| ドイツ「労働と社会的公正のための党」(WASG)が左派を統制処分 かけはし2006.8.14号 |
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社会自由主義政策に対するあまいまいな態度と選挙戦術 |
「反逆者」が提出した疑問
四月二十九日に行われた「労働と社会的公正のための党―選挙オルタナティブ」(WASG)の大会は、その短い歴史の転換点となった。広範な左翼政党を作り出すための左翼党―PDS(L・PDS)との融合は、すでに決まったことであり、二〇〇七年七月に恐らく融合は起こるであろう。
すでにドイツ連邦議会にはWASGとL・PDSの共同議会グループが存在しているので(五十四人の連邦議会議員、そのうち十二人がWASG)、拡大鏡で政治的情報を研究する習慣のない多くの人々にとってはこの広範な左翼政党がすでに存在しているのと同じであることに、われわれは留意する必要がある。しかし、大会を分裂させたのは、特に社会自由主義的政策に対する新しい党の態度、したがって党の選挙戦術であった。
WASGの二つの州レベルの連合、すなわちベルリンの連合とメクレンブルク・フォアポンメルン州の連合が、地方選挙で優位に立つために、SPDとL・PDSの連合政権である地方政府の政策を批判することを事実上決定した。彼らは独自候補者リストを発表した。つまり、L・PDSと争う立場に立ったわけである。
独自候補者リストを発表した動機は明白である。それは、下位パートナーとしてSPDと共同統治し、新自由主義政策を適用し、民営化や反社会的緊縮政策を適用しているL・PDSの政策に対する反逆である。
特にベルリンにおいては、これらの政策は驚くほど攻撃的である。たとえば、ベルリン地域は、不払い労働や実質賃金低下を強制している公共部門の雇用者団体を放置し、助長している。
矛盾しているように見えるが、WASG内では、ほとんどすべての人が、これらの政策を批判している(オスカー・ラフォンテーヌ自身もそうである)。しかし、大多数は、同時に独自候補者リストを神聖冒涜行為として批判し、独自候補リストを推進する人々への統制処分の考え方を受け入れている。
「反逆者」の側は、大きな共同の党、大きな左翼政党を望むが、ただしそれは信頼できる党でなければならず、既成の新自由主義的政治的合意に事実上従うようなことをしない政党でなければならないと主張した。また、L・PDSと競合する立候補は冒険主義の気味があるが、連邦指導部(ドイツ共和国は連邦である)が統制処分によって自分たちの意見を連邦に押し付けることは受け入れられないと考える者もいる。
処分を撤回せず「正常化?」
四月二十九日の全国大会においては、ベルリンとメクレンブルク・フォアポンメルン州のWASG連合に対する統制処分を認めないとする動議は、とりわけわが同志チエス・グライス(WASG連邦指導部のメンバー)の支持を受けたが、大会代議員の過半数ぎりぎりで拒否された。したがって、大会は、二つの反乱連合に対する統制処分を含めて、連邦指導部多数派が何でもできるようにすることを支持したわけである。
何百万もの人々が望んでいる新しい左翼政党の創設に「疑問を提出」した「セクト主義者」に反対する大掛かりなキャンペーンが行われた。このキャンペーンは、トロツキストに対する魔女狩りを伴った。
大会多数派は、オスカー・ラフォンテーヌの権威と脅迫によってぎりぎりで勝利した。彼は、公式には発言権がないにもかかわらず(彼は代議員ではない)、三回も論争に介入した。また、彼は大会直前に、指導部がこの点で多数を勝ち取れなければWASGを分裂させるという脅迫を行っていた。また、L・PDSの指導者たち、特にロド・ラメロフやディートマー・バートシュのような機構の幹部たちは、「反乱連合を懲戒しなければならない!」と繰り返していた。
大会の数日後、WASG指導部は、ベルリンとメクレンブルク・フォアポンメルン州の連合指導部を罷免し、統制委員が指導部に代わることを決定した。ベルリンでは、連邦議会議員のフセイン・アイジンがこの役割を演じた。彼の最初の演技は、ベルリンにおけるWASG立候補発表の撤回であった。
大会では彼の目の前に、二〇〇六年九月のベルリン地方選挙への立候補を再確認しているWASGベルリン連合の代議員団がいた。したがって、フセイン・アイジンがこれを発表したのは、大会ではなく、「討論フォーラム」においてであった。対立は、もちろん政治的なものである。しかし、双方が訴訟に訴えており、裁判所がどのような決定を行うかは誰にもわからない。
