ、左翼がいまだ社会的勢力として登場できていない。だからこそ「暴力」の問題はよりいっそう深く自問自答されなければならないのだ。そして、残忍な抑圧と弾圧によって「テロ」という手段に頼らざるを得ないところにまでに追い込まれている被抑圧民族の苦しみを理解することと、その選択された手段が「革命」や「民族解放」の事業に本当に有効かと問うことは、まったく別の事柄なのである。
 蜂起派は「反テロという立場ではパレスチナやサパティスタと連帯できない」と言う。パレスチナの若者たちを「自爆テロ(攻撃)」に駆り立てているのは、言うまでもなくアメリカ帝国主義に支援されたイスラエルの侵略と残虐行為である。そして同時に、このようなイスラエルを徹底的に孤立させることができない国際連帯運動の弱さである。
 パレスチナでイスラエルの暴虐ぶりを目の当たりにした人々が口を揃えて「私でも自爆テロをしたくなる」と言うようなイスラエルの行為と、パレスチナのある意味では「最終手段」である「自爆テロ」を「暴力の連鎖を断て」というように並列させることは、言うまでもなく完全に誤りである。イスラエルこそが徹底的に弾劾されなければならない。
 しかし、一方でパレスチナの「自爆テロ」に対して、やむをえないものとするような思考停止、あるいは「死を賭けて闘うパレスチナに連帯を」というような態度にとどまることは、想像力の欠如であり、知性の怠慢なのではないだろうか。
 蜂起派は「自爆テロ」をことさら起点にして現在の「パレスチナ」を捉えようとしているが、「自爆テロ」だけがパレスチナの抵抗なのではない。パレスチナの内部には屈服でもなく、テロによる死でもない「第三の道」があるとして、活動する人々も存在する(『かけはし』3月25日号 サーミヤ・ナーセルさん報告参照)。
 「抵抗を『テロ』と否定するのか否か」という乱暴な踏み絵によって「連帯の正しいあり方」を示すことは出来ない。観念的な思い入れを振りまわすのではなく、解放を求める闘いの総体を捉えようとする努力のなかからしか、内実のある「連帯」は作れない。私たちに求められているのは、私たち自身の経験の上に立った「革命的暴力」の総括であり、変革する側としての主体的な「モラル」の確立なのではないだろうか。それは堕落した観念的な暴力が民衆の不信を招き、左翼運動の世界的例外といえる衰退を招いた「帝国主義本国」日本の左翼の「義務」ですらあると考えるのだ。
 もちろん、特に民衆や変革する側の暴力の問題をなんらかの基準ですべて正邪で割り切ることは出来ないだろう。「テロにも戦争にも反対」というスローガンは、その意味では矛盾を含んでいるスローガンである。それは民衆の闘いが内包する矛盾を表現しているとも言える。このスローガンは内実を深める不断の努力がなされなければならないだろう。
 しかし「戦争にも反テロにも反対」というスローガンは、「テロ一般」ひいては民衆の実力行使一般についての判断の停止であり、実は第三世界民衆や被抑圧民族の闘いの内包する矛盾から、自らを切り離している。サパティスタは武装とともに合法的手段をも駆使し、メキシコ政府や帝国主義に「テロリスト」規定をさせない闘いを展開しているではないか。

どんな実力行使が必要なのか

 最後に、前掲した戦旗派の「当然のことながら、支配階級は、労働者階級人民の側からの暴力を『テロル』と呼ぶだろう(だから「テロにも〜反対」を掲げるのは誤り)」という立場を批判しておく。これは半分は正しいが、主体が選択した「暴力」の質を問うことを放棄する理由にはならない。
 地道な運動によって広がった反グローバリゼーションの意識にもとづいた大量の大衆動員と会場を包囲する実力闘争によって粉砕された九九年のWTOシアトル会議のあと、その巨大な成果に比して「9・11」の後に起こったような、「反テロ」の大合唱が起こっただろうか。それを口実に治安弾圧が強化されただろうか。帝国主義はそれを戦争の口実にすることができただろうか。
 「反グローバリゼーション」という大義が広範に理解されたこととともに、真に大衆的な要求を実現するための「実力行使」の結果、「9・11」後のような弾圧と反動を招くことなく、その後のジェノバへと続く反グローバリズム運動の津波が沸き起こったのだ。
 ジェノバサミットを三十万人が包囲した闘いで警官に射殺された青年に、G8首脳たちは「反グローバリゼーション」という圧倒的な大義の前に「悲しみと追悼の意を示す」という茶番を演じなければならなかった。少なくともG8が「暴徒は殺されて当然」と言い放つことはできなかったのだ。
 ホスト国であったイタリアの首相であるベルルスコーニは「サミットは再考されるべきで、このような形のものは今回が最後になるだろう」とまで語った。ジェノバでの弾圧は、商店の破壊を目的とした一部の集団の挑発行為に起因していることも指摘しなければならない。しかし、総体としての闘争は、広く支持され、死者が出るほどの闘争になったにもかかわらず、ギリシャにおいては、八〇%前後もの人々が「反グローバリズム運動を支持する」とジェノバ・サミット直後の世論調査で答えたのだ。
 「大義」をうちたて、その「大義」が広く理解され、それに基づいた真に大衆的な実力闘争は、一部集団の陰謀的な「テロ=挑発」と比較して、そのもたらす成果も政治的な意味も、まったく違うのだ。私たちが、どのような「実力行使」を支持し、あるいは自ら作り出していくべきか、明らかなのではないだろうか。 (二見 陽)


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