WASG指導部はすでに大半がL・PDSの機構によって支配されているが、WASG指導部のこの演技は、他の地方や都市でも繰り返されている。国のいたるところで、「邪悪な精神」を孤立させ、あらゆる地位から罷免し、排除しようとする試みが行われている。すでに失望が広がっており、強い反新自由主義的、反資本主義的、あるいは反官僚的アイデンティティを持つメンバーが離党し始めている。「テンデンシー」の組織化を始めた人々もいる。
社会自由主義の攻勢
左翼内のこのような紛争が政治的社会的文脈の中で起こり始めているが、そこに特徴的に見られるのは自由主義の攻勢である。アンジェラ・メルケルを首相とする大連立政府(CDU/CSU―SPD)は、ゲルハルド・シュレーダーのSPD―緑の連立政府と同じ政策を追求している。失業者に対する「ハーツIV」法は巨大な動員を引き起こしたが、さらに改悪されようとしている。なぜなら「費用がかかりすぎる」と言われているためである。失業者をめぐる状況は、新しい法律の結果、さらに悪化しようとしている。
さらに、政権を握っている多数派は、税収の相当の増加に関する決定を行った。これは全体として富裕税の体裁がとられているが、ほとんどもっぱら労働者と貧困層に影響を与えるであろう。これらの政策の核心には、付加価値税の一九%への増税がある。これが新しい税収を断然代表するものである。
労働組合は、政府に反対する動員の準備をしていない。指導部の多数派は、依然として「わが党」(SPD)が政府に留まっていると考えており、したがって静かにしているのである。SPDは保守派の下位パートナーに過ぎないにもかかわらず、である。社会的レベルでは、労働組合運動は依然として守勢に立っている。
五月二十二日に始まったドイツ労働総同盟(DGB)の大会は、「人間の尊厳こそわが基準」というスローガンの下に行われた。DGB委員長ミカエル・ソマーは、何百万もの失業者、臨時労働者、貧しい非搾取労働者に言及して、大会直前に次のように語った。
「たとえ情勢は困難であっても、労働組合の闘士たちにとって、それはあきらめる理由にならない。いっしょになって、われわれはより良き世界のために、より公正な世界のために、人類が尊厳を持って生活し働けるようになるために闘う。尊厳を単なる言葉としてではなく、生活の中で具現するために闘う」。
まさにそのとおりであるが、しかし、ドイツ労働組合は伝説的な組織力で知られているが、極度の危機の中にある。ドイツ再統一後、つまり一九九一年のドイツ連邦共和国によるドイツ民主共和国(GDR)の吸収後に、労働組合員は千百万人になった(八百万人が旧GDRから補充された)。十年後の二〇〇〇年末には、七百九十万人に減少した。現在、DGBを構成する労働組合員は六百八十万人である。この枠組みの中で、飛びぬけて強力な組合であるIGメタルが三五・一%、Ver・di(公共・民間サービス産業労働組合)が三四・八%を占めている。この両者は、社会的闘争から抜け出して、新しい労働協約を締結したばかりである。
IGメタルは、現在の経済のミニ・ブームを利用して三%の賃上げを勝ち取り、労働日の休憩時間に代表されるような獲得物を多少とも防衛した。Ver・diは、公共部門雇用者側が望むほどには不払い労働が広がらないようにする協約を「勝ち取った」が、それはしばしば非常にダイナミックな行動を通じてであり、多くの公共部門労働者にとって重要な集団的闘争の経験をもたらすものであった。この二つの部門における運動は同時に起こったにもかかわらず、両者を結びつけるために何も成されなかった。それだけでなく、指導部は共同行動の可能性から、悪魔が聖水から逃れるがごとく逃亡した。共同行動は、運動が一般化されるリスクをもたらすからである。それこそ、最も恐ろしいこと、「政治化」であるからだ。
労働者の怒りを街頭へ
六月三日、ベルリンにおいて、メルケル政府と「痛みを伴う改革」政策に反対するデモが行われた。このイニシアティブを推進したのは、社会的コミュニティ運動の一部、および社会主義的革命的活動家たち、特にRSB(革命的社会主義者同盟、ドイツの第四インターナショナル支持組織)のわが同志たちである。このイニシアティブが、ATTACドイツ、WASG、L・PDS、および連邦議会の左翼党グループによって取り上げられ、彼らもアピールに名を連ねた。当初は戦闘的労働組合員たちの小さな調整グループが、人々にデモへの参加を呼びかけた。Ver・diの指導者フランク・ブリスケが、デモ参加者に対して演説することに同意した。しかし、労働組合指導部はデモを呼びかけなかった。したがって、このデモの重要性は、二〇〇三年十一月のときと同じように、ベルリン市民と周辺地域住民の中での反響の広がりと、戦闘的労働組合員の、数万の労働者を動員する能力にかかることになった。
六月三日、ベルリンの街路を二万人が行進した。労働組合の活発な支持があればもっと多くが可能だっただろう。デモ参加者は、労働組合の広範な各層を代表するものであった。とりわけ、IGメタル、Ver・di、学生団体、平和運動活動家、移民、失業者である。警察が、デモ隊に激しく襲いかかり、無差別に多くの負傷者が出た。
これは、新しい左翼政党の未来にとって重要である。「冷たい雰囲気」は、政治的左翼内の日和見主義的順応勢力にとって好都合である。反乱とデモストレーションの雰囲気は、新自由主義や反社会的緊縮政策の実施を受け入れない「反逆者」にとって有利である。日曜討論会では反新自由主義の言辞に飾られているが、実際の中身は新自由主義や反社会的緊縮政策なのである。
二〇〇四年と二〇〇五年は、SPDの危機の年であった。二〇〇六年の地方選挙では、この危機が深まっていないこと、「新しい左翼」であるWASG―L・PDSの選挙における躍進が「西」に波及しなかったこと、以前のような(得票率三〇%の壁に囲まれた)「ゲットー」に逆戻りする危機にあることが示された。労働者階級の有権者の怒りは、SPD左派や緑の党への投票によってではなく、棄権が増えることよって表現された。希望の灯を再び掲げるには、数百万ではないにしても、数十万の人々を街頭に連れ出すことが必要であろう。しかし、政治的左翼の新しい勢力が、巨大資本の秩序の下でわれわれを覆っているさめた政治的世界の一部になっていくとすれば、世界を支配するのは絶望でしかなくなる。
五月に「反資本主義アピール」が出された。これはL・PDS内の人士と左派潮流から始まったもので、WASGのメンバーを含む五百人が署名している。インターネット上で、またパンフレットの形で、広範に配布されている。発起人たちの呼びかけにより六月十日にベルリンで会議が行われ、約八十人の活動家が参加した。
五月二十日に、ドイツの地理的中心にあるカッセルで、「WASG左翼反対派会議」が開催された。二百五十人が参加したが、そのうちの五十人はベルリンWASGの反逆多数派が動員したものである。会議で採択された宣言は、以下のような内容であった。すなわち、ベルリンおよびメクレンブルク・フォアポンメルン州の地域連合に対してとられた統制処分の糾弾、党員によって民主的に運営され、社会的運動、職場、大学、学校、近隣における闘争と結びついた、広範で信頼できる新しい左翼政党の建設の要求、議会外活動を優先させ、選挙で選ばれた地位を活用して下部の動員や自己組織化を助長すること、代行主義の拒否、特にSPDとの共同統治政策の拒否。WASGの綱領作成者に従って、政府への参加が受け入れ可能であるのは、その政府が労働者および排除されてきた層にとって真の実質的獲得物をもたらす場合のみである、と説明している。
一貫した反自由主義的政策を求めて闘おうとし、労働者および排除されてきた層の利益の防衛し、資本主義に対するオルタナティブとしての「二十一世紀の社会主義」に関する論争を推進し拡大しようとするすべての人々にとって、この会議はネットワークの基礎を提供した。
この目的のために、会議は、SALZeV(社会、労働、生活および未来)協会(WASGに近いが、独立した、社会主義・マルクス主義に対して開かれた協会)を支持し、またバーチャルな存在であるwww.linkezeitung.deおよびwww.linksparteidebatte.deを支持している。また、主として東ドイツを拠点とする「反資本主義アピール」勢力といっしょに、秋に広範な会議を共催することを呼びかけた。
▼マヌエル・ケルナーは、月刊紙「ソツィアリスティッシェ・ツァイトゥンク」(社会主義新聞」)の共同編集者で、ドイツの第四インターナショナルの二つの加盟組織の一つである国際社会主義左翼(ISL)の調整委員会のメンバーである。
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